糸と蜘蛛

犬若丸

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1章 神様が作った実験場

ずれ 8

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 闇底へ身を落として数秒後、クッション、マッドレス等の山に着地して転ぶ。先に落ちていた瑠璃は地下一階のエレベーターの扉を開けようとしていた。
 扉と着地点では高さの違いがあり、扉は瑠璃の肩ぐらいの高さにある。扉のわずかな隙間に指を挟めて力強く引いてみるも、彼女の腕では1mmも動かない。
 手助けしようと布地の上で均衡を保ちながら歩き出す。その後ろでカンダタに続いて落ちてきたのは1体の鬼だった。
   応戦しようを身構えるも、足場の悪い布地の山では立ち回るのも難しい。
   すぐに2体目が落ちてくる。続いて3体、4体となって鬼の餌場となってしまう。カンダタも瑠璃も容易に予想できた。
  「開かない!」
  悲痛が混じった瑠璃の怒声。諦めて手放すと、ポケットから白い握り鋏を取り出していた。
   カンダタが確認できたのはそこまでだった。鬼がこちらに向かって走ってきたのだ。バールはなくしてしまった。素手で応戦するしかない。鬼と対峙して身構えるも、カンダタが予想していたことにはならなかった。
   空気を切る音が流れるとあの身の毛も弥立つ悪臭が嗅覚を襲い、鬼はそれから逃れるように退く。
 「何よ、これ」
振り返ってみるとエレベーターの下半分がぽっかりとなくなっており、床から赤色路の粘液が滝のように流れていた。瑠璃は正体不明の滝に慄いていた。
 瑠璃が扉を両断した事実がそこにあったが、それよりも滝から漂う悪臭がカンダタの思考を鈍らせる。
 鬼は食欲がなくっており、漂う悪臭が弱らせていた。害はないと判断した瑠璃が焦りも見せずにカンダタに指示を出す。
 「上げて頂戴」
 赤い滝の頂を望む瑠璃に苦い気持ちになりながら、脚を持ち上げる。床に手を付ければ、袖は赤く染まって、ブラウスやシャツにまで謎の液体が染み込む。それも構わずに腹ばいになるとカンダタに手を差し出す。
 躊躇いがあった。マスクも鼻栓も無意味で、赤い粘液の悪臭はカンダタの脳に直接響かせていた。けれど、引き返す術もない。
 覚悟を決めて這い上がる。
 「本当に寄ってこないのね」
 カンダタを引き上げた後、懐中電灯で隅に潜む鬼を照らす。扇状の光線に鬼は目を眩ませて身を丸める。
 瑠璃を上げてカンダタが引き上がっていても、鬼は動かなかった。あれほどの凶暴で暴食ばかりの生き物が光線と悪臭を前にして、罪を懺悔する弱者と成り果てていた。この鬼に人を襲う余力は残っていない。
 扇状の光線は方向を変えて、カンダタたちが進むべき道を照らす。
 道と行ってもそこに道らしいものはない。地下駐車場のどこまでも続く闇と虚無の空間が広がり、コンクリートの重く暗い柱が均衡な間隔を空けて何十本もの列を作る。雫が赤い粘液の泉に落ちる水の音が不気味な静寂を飾る。
 臭いのもとである赤い泉は気色悪い泥のような粘着性を含み、足元まで浸る。腐った肉の臭いと鮮魚の生臭さ、あとは嘔吐した後に残る酸味。それらが混ざった悪臭がカンダタの顔を歪ませた。
 「そんなにひどい?」
 鼻栓もマスクもしていない瑠璃が聞いてくる。
 「頭が、おかしくなる」
 「臭いならすぐに慣れるわよ」
 そんなもの、期待できない。弱々しく首をが振ってみるもその深刻さは伝わらない。
 「まぁ、戻れないし、進むしかないわよ」
 これまでにないほどの深いため息を吐き、そのうちに瑠璃は何事もなく、歩いて行く。
 「君は、俺よりも、勇ましい」
 鬼にも血の沼にも屈しない姿は感銘とまではいかないが、妬んだ言葉を送りたくなる。
 「あなたはあたしより臆病よね」
 彼女もまた言葉を返す。やはり、彼女を讃えるには彼女は嫌味っぽい。とても憧れは抱けない。
 しばらくの間。2人は真っ直ぐ歩いていた。これほど警戒を怠ったことはない。悪臭はカンダタの思考も歩調も遅らせていた。それでも、生物の気配は感じられなかった。この悪臭さえなければ穏やかな時間になっていたはずだ。
 当然、カンダタの歩調も遅くなっていたわけだが、そこは瑠璃が歩調を合わせてくれていた。瑠璃としてはカンダタを置いて行くつもりはなかった。彼女が一人で地上に戻れば鬼と対抗する手段がなくなってしまうからだ。瑠璃にとってカンダタは武器の一つでしかなかった。
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