【完結】好きじゃないけど、付き合ってみる?

海野雫

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第五章 別れの予感

健の心の嵐

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 ──やばかった……!

 健の心臓は今にも破裂しそうなほど激しく鼓動していた。さっき、直人に頭を撫でられそうになった時、以前同じように撫でられて全身の血液が沸騰したような感覚を鮮明に思い出したのだ。あの時の、胸の奥がきゅうっと熱くなって、直人だけを見つめていたい衝動。時間が止まったような感覚。世界に自分と直人しかいないような錯覚。

 そんな状態でもう一度触れられたら、今度こそ理性を保てる気がしなかった。きっと直人に飛び込んでしまうか、あるいは泣き出してしまうか、どちらにしても取り返しのつかないことになっていただろう。だから咄嗟に避けたのだが……。

 ──ああ、もう! 心臓、落ち着いて……!

 健は平静を装っているが、心の中は台風が通り過ぎた後のように荒れ果てていた。感情が整理できず、頭の中が混乱している。好きだという気持ちと、迷惑をかけてはいけないという罪悪感と、この関係を続けたいという願望と、諦めなければいけないという諦観が、ぐちゃぐちゃに絡み合っている。

 直人が言ったとおり、健は確実に痩せている。この前体重計に乗ったら三キロも減っていた。一か月で三キロというのは、明らかに異常なペースだ。直人のことを好きだと自覚してから、食べ物がまともに喉を通らなくなったのだ。

 食事の時間になると、胃が受け付けない。自分の気持ちに気づく前までは、直人が美味しそうに食べてくれるのを見るだけで幸せになって、健も一緒になって自分の作った食事を頬張った。それなのに、今は一口食べようとすると、なぜか涙が出そうになってしまう。こんなに大切に思っている人を騙し続けているという罪悪感が、食欲を完全に奪ってしまった。

 最初は元カレの大輝を忘れるために始めた直人との『擬似恋人』だった。それが、いつの間にか本物の恋愛感情に変わってしまった。直人の優しさに触れるたび、その誠実さを目の当たりにするたび、『この人のことが好きだ』という想いが胸を締め付ける。

 でも、これは完全な契約違反だ。

 『好きじゃなくてもいいから』──そう言ったのは健の方なのに。

 直人は優しい人だ。だからルームメイトとして心地よく生活できるよう、健の突拍子もない申し出を受け入れてくれただけ。直人にとって、この関係は友情の延長線上にあるものでしかない。そこに本気の恋愛感情を持ち込むなんて、あまりにも卑怯すぎる。

 元カレの大輝との関係と、直人との関係はまるで違う。大輝は感情の起伏が激しく、機嫌が悪いと八つ当たりをしてきた。怒ると手がつけられず、物を投げたり大声で怒鳴ったりすることもあった。健はいつも大輝の顔色を窺って生活していた。大輝の機嫌を損ねないよう、常に気を遣い続ける毎日。それが愛だと思っていた。

 一方、直人は感情の波がほとんどなく、いつでも穏やかだ。怒っているところを見たことがないし、誰かを傷つけるような言葉を発するのも見たことがない。いつも相手のことを思いやり、優しい言葉をかけてくれる。大輝は健を自分色に染めようとする人だったが、直人は健のありのままを受け止めてくれる。

 恋愛初心者の直人に『恋人のふり』と言ってデートしたり手をつないだりしたのは、少し意地悪な気持ちもあった。きっと照れて断ってくるだろうと思っていたのに、直人は何の躊躇もなくそれを受け入れてくれた。その時の直人の表情は、困惑していながらも嬉しそうで、健の提案を素直に受け入れてくれた。

 そんな直人の真っ直ぐで誠実なところが、たまらなく愛おしい。でも、その愛おしさが苦しみでもある。愛すれば愛するほど、この関係を続けることの罪悪感が増していく。

 ──本当にどうしよう……。

 諦めるしかないと頭では理解しているのに、心はまだ決心がつかずにいる。直人のことを諦めるなんて、考えただけで胸が張り裂けそうになる。でも、このまま続けることもできない。どちらを選んでも苦しいという状況に、健は追い詰められていた。
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