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6章 盤上の外で蜘蛛喰い蝶は笑う
改変 2
しおりを挟む宮沢賢治作の「銀河鉄道の夜」からカンパネルラの台詞を彼女は口語る。母を残して逝く息子の台詞だ。
夕暮れの病院に紡ぐ言葉は優しく温かく、真綿で首を絞める息苦しさがあった。
彼女の優しさは自分のものではない。病院で眠るもう一人の自分のものだ。それでもカンパネルラの台詞が光弥の頭から離れてくれない。
洞窟の片隅にある小路でボール大のサイズの邪魔な岩をどかさなくてはいけないのに光弥は岩を掴んだまま思い出していた。
母と呼ぶ彼女の姿が光弥を現実から夢想へと誘う。
最初、光弥は病室で眠る14の少年が本当の自分だと実感できなかった。足繁く通う女性も本当の母親だと信じられなかった。
彼女に光弥の姿は見えない。存在も知らない。会話もできない。目も合わない。疲れて弱りきった彼女を現実の外側から眺めることしかできなかった。
もし、病院の少年が事故に遭わなかったら、弥が少年の魂を攫わなければ、もしかしたら、光弥も母親もよくある朝の日常の一部に慣れたのかもしれない。
母に小言を言われたり、学校の出来事を報せたり、そこにはお互いに笑い合える風景もある。
それらを奪ったのは弥だ。
光弥はまだ母の笑顔を見ていない。
2人分の足音がして、光弥は振り返った。そこに清音とケイがいた。
「やあ、どうも」
声をかけようといろいろ考えるが、話題になるような会話は見つからず結局、簡素な挨拶しか口に出せなかった。
「準備は?」
挨拶もなしに清音は言い放つ。対して、光弥はしどろもどろに「順調」とだけ答えた。
高野が強張ってしまうのは天井に張り付いているそのせいであった。
蛙のような顔立ちに出目金のようなギョロリとした目玉が皮膚から出ている。蛙女子は天井で目蓋を閉じずにずっと光弥を監視していた。
光弥と手を組むことにした蝶男だが、微笑んだ顔の下では疑い、目を光らせている。
そうした警戒心があるのは光弥に黒蝶がないからだろう。光弥も蝶男の人形になるつもりはない。考えただけで悍ましい。
身の毛が弥立つ脅威がいつ自分にも降るかわからず、光弥また蝶男に恐怖からくる警戒を見せていた。
清音の左手にあるものを光弥を中止する。注射器が握られていた。またケイに打ったらしい。ケイの腕は衣服で素肌が見えないが、その下には注射痕が水脹れとなり、ぶくぶく泡のように集まった鳥肌が立つ皮膚をしている。
清音に溺れ、盲信してしまったケイはケイと呼べるのだろうか。彼女と会話をするケイはいつもの通りの彼に見える。
光弥が話しかけても悪戯しても無反応だった。清音だけに自我が戻る。
相手がリモコンを持っているようだ。善悪を判断するスイッチ、喜怒哀楽の感情さえも選べない。ケイが何を想い、何を斬り、何に哀れむのかも清音が選ぶ。
他人にリモコンを握られているその現状を目の前にして、光弥は身を守ろうと自己主張せずに大人しく従っていた。
岩をどかし、その下に隠されていた穴に腕を入れる。囚人には決して見つからない蛇口のハンドルがそこにはある。
腕一本しか入らず、深い穴なので光弥が精一杯伸ばさないとハンドルには届かない。
凸凹の丸みのあるものが売れた。手探りで見つけたハンドルを限界まで回す。
「これでよし」
「終わった?」
「まぁね」
「なら、次に移れるわね」
清音が満足げに頷くのはひたすら蝶男に褒められたいからだろう。黒蝶の浸食が進んだ清音はなぜか蝶男に執着するようになった。
恋愛事などの感情は光弥に理解できない。
清音のタイプが蝶男なのか、黒蝶がそうさせているのか。
「そっちはどうなの?カンダタは?」
次に移ると言っていた清音だが、カンダタがいなくては準備したとしても徒労に終わる。
「ぐっすり寝てるよ。運んでもらってるの。彼の寝顔かわいいのよ。見てみる?」
光弥に対して無感情に素っ気なく対応していた清音がカンダタを話題にすると途端に笑顔が満ちた。
純粋で悪気のない笑みだ。故に恐ろしくなった。カンダタが何で眠らされたのかわかっているからだ。
「いいよ、興味ないし」
断ると清音も光弥に対して興味がなくなったのか、無表情になる。
袋小路から出ると頭が扇風機になった女子がカンダタを担いでやってきた。低い唸り声がカンダタから漏れる。
うるさい悲鳴はないものの「嫌だ」「虫は嫌だ」「助けて」と寝言を繰り返す。
カンダタを運ぶ扇風機女子の歩き方はぎこちない。例えるなら油を差していないロボットだ。柔肌の首と赤錆の扇風機の間から小さな歯車が転がり落ち、針金が寝癖のようにはねている。ファンも十分に回らず、ギギ、ギと不穏な音をたてる。
「あー、壊れそう。せっかく作ってもらったのに」
異様な頭部を持った4人の女子高生は蝶男が攫ってきたものだ。
彼女たちの魂を改造し、実験的に黒蝶化した結果、4人とも失敗した。
改造した魂と黒蝶が一体化したものの、溶け合わず分離しているらしい。ビニール袋の中に石と水を入れる。固形と液体だから混ざり合わない。けど、同じ袋には入っている。そんな感じだ。1つの器に別の物質が2つある。そのせいでビニール袋が破け壊れやすくなった。
「ま、いいか、まだ3体あるしケイもいるしね」
ケイの手を握り、得意の上目遣いをするとケイは僅かに頷く。
あれもケイの意思ではないだろうなと光弥は内心で思う。口に出せば清音から仕返しが来そうだ。
「準備ができたら早く行こう。やっとハザマに行ける。楽しみだなぁ」
鼻歌交じりに呟き、清音はケイたちを先導して歩く。
一行が去った後、暗い静寂に残るのは静寂だけであった。
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