恋は、やさしく

美凪ましろ

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act12. 社会人と学生との違い

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 蛇の生殺し状態。

 告白してからの、蒔田と彼女の関係を例えるならそれだ。

 押せば引く。追いかけようとすれば雲のように手のなかをすり抜けていく。そんなもどかしさを、彼女は、蒔田と接するたびに感じていた。

 わざと冷たい上司らしい態度を取っているような気が、……いや、気のせいではない。

 事実なのだ。

 告白する前は仕事中にちょっとした雑談もしていたが、この頃は、皆無。

 飲み会の席でも殆ど喋らない。元々蒔田は、寡黙な人間で、喋るといっても後輩から話しかけられれば返す程度。先輩に対しては聞き役に徹するタイプだ。

 だから、彼女より早く入社した人間であっても、蒔田の周りには、蒔田のことをよく知らない人間だらけなのかもしれない。

 彼女同様に。

 彼女は、ひょっとしたら、恋心など、一年もすれば淡雪のように消えてしまうかもしれないとも思っていた。物事に対し人間は期待もするが同時に悪い予測もする。悪い予測のほうが叶えばいいなどとは断じて思っていやしないが。

 でも違った。

 つき合っていた彼氏を恋しく思う気持ちよりも、目の前の上司に惹かれる気持ちのほうが、いつの間にか勝っているのだ。これは単に、会う頻度の違いに依るものなのか、彼女には判別がつかない。

 彼氏と毎日会うことは不可能なのだから。

 その足元の不確かさこそが、行動を鈍らせていた。

 見た感じ、蒔田が彼女を作った様子はない。例え、蒔田のプライベートを知らないにしても、それくらいは雰囲気で分かる。彼は相変わらず、一部で『鉄仮面』と呼ばれるようなポーカーフェイスと不遜な態度を会社で貫いていた。

 六月。四月に入社した新入社員が各部署に配属される時期を迎えた。彼女は引き続き、事業部の事務と蒔田のアシスタントの仕事を担当している。

 事業部に新人が配属されるすこし前のある日、紘花は上司の柏谷から呼び出される。

「端末管理の仕事を? ですか」
「そうだね。……この部署に慣れてもらうにもちょうどいいだろうと思ってね。引き継ぎ、頼めるかね」
「はい、分かりました」

 彼女は、担当している第三事業部のPC管理の仕事を、配属されたての新人に引き継ぐことになった。

「彼には、道林さんみたく単発の持ち帰り案件メインで担当してもらう予定だ。名前は、一色(いっしき)修平(しゅうへい)くん」
「あ。知ってます。確か、内定者懇親会のときに話しした記憶が……」彼女の勤める会社では、内定が決まった新卒のために、社内を見学したり実際の社員に話を聞く機会を設けている。
 顔はあんまり覚えていないが、名前だけ記憶していた。
「へえそうなんだ。まあよろしく頼むよ」
「はい……」

 * * *

 新入社員は、いつ見ても眩しい。電車で見かければすぐ分かる。着慣れないスーツを着る姿。伝染したストッキング。学生らしさが抜けないキャピキャピした雰囲気。

(あたしにもそんな頃があったんだな……)

 もう入社三年目だ。大学時代のことなんか、遠い昔のように感じられる。

 学生時代と変わった部分。大きな期待をしなくなった。知奈なんか上手いこと言っていた。

『社会人て、なんか諦めたような顔してる』それこそが学生との違いだと、彼女は思う。

 フレッシュな新入社員と接すると、かつて通り過ぎた青春の影を思い起こす。カラオケで徹夜した夜。振られて知奈と泣き明かした夜。ハズレな男ばっかりでもっぱら女友達を作るだけに終わる合コン。いくらでも好きなことをしていられる自由を、大学を卒業すると共に、捨ててきたのだ。

 新社会人は、捨ててこなきゃならないものがなんなのか分かっていない。そういう初々しい顔をしている。

 怖いものに突進していける危うさもあり、見ていて冷や冷やすることも暫しだ。

 一色修平も、紛れも無くそんな社会人の一人だった。

「榎原さん。すいません。おれ、議事録作ってんすけど……、ちょっと見て貰えませんか」
「うん。いいよ」彼女は、手を止めたときに、先日一色が会議の議事録を任されたことを思い出した。
 Wordのフォーマットが共有フォルダにあるから、議事録を任された者は毎回それを使いまわしている。

(だけどWordはちょっと使い勝手が悪い……、)

「あらまー……」

 予想を超えていた。

 一色の席に行くとWordの議事録が開かれたままだったが、文章が途中で切れたまま改ページ。隣のセルは空白で、その下のセルには文章が入力されているもののこちらも途中で切れている。

