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act44. いざ、箱根
しおりを挟むずっとずっと楽しみにしていたその日がようやく訪れた。
「おはようございます、蒔田さん」彼女は、車両に乗ってきた蒔田に頭を下げ、挨拶をした。「気分はどうです?」
「上々だ」と蒔田が答える。彼が肩の上に引っ掛けるようにして持っているのは小さめのボストンバッグ。いかにも、一泊旅行に出掛けるといった雰囲気だ。
相変わらずの全身黒ずくめ。どうしていつもこうも黒ばかり、と彼女は思うのだが、そんなことよりも大切なことがある。
蒔田と一泊旅行に出掛ける日がやって来た。
彼女は、頬が緩むのを押さえられない。この日が来るのを指折り数えていた。待ち遠しくてたまらなかった日がとうとう訪れたのだ。
蒔田は、ドアの傍で座席に寄りかかる彼女の隣に立った。乗降者の邪魔にならないよう座席側に寄る。背が高い。見上げると、蒔田の黒い前髪が思いのほか近くに感じられ、どきりとした。
彼女は、先ずは、その前髪に触れたいという衝動を堪えなくてはならなかった。「お昼、なに食べたいです?」と彼女は訊く。
「なんでもいい。蕎麦かな」
「箱根だけに箱そばなんてどうです」
「……なんだそれ」
「知らないんですかっ」彼女は声が大きくなる。周囲の視線を若干集めているのを感じたが、そもそも蒔田が美男子過ぎるという時点で既に注目を集めている。どうでもいい、という気持ちで彼女は言葉を続けた。「蒔田さん、駅降りるとき先ずなに見てます? 小田急線ならどこの駅にもかならずありますよ」
「ちとふなにもか」
「ちとふなはどうだか……ええと、あったと思います、はい。……立ち食いそばとか食べたことないんですか」
「ない。蕎麦は蕎麦屋で食うものと決めている」
「ええ、ええ、分かりました。箱根ついたらちゃーんとした蕎麦屋に入りましょう」彼女は半ばやけくそで言ってみた。「入ったらすぐカウンターの店主と目が会う感じのいい感じのお店、探しましょう」
* * *
「……おまえが望んだのはこういう感じの店か」
「いえ、ちょっと違いますけど……」彼女は声を潜める。箱根に着けばきっと誰でも歩くはずのメインストリートに面する店に、彼女と蒔田は入った。路地に面する窓際の席につく。
誰もが羨む美男子と二人きり。すぐそこに立っている女性四人組が露骨に蒔田を見てひそひそなにか言っている。気づいていないのだろうか。
「……気づいているけれども、もう慣れた」彼女のこころでも読んだかのように、蒔田が答える。
「ええと、あたし、まだなにも言ってませんよ」と、戸惑いつつ彼女。
「厳密には、きみが気にすることをおれは気にしている。子どもの頃からのことだ。だからもう、慣れた」と蒔田は繰り返す。
美形すぎるのも困りものなのだな、と彼女は蒔田に同情する。彼の表情からして、女性の注目を集めることが蒔田にとって迷惑なことは明白だ。
それで苦労したにも違いない。
「……苦労したこと、あります?」訊いていいのか迷いつつも彼女は尋ねる。
「見た目は、確かに、大事だ。だが、見た目だけで人間を判断することは、軽率だ」
そのとおりかもしれない……、と彼女は思う。
人間の内面は見た目にこそ表れる。だがそれは三十歳を過ぎてからの話だ。それ以前の年齢は、親の遺伝子に依るもの。人間の構成要素を、かたちづくるものでは、ない。
父の顔は、いまでこそ、おだやかだ。だが若い頃は、彼女に言えない苦労を重ねたに違いない。彼女は父親のことから、それを、知っている。
「正直に言ってもらっていいですか」と彼女は微笑混じりに訊く。「うちの父の顔見て、どう思いました?」
「五十代の男性の顔に見えた。ただそれだけだ」
「それだけですかっ」
「……重ねた年月の重みを感じた。大切な人間が居るんだろうなと、雰囲気で感じた」
「……ですか。なんか、……嬉しいです」
「きみは、とても、いい顔をしている」真顔で蒔田が言い、ぐっと彼女の後頭部に手を回し、キスをする前のように声を潜めて言う。
「いますぐ、食べちゃいたい」
「……なっ!?」彼女は、高い声をあげる。とここで、丼が二つ、運ばれてきた。
箱根なのに、蕎麦じゃなくてどんぶり。
その海鮮丼を食べているあいだじゅうも、彼女は、外の女性たちの視線を感じていた。
蒔田は、なに食わぬ顔で平らげる。本当に、見られることに、慣れているのだろう。
蒔田とつき合うということは即ち、そういう苦労とも向き合うということなのだ。
美味しさを頬張りつつ、彼女は、覚悟を固めた。
*
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