【完結】好きじゃないけど、付き合ってみる?

海野雫

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第五章 別れの予感

夏の重圧

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 八月に入ると香坂市は記録的な猛暑に見舞われた。気象庁の発表では連日三十八度を超え、「命に関わる危険な暑さ」という警報が毎日のように流れている。テレビのニュースでは熱中症による救急搬送者数が過去最高を記録したと報じられ、街を歩く人々の表情にも疲労の色が濃い。

 エアコンで冷やされた部屋から一歩外に出ると、まるで熱風の壁にぶつかるように暑さが襲ってくる。アスファルトからは陽炎がゆらゆらと立ち昇り、空気そのものが歪んで見える。セミたちの鳴き声が容赦なく響き渡り、その音圧がさらに体感温度を押し上げていく。ミンミンゼミ、アブラゼミ、クマゼミが入り乱れて鳴く声は、まるで真夏の香坂市を支配する音楽のようだった。

 照りつける太陽は街を焦がし、半袖に短パンで外に出ても、わずか数分で肌がじりじりと焼けるように痛む。街路樹の葉は萎れ、コンクリートに落ちた影さえも熱を帯びている。歩道を歩く人々は日陰から日陰へと移りながら、まるで戦場を駆け抜けるように急ぎ足で移動している。

 こんな暑さなのに、健は相変わらず長袖のカーディガンを羽織っていた。薄手とはいえ、この気温でカーディガンを着ているのは明らかに異常だった。

「健、暑くない? カーディガン脱いだら?」

 直人が心配そうに声をかけても、健は「大丈夫」と曖昧に微笑むだけだった。その笑顔は以前の屈託のないものとは違って、どこか作り物のような印象を受ける。

 この異常な暑さにやられたのか、このところ健の元気がない。以前なら夕食時に今日あったことをあれこれ話してくれたのに、最近は「お疲れさま」「ごちそうさま」程度の会話しかない。軽音部であった面白いエピソードや、バイト先のカフェでの出来事など、健が話してくれる日常の小さな物語を直人は楽しみにしていたのに、今はそれもない。

 食欲もなく、健が作る料理の量も明らかに減っている。以前は二人分たっぷりと作ってくれていたのに、最近は一人前を二人で分けるような少なさだ。健自身も箸を動かす回数が少なく、ほとんど食べずに「ごちそうさま」と言ってしまうことが多い。

 夜中にキッチンで水を飲む音が聞こえることもあり、よく眠れていないようだった。壁越しに聞こえる健の寝返りの回数も明らかに増えている。時々、小さなため息のような音も聞こえてきて、直人は心配で眠れなくなることもあった。

 直人は気になって何度も声をかけてみるが、その度に「大丈夫」「心配しないで」と言われて、それ以上踏み込めずにいる。健の表情は穏やかだが、その奥に何か深い悩みを抱えているのが分かる。でも、それが何なのか、直人には見当もつかなかった。

 そんな健の変化に、直人は言いようのない不安を感じていた。まるで健から避けられているような気がして、心が落ち着かない。一緒にいるのに、どんどん距離が開いていくような感覚。手を伸ばしても届かない場所に健がいるような、そんな寂しさを感じていた。

 ──僕、何か悪いことしたのかな……。

 直人は何度も考えてみるが、思い当たることは一つもない。いつものように一緒に夕食を取り、いつものように他愛もない会話をして、いつものように「おやすみ」と言って別れる。そんな日常に変化はないはずなのに、健の様子だけが明らかにおかしい。

 ただ、七月の終わりに健への想いを確信して、いつか告白しようと心に決めたのに、それがいまだに言葉にできずにいるだけだ。そのことで自分自身がもどかしく感じているのは確かだが、それが健の変化と関係があるとは思えない。

 そういえば、健が距離を置くようになったのは、まさにあの日──直人が自分の気持ちに気づいた後からだった。もしかして、恋愛初心者の直人の気持ちが態度に出てしまって、健にバレてしまったのだろうか。無意識のうちに健を見つめる時間が長くなったり、話しかけるときの声が優しくなりすぎたり、そんな変化を健が察知してしまったのかもしれない。

