糸と蜘蛛

犬若丸

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1章 神様が作った実験場

ずれ 7

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 固く閉ざされた観音扉。押してみるも動かず、引いてみてもこれもまた同じだった。
 「違うわよ。エレベーターのドアはスライドさせるの。横に引くのよ」
 何もしない瑠璃が逆なでさせる助言を伝える。腹がたったがその通りに横に引いてみる。すると、今度はすんなり扉が開いた。
 観音扉の内側は何もない四角い虚空が上から下まで続いていた。カンダタが見下ろすと底なしの陰が今にもカンダタを飲み込んでしまいそうだった。
 「何も見えないわね」
 懐中電灯で下を照らすも底なしの暗闇は底なしのまま何も映さない。
 「る、りの、案も俺のと、変わり、ない」
 「少なくとも落下死はしないわ」
 瑠璃は雑貨店から持ち出した置時計を虚空の闇に落とす。音はすぐに響いた。時を刻まなくなった時計が誤った使い道で役に立った。
 「そこまで深くないみたいね。なんとかなるんじゃない?」
 「ほん、き?」
 あの悪臭はここまではきていない。それでもこの下に忘れようがない臭いがあるのだと考えると気分が悪くなった、
 「屋上から跳び移る以外の案があるの?」
 口が閉ざし、沈黙しか返せない。
 「ないわね。なら、次行くわよ」
 瑠璃の策は簡単だ。布団、ぬいぐるみ等を落として即席の衝撃吸収材を作る。あとは2人が飛ぶだけだ。正気の沙汰じゃない。彼女はどうかしている。
 消極的なカンダタに対して瑠璃はてきぱきと働いた。片腕にぬいぐるみを抱いて片手で懐中電灯を持つ。その懐中電灯がなければもっと運べるはずなのに、なぜか手放さない。構内は暗いが全く見ないわけではない。カンダタからしてみればあの懐中電灯は邪魔でしかなかった。
 それに彼女の言動にはおかしな所がある。独り言が多いのだ。しかも、誰かに話しているような喋り方で決してカンダタには向けられていない言葉だ。「見えない友達」がいると瑠璃は言い張って、悪戯っぽく笑う。それに関しては不審に思うが、それ以上は気にしないことにした。
 「これは、しとね?」
 カンダタのわずかな記憶から最も近い物を上げる。彼が手に取って聞いたのは丸顔の黒猫でソフトボア生地に包んだふわふわのクッションだった。カンダタの知っている茵とはだいぶ違う。瑠璃も茵なんてものは単語そのものすら聞いたことがない。
 「はぁ?それはクッション。その上に座ったり、抱いたりするのよ」
 「抱く?なぜ?」
 「癒されるらしいわよ。あなたも抱いてみれば?」
 黄色い瞳の黒猫と見つめ合う。瑠璃の冗談を真に受けるのも馬鹿らしく、エレベーターの闇底に落とす。
 ぬいぐるみだけでは心もとないので上の階に昇り、マッドレスを運び、落とす、をいくらか繰り返す。
 これがなかなかに大変だった。厚く、大きいマッドレスを上から下へ運ぶのだ。瑠璃は手を貸さず、軽めの掛布団をと持って、カンダタは自身より大きいマッドレスを引き摺って運ぶ。
 こんな大きく邪魔なもの何に使うのか聞いてみれば現代人はこれを強いて寝るのだというのだ。
 「わらで、寝ないのか?」
 「カンダタの時代じゃ布団に藁を入れてたわけね」
 そういうわけではないが、わざわざ修正するのも面倒だった。黙っていると瑠璃が再び口を開いて独自の歴史学を語る。
 「布団が厚くなったのは異国文化と交流した結果よ。伝統と利便性を天秤に置いたら利便性が勝ったのよ」
 エレベーターの前に立ち、瑠璃は賭け布団をカンダタはマッドレスを落とす。
