糸と蜘蛛

犬若丸

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6章 盤上の外で蜘蛛喰い蝶は笑う

孤独な家の中 6

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 暗い廊下をまた眺めていた。
 呆然とした頭でも第7層の仕組みを1つ理解できた。死ねば玄関に戻るらしい。
 カンダタは深く息を吸い、長く息を吐いた。
 なぜだか、抵抗できない。偽物だと分かった時点であれを紅柘榴として見れなくなるはずだ。普段のカンダタならそうしただろう。
 あの柔らかな肌に触れると久しぶりの体験に高揚し、乱れる。やせ細った姿を見ると居た堪れなくなり、庇護欲が増す。偽物でもいいから触れていたいと願う自分がいる。
 なぜ、そう願うのか。単純な答えだ。カンダタは寂しいのだ。
 1人だけ暗闇に放りこまれ、会話をする相手もなく、静寂を歩かさざるをおえなくなった。その寂しさが偽物なんかに乱される原因になった。
 そういうものに慣れたはずだったが、その慣れはいつの間にか死んでいたようだった。
 「あいつのせいだな」
 瑠璃色の瞳を持った少女を思い浮かべながら呟いた言葉は暗い静寂の中へ消えた。
 叱責する人も支えてくれる人もいない。独り言を返す人もいない。カンダタは一歩を踏み出す。
 2階には上がらなかった。玄関から廊下を真っ直ぐに進み、暗闇で隠されていた奥へと向かう。
 行き止まったところの扉を開ける。そこは脱衣所だった。さらに進んだところに浴室がある。
 その浴室にも紅柘榴がいる。ゴミ部屋や寝室にいた彼女とは別の偽物だ。
 脱衣所を進み、スライド式の扉に手をかける。開いた途端、浴室から黒い液体と共にアンモニア臭が流れ込み、脚首を冷やす。
 粘り気のある謎の液体に嫌悪しつつ、浴室を見渡す。
 電気もなく、外の光もない浴室。タイルの壁で囲まれており、銀色の浴槽は窮屈そうだ。充満しているアンモニア臭のせいで長居はできそうにない。
 蛇口の栓は全開になっており、そこから黒いヘドロが流れ狭い浴槽を満たす。
 アンモニア臭に息を止めるのも限界がある。止めていた息を再開させ、ドロドロとした液体の中に足を突っ込む。
 粘り気のある液体は足を上げる程に細い線を垂らし、まとわりつく。
 ヘドロを受け入れている浴槽の水面は波紋を作って広げるを繰り返している。
 浴槽の縁に手をかけ中を覗く。狭い浴室だ。身を隠すとしたらこの中しかない。
 ヘドロの中から泡が浮かび、蛇口が作る規則正しい波紋を乱す。浴槽の中身はカンダタを待っていた。
 泡を吹く、ヘドロの水面から上がってきたのは2本の腕。女性の細い腕だ。
 手探りしながらカンダタの顔を捕え、輪郭をなぞるように触れる。色白の手の平は水付けされたその冷たさに驚いてしまう。
 冷えた手は春の匂いがする。彼女は冷え性だ。冷たくなった身体を温めるのがカンダタの役目だった。
 懐かしく思い耽ていると頬を両手で包まれ、ヘドロの中からヘドロに塗れた紅柘榴の顔が浮かび上がった。
 春の匂いが強くなり、アンモニア臭はかき消された。
 浴室の紅桜は襲ってくることはなかった。話しかけもせず、誘惑もしなかった。ドロドロの液体が前髪に垂れ、濡れたまつげで縁取った漆黒の瞳でカンダタを見つめるだけだった。
 強くなる春の匂いはカンダタを幸せだったあの日に帰らせる。
 夏が終わりかけ、秋の足音が聞こえてくると同時に紅柘榴の手先が段々と冷えてくる。
 夜になると更に体温が下がる。なので、紅柘榴の華奢な手を包んでいた。それが幸せなひとときだったからだ。
 「また冷たくなっている」
 ヘドロで汚れた紅柘榴に話しかける。カンダタの虚ろな目は思い出の中のひと時に向けられている。
 記憶の中に浸りながら頬を包む氷のような両手をカンダタの手が重なる。
 「寒くなってきた。俺の好きな季節だ」
 それを言ったら紅柘榴はなんて返答したか。あぁ、そうだ。「嬉しくない」とそっぽ向かれた。手先が冷たくなるのは辛いから嫌だとカンダタに不満を伝えていた。
 そっぽを向く仕草も不満で頬を膨らませる表情も鮮明に覚えている。
 今、現在にいる偽物の紅柘榴はしてくれないのだろうか。
 「笑ってくれ」
 記憶ではなく、ヘドロ塗れの紅柘榴に乞う。
 感情のない偽物は応えない。
 目を瞑る。春の匂いだけで紅柘榴と過ごした色を鮮明に思い出せる。
 視界を遮断し、現実から追想へと移行しようとした。しかし、それができない。集中できないのだ。
 胸の辺りに少しずつ湧く不快感があった。そこに頭痛と目眩が加わり、次第に頭が重くなっていく。
 脚から立つ力が抜け、カンダタはヘドロが浸る床に崩れた。
 上体だけは起こそうと崩れる寸前に浴槽の縁に手をつき寄りかかりながら膝をつく。
 鼻奥に熱がこもり、その熱は下へと垂れ、上唇を濡らした。手の甲で熱を拭う。血だ。鼻血が出た。
 拭っても拭っても止まらない。めまいも強くなり、目を閉じても視界が回る。
 そこでようやく、カンダタも冷静さを取り戻した。
 どの部屋の、どの紅柘榴も、カンダタを誘惑しながら罠を張っていた。春の匂いに誘惑されたカンダタは間抜けにもかかってしまった。
 誰から見てもわかりやすい罠だ。アンモニア臭が春の匂いに変わるはずがないのだ。
 激しくなる動悸はカンダタの死気を伝えていた。吸う空気の量も少なくなり、喉から口笛に似た高音が漏れる。
 浴槽には紅柘榴が佇んでいる。ぐらつく頭で見上げてみれば人の顔とは思えないものがこちらを見つめていた。
 紅柘榴の偽物なのは間違いない。美麗だった顔に目玉が抜かれていた。歯や舌もない。ぽっかりと穴が開き、黒い空洞がカンダタを見下ろす。
 深淵の瞳が細くなり、空っぽの口腔が三日月の形に変化する。それはカンダタを嘲笑しているようだった。
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