【完結】好きじゃないけど、付き合ってみる?

海野雫

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第八章 新たな日常

変わったこと、変わらないこと

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 十月の朝は澄んだ空気が頬を撫でていく。昼間はまだ汗ばむほどの陽射しが降り注ぐが、朝晩は確実に秋の深まりを感じさせる。薄手のカーディガンが手放せない季節になった。

 健と恋人として歩み始めて、一ヶ月が経つ。

 劇的に生活が変わったかというと、そうでもない。健は相変わらず早起きして朝食を用意してくれるし、直人は夜型の生活リズムを崩していない。けれど確実に変わったことがある。毎晩同じベッドで眠りにつくこと。そして──肌を重ね合わせることを覚えたこと。

 初めて体を許し合った夜のことを、直人は鮮明に覚えている。

 どうすればいいのかわからなくて、事前にネットで調べたりもしたが、実際には全く役に立たなかった。男同士で、しかも直人にとっては人生初めての経験。不安で押し潰されそうになったが、健が全てを包み込むように導いてくれた。

 丁寧に、優しく、愛おしそうに。

 健の手が直人の体に触れるたび、電気が走ったような感覚があった。これまで誰にも触れられたことのない場所を愛撫される時、直人の心は羞恥と快感の狭間で激しく揺れ動いた。けれど健の瞳に映る愛情の深さを見ると、すべての不安が溶けていくようだった。

 初めて健と繋がった瞬間、涙が頬を伝った。痛みではなく、言葉にできない感動だった。こんなにも大切にされているのだと、心の底から実感した瞬間だった。健もまた涙を流しながら、直人の名前を何度も呼んだ。

「直人……直人……」

 その声には、これまで押し殺してきた想いのすべてが込められているようだった。

 今でも慣れない部分はあるけれど、翌朝隣で眠る健の寝顔を見ると、胸が幸福感で満たされる。普段は誰よりも早起きする健が、直人よりも遅く目覚めるのは、きっと直人への気遣いなのだろう。そんな健の優しさが愛おしくて、胸が締めつけられそうになる。

 あの夜から、直人の世界は色彩を増した。それまでモノクロだった日常が、まるで魔法をかけられたように鮮やかになった。健の笑顔がこんなにも美しかったこと、健の声がこんなにも心地良かったこと、健の存在がこんなにも自分にとって大切だったこと──すべてが新しい発見だった。

 その日もすうすうと規則正しい寝息を立てている健の寝顔を、目を細めて眺めていた。薄い朝日が健の頬を照らし、長いまつ毛が小さな影を作っている。寝ている時の健は、普段の人懐っこい表情とは違って、どこか幼い無防備さがあった。

 直人は健の頬にそっと触れたくなったが、起こしてしまうのが惜しくて手を止めた。代わりに目で健の輪郭をなぞる。柔らかそうな髪、整った眉、少し開いた唇──すべてが愛おしくて、胸の奥が温かくなる。

「ううーん……」

 健がゆっくりと目を開ける。まだ完全には覚醒していない、とろんとした瞳が直人を見つめた。

「おはよう、直人」

 伸びをしながら呟く声は、まだ眠気を含んでふわふわと頼りない。

「おはよう。よく眠れた?」

「うーん……まだ眠い」

 子どものような甘えた声に、もう少し寝かせてあげたいと思ってしまう。健がこんなふうに無防備に甘える姿を見られるのは、きっと直人だけなのだろう。その特別感が、直人の胸を満たしていく。

「今日は僕が朝ごはんを作るよ」

 ベッドからそっと抜け出そうとした瞬間、腕をぐいと引っ張られた。体勢を崩した直人は、そのままベッドに押し倒される。

「ねえ、おはようの……キスは?」

 寝ぼけ眼の健が、直人を見下ろしている。その表情は甘えん坊の子猫のようで、直人は思わず微笑んでしまった。こんなふうに健に求められることが、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。胸の奥で小さな花火が弾けるような感覚があった。

 首に腕を回し、そっと唇を寄せる。健の唇は朝の冷気で少し冷たくて、でもその奥には温かい体温があった。

「えー、足りない」

「で、でも……朝ごはん作らないと」

「いいから、いいから」

 小さくため息をついて「甘えん坊だなぁ」と呟きながら、再び健の首に腕を回す。最初は小鳥が啄むような軽いキス。そして徐々に深く、濃密なものへと変わっていく。健の舌が直人の舌を求めてくると、体の奥で甘い痺れが広がった。

