糸と蜘蛛

犬若丸

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1章 神様が作った実験場

ずれ 6

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   暗い静寂の中でカンダタは睡魔の誘惑に負けそうになっていた。
   怪我を負ったカンダタを置いて瑠璃はどこかへ行ってしまった。カウンターの陰に身を縮ませて彼女の帰りを待つ。
 彼の意識を頼りなく支えていたのは奇しくも鬼から貰った傷で痛む度に頭を叩いて眠気を少しの間遠ざける。
   夢と痛みが対岸となってカンダタの意識は櫂も持たずに流れる波に任せて漂っていた。
 危うい状況だった。舟は夢の岸につこうとしていたのだ。頭ではわかっているが本能はいうことを聞いてくれない。
 「あんなに走ったのは久しぶり、だな」
 独り言でもいい。思い出した言葉を使って意識を繋げる。
 「へぇ、じゃあ、今までは?」
 瑠璃の声ではなかった。透き通った優しさのある声だった。いつからいたのかどこか聞こえるのか、女性はカンダタの独り言を返してきた。
 「必死だったよ」
 驚きはしたが、恐ろしくはなかった。声色が安定と温もりの色彩をしていたからだろう。その声に安らぎを得ていた。
 夢の岸に着いてしまったのだ。そうに違いない。夢ならば不思議な出来事はいくつもある。
 「諦め癖がついていたんだ。瑠璃に怒鳴られて気付いた。次があるって考えていたんだ」
 「次、ねぇ。行かなきゃいいのに」
 「それは、できない」
 「君の、待ち人?顔も忘れてるのに」
 黙ってしまう。全てを失った記憶。忘れてしまった罪悪感。それらがカンダタを黙らせた。声の主は続ける。
 「いないよ、そんな人。妄想だよ。空の穴には何もない」
 楽しげなぬくもりのある声色が棘のある台詞に変わった。これにはカンダタも苛立ちを覚える。
 「空の穴に行ったのか」
 「ないよ。でも、妄想か現実かの区別もつかないあなたよりは正論でしょう?」
 「なんだよ、それ」
 頭が深く沈む。瞼が重い。
 「起きていないと駄目だよ」
 「もう寝てるだろ。夢だって見てる」
 「夢じゃないよ」
 バアン、と破裂に似た音が耳を劈く。沈みかけた頭が起きる。目の前に瑠璃が立ち、筒状の物で壁を殴っていた。瑠璃が持っていたそれは先端から乳白色の光が発せられてその眩しさに目を瞑る。
「寝たら戻るんじゃなった?」
 「あぁ、そのは、ず」
 夢をみていたのなら、カンダタは戻っているはずだった。なのに、カンダタは変わらずにそこにいた。
 「ゆ、め?」
 「ボケないでくれる?さっきも寝言なんか言ってさ。怪我してるくせに。普通痛みで寝れないものじゃない」
 「痛い、のは、なれた」
 ふぅん、とこれまた無関心な返答をすると傷を見せるように指示を出す。
 「不思議よね。荒廃しているのに商品はどれも新品なんだから。でもよかったわ。こんな暗闇じゃ縫うのもままならないもの」
 「なお、る?」
 まだ疑惑が消えないカンダタは何度かの同じ質問をする。
 「何度も聞かないで。これ持って」
 「これは?」
 火を使わない松明を持って疑心は懐中電灯に向けられる。
 「質問ばかりしないでよ。傷口を縫うのは初めてなんだから」
 「初めて?」
 瑠璃は鋭い目つきで睨んで口を閉じる。
 カンダタの疑心は最もだ。瑠璃曰く、糸と針を使えば跡も残さずに塞ぐという。そんな術があるはずがないのに、先程の発言だ。不安しかない。
 指示通りに単衣をはだく。鬼から貰った傷は右側の腰上から背中まで3本の牙の傷跡を描く。カンダタは懐中電灯を持ち、赤い傷跡を照らす。
 瑠璃は深呼吸をして震える手で針を皮膚に通した。一瞬、身体が痙攣に似た反応を起こす。針と糸の痛みに怯えた。
 「痛いのは慣れたんじゃないの?」
 「わからないもんだ」
 大体の傷は慣れていた。できれば避けていきたいが、鬼の鉤爪も牙も食われるのも多く経験した。なのに、小さい痛みに子供心が蘇る。
 「もう死んでるのに、なんで痛がるのよ。痛みは生きるためにあるのに」
 「痛み、も忘れ、られた、らよかった」
 一本の縫い付けが終わった。彼女が言った通り、跡も残らずそのままの表皮に戻る。瑠璃の妖術に驚き、声をかけようとしたが集中している彼女は二本目へと突入する。2本目が終わるとすでに手慣れて3本目からはすいすいと傷を縫っていった。
 「実は、仙人、か?」
 「はぁ?」
 「こんな芸当、仙人か、仏か、妖だろ」
 「そうね、例えるなら妖ね」
 自嘲したような笑みを浮かべて立ち上がる。
 「元気になったら脱出するわよ」
 脱出?どうやって?喉から出そうになった言葉を飲み込む。瑠璃はまだ諦めていなかった。これはカンダタが持ち出したものだ。彼が先に言ってはならない。
 「案が、あるみたい、だ」
 「あたし、このビルの見取り図を見に行ったの」
 どこなく声量が少なくなった喋り。自信がないようだった。
 「地下駐車場、ビルの一番下に出口があるの」
 「下、地下、か」
 「知ってるの?」
 それは避けたい逃げ場だった。
 「あそこは、鬼も、ちか、寄らない」
 「鬼以外のヤバいものでもいるの?」
 渋るカンダタに瑠璃は恐怖心を煽られていた。鬼よりも悍ましいものはあるのかと想像しているのだろうが、これはもっと単純なものだ。
 「におい、が」
 鼻を摩り、顔をしかめる。鬼は地下に寄りつかないのは知っていた。それを利用して地下に潜ろうと試みたこともある。しかし、あの耐え難い悪臭は鬼だけではなく、カンダタさえも遠ざけた。
 「それだけ?」 
 呆けた瑠璃にはわからない。あの、この世のものではない悪臭。あれがなければカンダタも地下を通れた。
 「あんた、状況理解してるの。正面入り口は通れないし、非常階段も壊れてた」
 「とび、移れ、る」
 「あたしにモモンガをやれって?落下死させる気?」
 2人が共に歩ける道は限られている。瑠璃は身体能力が低くく、ビルからビルへと移るには無理があった。
「地下」
それを口にするだけで、憂鬱になる。
「どう、行く?」
一階は鬼の巣になっている。地下を行くにしてもそこを越えなければならない。
 「エレベーターから落ちようかなって」
 瑠璃の自信のなさはそこにあった。考えた案は荒っぽいものだったが、カンダタには「えれべえたあ」というものが何なのか知らなかった。
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