 「なのに、現代は失われそうな伝統を守る人もいる」
 「それを、継ぐ奴らはだいたい、偉そう、だ。そいつらは、俺みたいな子を嫌う。だから、俺も嫌った。そうしても、腹は、膨れなかった、けど」
 「その話からすると傲慢も犬の餌にもならなかったみたいね」    
 「あと、あざけり、も」
 曖昧な記憶を辿る。カンダタに残るわずかなそれは見下す大人の目と土の味。カンダタは仕返しをするようにぬいぐるみを落とす。
 「あと、調和とか」
 その後に瑠璃がクッションに言葉を添えて捨てる。
 「友情も」
 ちょっとした言葉遊びになっていた。「犬の餌にもならないもの」2人はそれらを物に添えて吐き捨てるように闇底に落とす。
「言葉」
 「どう、じょ」
 「才能」
 「どりょ、く」
 「将来」
 「親切」
 「愛してる」
 置時計を闇底に捨てて瑠璃が言った。闇底から音は響かなかった。
 順番はカンダタになっていたが、返せなかった。瑠璃が捨てたその言葉に黙ってしまう。
 「しつれん?」
 瑠璃の傷心を計ろうとして聞いてみる。瑠璃はカンダタの情けも恋愛も鼻で笑った。
 「そう言われて育ったのよ。でも、飽きた。だから捨てたのよ。音しなかったわね」
 それは充分に布が重なったと示していた。
 「念のためにマッドレスをもう一枚、持って行きましょうか」
 カンダタはそれに賛同して上へと移動する。その階段途中で瑠璃が聞く。
 「他に捨てたものってあるの?」
 瑠璃から個人的な質問をされて思わず立ち止まる。冷たい壁で囲んだ彼女が自ら柵を越えてきた。
 「そう、だな」
 記憶の欠如が多いカンダタである。何も持っていなかったように思える。その一方、大切な小さな宝物を抱えていたようにも思える。
 「信仰、かな」
 「へぇ」
 関心を持った声が吐かれたが、その中には嘲笑もあった。気にせずに続ける。
 「先に捨てたのはあっち、だ。諦めず、に続ければ少しは、マシな人生になっていたかも。けど、俺は、広い心を持って、いない。だから、捨てた。お陰で、貧乏神も寄ってこない」
 それも静寂の闇底へ、マッドレスと共に捨てた。
 これで準備は整った。あとは闇底にこの身を捨てるだけとなった。
 改めてエレベーターの底を覗く。悪臭を想像しただけで表情が歪む。
 「そんなにひどいの?」
 「おかしくなる、くらいに」
 「仕方ないわね」
 そう言うとビニールに包装された商品の封を切ってそこから一枚、白く四角い布を出す。
 「それも、妖術?」
 傷を治したのも白い針と糸であり、白い鋏も持っていた。その法則性から白い布地も妖術の一種だと考えた。
 「マスクよ、馬鹿ね」
 瑠璃が軽く罵るとマスクとティッシュを差し出す。
 「鼻栓とマスク。すこしはマシになるでしょ」
 「ありがたい」
 口では感謝の意を伝えたが、上辺だけの言葉であった。
 彼女が差し出した鼻栓とマスクを装着する。息と声がマスクの中で留まり、息苦しい。
 「いけるわね」
 「いや、でも」
 くぐもった声が拒絶を示す。心の準備ができていなかった。時間稼ぎの為に言い訳はないかと考えていると、静かに銀の商品棚が動く音がして2人は通路へと振り返る。
 商品棚を倒したのは金色の目を光らせた1体の鬼。いや、1体だけじゃない。その後ろから2体、3体と闇に紛れていた鬼たちが姿を現す。
 「落ちるわよ」
 それが合図だった。瑠璃が闇底に落ち、同時に鬼たちが走る。迷ってはいられなかった。猪突猛進の鬼から逃れるには落ちるしかない。
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