 今のキスは偽りのない、本物の愛情がそこにある。健の唇から伝わってくる想いが、直人の心を満たしていく。

 それでも健は満足しないようで、とろんとした瞳で直人を見つめている。その視線には、もう遠慮も躊躇もなかった。素直な欲求と愛情だけがあった。重なり合っている体が徐々に熱をはらんでくるのがわかる。

「ねえ、ヤろう?」

「今から? 朝ごはんは?」

「直人を食べる」

 そう言ってニヤリと笑うと、今度は健から唇を落としてきた。

 付き合い始めたその日、二人はいくつかのルールを決めた。思っていることは言葉にすること。甘えたい時は素直に甘えること。寂しい時は寂しいと伝えること。そして、求め合いたい時は我慢しないこと。もちろん、嫌なことは嫌だときちんと伝えることも大切だった。

 これらのルールは、直人にとって革命的だった。これまでの人生で、自分の気持ちを素直に表現したことなどほとんどなかった。いつも周りに合わせて、流されて、波風を立てないように生きてきた。でも健との関係では、そんな遠慮は必要なかった。

 最初、健は遠慮がちだった。自分から何かを求めることをためらっていた。きっと過去の恋愛で、自分の気持ちを押し殺すことに慣れてしまったのだろう。だから直人が勇気を出して誘った。

 直人は目を瞑ると、初めて肌を合わせた日のことを思い出した。直人から「セックスしよう」と誘ったのだ。健の顔が驚きと喜びで輝いた。その時、直人は初めて自分の言葉が誰かをこんなにも幸せにできるのだと知った。

「ホントにいいの?」

 その時の健の不安そうに揺れる瞳を、直人は忘れることができない。その表情があまりにも愛らしくて、胸が締めつけられた。健の中には、まだ「自分は選ばれない」という思い込みが残っていたのだろう。

「僕がやりたいと思ったから誘ってるんだよ」

 直人の率直な言葉に、健の心に設けられていた蓋が外れたようだった。それからは遠慮することなく、素直に想いを口にするようになった。

 健は甘え方を知らなかった。それは直人も同じだった。けれど、スキンシップを重ねることで、お互いその壁は取り払われていった。指を絡ませること、肩に頭を預けること、膝枕をすること、抱きしめること──触れ合うことで心が温かくなる。

 直人にとって、人の温もりがこんなにも心地良いものだとは新しい発見だった。健の体温が直人の肌に伝わってくる時、世界中でたった二人だけの特別な空間が生まれるような気がした。

 健は甘えることを覚え、直人は甘えられることの喜びを知った。健がソファで眠くなって直人の膝に頭を預ける時、健が後ろから抱きついてくる時、健が「寂しかった」と素直に言葉にする時──そのすべてが直人にとって宝物のような瞬間だった。

 『恋愛なんて、意外とシンプルよ』

 美月の言葉が、今になってようやく理解できる。

 複雑に考えすぎていたのは自分だったのだと、今なら思える。健のことが好きだと素直に表現すれば、健も愛情を返してくれる。相手が何をしたら喜ぶかを考えるだけで、自分まで幸せな気持ちになれる。愛とは、確かにシンプルなものだった。

 だから今、朝から健に求められることが少しも嫌ではない。むしろ直人も同じ気持ちだった。健と肌を合わせることは、何にも代えがたい幸福だった。健の体温を感じ、健の息遣いを聞き、健の存在を確かめることができる──それ以上に確実な愛の証明があるだろうか。

 ──今日は土曜日だから、まあいっか。

 これまで固定観念でガチガチに固められていた思考が、健と一緒にいることでずいぶんと柔軟になった。「朝はきちんと起きて朝食を取らなければならない」「スケジュール通りに行動しなければならない」──そんな「こうしなければならない」という思い込みは、二人の間には存在しない。

 まさか自分がこんなにも自由に考えることができるなんて、我ながら驚きだった。健といると、肩の力が抜けていく。完璧でなくても、予定通りでなくても、それでいいのだと思えるようになった。

 十月の朝は肌寒い。けれど体を動かせば、たちまち汗ばんでくる。額から汗の雫が落ちそうになっている健の顔を見上げる。絶頂を迎え、息を荒く乱している健の首に腕を回し、直人は目を細めて愛しい唇を貪るように口づけた。

 こんなふうに健と一つになれることが、まだ信じられない時がある。健の重みを感じ、健の吐息を肌で感じ、健の愛情を全身で受け止める──それがどれほど幸福なことか、言葉では表現しきれない。
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