 ──擬似恋人をお願いしたのに、本気にされて迷惑だ……。

 そんな健の心の声が聞こえたような気がして、直人は背筋が凍った。健にとって、この関係は元カレを忘れるための一時的な手段でしかない。そこに本気の感情を持ち込まれても、困るだけだろう。


「ふう……」

 夕方、いつものように料理を作っていた健が、急に包丁を置いて台に両手をついた。大きく息を吐き、わずかに肩を震わせている。その姿があまりにも辛そうで、直人はいてもたってもいられずキッチンへと向かった。

 健の後ろ姿を見ると、カーディガンの上からでも分かるほど肩幅が狭くなったように見える。以前はもう少しがっしりしていたはずなのに、今は華奢で頼りなげな印象だ。

「健、大丈夫? 少し痩せたんじゃない?」

 本当に心配だった。頬のラインがシャープになり、顎のラインもかなり細くなっている。首筋も以前より細く見え、鎖骨が浮き出ているのが分かる。カーディガンの下の肩も、なんだかほっそりしているような気がする。

 直人の問いかけに、健は振り返ることなく答えた。

「そう? そんなことないと思うけど……。夏バテかな」

 はははと笑っているが、その声には全く力がない。普段の健なら、もっと明るく弾むような声で返事をするのに、今の声は疲れ切った大人のように聞こえる。

「エアコンの温度、もう少し下げようか? 室内でも熱中症になることもあるっていうし」

 今、エアコンの設定温度は二十八度。これは直人があまり部屋を冷やしすぎるのを嫌がるからで、健が気を遣ってくれているのを直人は知っている。本当なら、この暑さではもっと温度を下げたいはずだ。

「うん、大丈夫。電気代もったいないし、温度下げたら今度は直人先輩が体調崩しちゃうでしょ?」

 そう言って健は力なく微笑んだ。明らかに無理をして直人に気を遣っている。その優しさが、かえって直人の胸を痛めた。

「僕のことはいいよ。健が辛いなら、もっと涼しくしても構わない。それに──」

 直人は健に一歩近づいた。健の髪からはいつものシャンプーの香りがするが、以前より薄く感じられる。それだけ健が弱っているということなのだろうか。

「健の体調の方が、僕なんかより、ずっと大事だから」

 頭をそっと撫でてやろうとした、その瞬間──

「あっ……」

 健はビクッと体を震わせ、まるで火に触れたように直人の手から身を引いた。その反応があまりにも激しくて、直人は驚いてしまった。

「……っ!」

 直人の手が宙に浮いたまま、小刻みに震えている。手のひらには、触れることのできなかった健の髪の温もりを求める気持ちが残っていた。

 ──避けられた……?

 以前、直人が健の頭を撫でてやると、健は頬を薄紅色に染めて目を細め、まるで猫のように嬉しそうにしていたのに。あの時の健は、直人の手に頭を預けるようにして、とても幸せそうな表情を見せてくれていた。どうして今は……。

「ご、ごめん。ちょっと、びっくりして……」

 健は慌てたように弁解するが、その声は明らかに上ずっている。振り返った健の顔は青白く、額にうっすらと汗が浮いている。

「いや、こっちこそ、ごめん。急に……」

 直人は手を引っ込めながら言ったが、心臓が痛いほど早く鼓動している。やっぱり、健は直人のことを避けているのだ。もう以前のような関係には戻れないのかもしれない。

「本当に大丈夫。心配しなくて大丈夫だから」

 健は直人と目を合わせることなくそう言うと、再び包丁を握って料理に戻った。しかしその手が、わずかに震えているのを直人は見逃さなかった。包丁を持つ手が不安定で、今にも怪我をしてしまいそうに見える。

「健、包丁……大丈夫?」

「う、うん。大丈夫」

 健は慌てて答えたが、やはりその声には力がない。直人は心配でたまらなかったが、これ以上声をかけることもできず、リビングに戻るしかなかった。
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