 でこぼこのパズルみたいな議事録がそこにはあった。

「すごいねー……これ、直すよりも、いままで打ち込んだ文章テキストに貼りつけるかなんかしても一回フォーマットに貼り直したほうが早いんじゃない?」
「あ、貼りつければいいんすか」
「あちょ、ストッ……」
 保存せずWordを閉じてしまった。
 ご丁寧にも確認メッセージは『いいえ』を選択。彼女は、額を押さえた。「分かった。……じゃあ、フォーマットをコピペするところから始めようか」
「あはい、これでいいんですよね」
「うん、で、ファイル名変えといて。そこに残ってるのは?」
「ああ、ぐっちゃぐちゃな議事録なんで、捨てちゃいます」
「いま削除しちゃったら? 紛らわしいし」
「……そうですかね」
「取りあえずやっちゃって」

 一色修平は。

 集中力があるようで、欠けている。

 考える前に、訊く。

 その一方で、頑固な一面も持ち合わせている。

 というのが、彼女の一色に対する評価だ。

 いまも、懸命に入力するはいいものの、同じ間違いを繰り返そうとしている。

「ちょっと。ストップ」彼女はスクリーンに手をかざした。一色の目がぱちくりと瞬く。「あはいなんすか」
「また隣のセル無視して入力してるから、隣のセルが変なところで改ページしてる」
「……これ、フォーマットに問題あるんじゃないすか?」
「あるかもだけど、取りあえず仕上げることを第一に進めようよ。左側のセルにどのくらいの文字数が入るかなんとなく分かったよね。そこクリックして『セルの分割』。してから、保存」
「あそうやればいいんすね」
「また分かんないところあったら聞いて」
「あはい。ありがとうございました」

 大丈夫だろうか。

 ひとの良さそうな笑みを浮かべ頭をかく一色を見て思う。

 彼女の不安は、『無事に一色が作業を終えられるか』というのと、『分からないことが出てくるたびに本当に自分のところに頻繁に聞きに来るのではないか』この二点だったが、その後、やっぱり。

 一色修平は、その日だけで彼女のところに二十五回質問をしに来た。

 * * *

「回覧です。リーダー会議の資料ですので、ここに置いておきますね」
「ありがとう。一色くんは? どう?」
「どうもなにも、……あたし、一色くんの隣の席に移動したほうがいいかもしれないです」
「結構聞きに来るタイプなんだね、彼」
「まあ、……聞かずに勝手に進められるよりかはマシですけど」どちらかといえばそちらのほうが厄介だ。それでもため息が出てしまう。

「よくも言えたもんだな。自分が新人だった頃を忘れて」

 誰の声かと思った。いや、聞き間違うはずがない。

 あのひとの声を。

 振り返れば、蒔田が薄い紙束を、柏谷の机のうえに置いているところだった。彼は彼女を見て首を振った。「おまえが新人だった頃は酷かったぞ。あんなもんじゃない」
「酷かったってそんな」
「みんな忘れちゃうんだよね、自分が新人だった頃なんて」
「そういう蒔田さんや柏谷さんの新人の頃はどうだったんですか」
「おれか? いまと変わらない」

 ああそうでしょうね。
 と彼女は内心で返事をする。「柏谷さんは最初っから優秀な新人だったんですか」
「でもない。宗方さんに怒られてばっかだったなあ」

 宗方さんはいつも怒ってばかりじゃないですか。

 と言いかけた口を彼女は押さえた。危ない、危ない。

 彼女のこころでも読んだのか、蒔田が笑ってこっちを見ている。人差し指を立ててしぃーと。

「じゃ。柏谷さん、読んどいてください。明後日の提案資料です」
「読むものばっかでやんなっちゃうねえ」柏谷は肩に手を置き、その肩をぐるぐると回す。「さー仕事仕事」

 会話を切り上げる気配を感じ、彼女も柏谷のデスクを離れた。

 先を行く蒔田の背中。

 手が届きそうなのに遠い。

 もしもここが会社でなければ、追いすがって聞いてみたい。

 あたしの告白、覚えてますかと。

 でもそんなことが出来るはずないのだから、彼女は、蒔田が先を行くのを待って、距離をあけて歩くしかないのだ。

(やっぱ好きだなあ……)

 ほんのちょっと話しかけられただけで。

 気持ちが、ふんわり、あたたまる。

 正直な気持ちをかかえ、彼女は、席に戻りながら気持ちを仕事のそれにリセットした。

 表情に出さないようにする術も心得た。そう、社会人とは、


 仕事中に恋愛感情を出さない人種でもあるのだ。


 *
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