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act.12
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その頃、警視庁のメインロビー入口でサラリーマン風の男が、入口に立っている警察官に呼び止められていた。
「ちょっと君、どこに行くんだね」
最近政治的にも不穏な世の中だ。警視庁に入っていく一般人の中で、目に付く人物は片っ端から声をかけられる。
ダークグレイのスーツに青いネクタイ。銀縁の眼鏡。黒の大きなハードアタッシュケースを持った長身のサラリーマンは、警官に呼び止められると、朗らかな笑顔を浮かべた。所謂、営業スマイルってやつだ。
「お世話になっております。コピーのメンテナンスにお伺いいたしました」
男は、スーツの胸につけているネームタグを警官に見せた。
それは確かに警視庁にコピー機を納入している会社の社員証で、男の写真も貼り付けられている。
名前は、『榊浩次』。
偶然だろうが、公安部の鬼部長として有名な榊警視と同姓同名なので、若い警官は一瞬怯んだ。
「捜査一課一係の魚住さんから連絡を受けまして。コピーの調子がおかしいから、直ちに飛んで来いと」
捜査一課一係は、捜査一課の庶務を担当している部署である。確かに、一係のコピー機が壊れると困るだろう。しかも「直ちに飛んで来い」とは一係の御大・魚住の口癖だ。
「なんなら、鞄を開けましょうか?」
眼鏡の奥の魅力的な瞳ににっこりと微笑まれ、警官は我知らず頬を赤くした。
「いや、それは荷物検査のゲートがあるので・・・」
「判りました。では、失礼いたします」
洗練された物腰で会釈して、男はロビー内に姿を消して行った。
エレベーターに乗り込んで階が上がるにつれ、エレベーターの中の人物が次々と減っていく。
最後の一人である美人警官の出て際の熱い流し目に朗らかな微笑みで会釈しながら、香倉は素早くエレベーターの“閉”ボタンを押した。
エレベーター内で一人になった香倉は、黒いハードアタッシュケースを床に置き、コピー会社の社員証を外すと、懐から警視庁入庁許可のパスカードを胸に付けた。パスカードには、潮ヶ丘署・戸塚の名前が記されてあった。
銀縁の伊達眼鏡を外して懐にしまい、後ろに撫でつけた髪の毛を手で適度にかき乱す。そして、きっちり締めたネクタイを少し緩めた。上着の前ボタンを全て外す。アタッシュケースの中から、折畳式の鞄を取り出した。
そうしている内に目指す6階フロアに到着する。ここには、警視庁のデータベースが保管されてある端末室がある。
香倉は、素早くエレベーターから出ると、辺りを確認して黒のハードアタッシュケースを物陰に隠した。何食わぬ顔で、職員が行き来する廊下に出る。
本来なら、香倉は警視庁に属する警察官であるのだから、こんな手の込んだことをせずともよいと思われがちだが、公安のしかも特務捜査員となればそうもいかない。
公安職員であるという警察手帳をあちらこちらで見せびらかす訳にはいかないのだ。公安の特務捜査員は、警視庁内部にも存在を勘ぐられてはならない。
端末室の前まで行くと、暗証番号つき電子ロックがかかっていた。
警視庁内の電子ロック番号は全て頭にインプットしてある。
素早く押して、中に入った。
端末室つきの制服警官が、自分のデスクについたまま顔を上げた。
「すみません。潮ヶ丘署の戸塚ですが、過去の事件のデータファイルを見せていただきたいのですが」
警官は怪訝そうな顔をする。
「自分の署の端末から照会できるだろうが」
本庁の警官は、制服警官と言えども所轄の人間に対しては横柄な口をきくらしい。
香倉は苦笑いした。
「それが、今電気系統の工事をしていて、回線がダウンしているんですよ。それで態々、こんなところまで来たって訳です。文句なら、大石管理官に言ってもらいたいな」
大石の名前が出て、制服警官の顔つきが変った。
「大石管理官?」
しかし警官は、まだ香倉のことを疑り深い目で見ている。香倉は、面倒くさそうに首筋を掻いた。
「そんなに怪しいと思うなら、管理官に確認してみてくださいよ」
香倉はそう言って大石の携帯電話の番号を教えた。
警官は、デスク上のプッシュフォンの受話器を取る。
「あ~・・・、今アパートを内定中だから、携帯繋がんないかもしれないなぁ」
わざと呑気な声を上げる。
確かに、電話は繋がらなかったようだ。
受話器から、大石の声で今電話に出ることができないとのメッセージが流れている。しかし、警官は大石の声を聞いて納得したようだ。
「奥の端末を使え。使い方は判っているよな」
はいはいと返事を返し、香倉は一番奥のPCの前に座った。
実は、先ほど警官に教えた電話番号は、大石が個人で持っている携帯の番号だった。大石の性格上、仕事中にはパーソナルな電話には出ないようにしていることは、百も承知だった。
第一、警視庁から給付されている携帯電話に、自分の声で留守録を吹き込むことはありえない。この警官は、そこのところに気づけていないのだ。そこを見越して香倉は大石の個人的なナンバーを利用したのだが、案の定だ。
── 簡単なものだな。こんな調子なら、外部のスパイが本気で入り込もうとすれば、簡単に侵入できるかもしれない。いや、もう潜入されている可能性だってある。これは内務調査部に嫌味ひとつでも入れておくべきか・・・。
データベースのタイトル画面を表示させながら、香倉は少し笑った。
10分ほど経って、データベースに香倉の狙っていたファイルがヒットした。
なんせ20年も前の事件だったため些か不安だったが、当時の報告書がきちんと整理され、データ化されていた。
データの最初には、調書を作成した担当捜査員の名前が記されてある。
『警視庁世田谷署少年課、高橋繁巡査部長』
若き日の高橋警部に違いない。
今では少年課は、少年係として保安係と統合され生活安全課の中に入っているが、当時は少年課という部署がまだあった。恐らく、高橋が私服警官になりたての頃の事件に違いない。
香倉は、表示された文字を目で追った。
『1981年5月14日(木)。午前11時38分。事件発生。
被害者は北原正顕、41歳。数ヶ所の大学で客員教諭として教鞭をとっていた心理学者。そしてまた、精神科医の資格も有していた。 業界ではかなり有名で、数多くの著作物も発行している。事件当日も、自宅で新しい研究論文の執筆を行っていた。
被疑者は、北原の息子である北原正道、7歳。協議離婚が成立していたが、父方の苗字を名乗っていた。両親が離婚したのは、同年3月。だが、母親が身を寄せた実家はさほど遠くなく、事件当日、正道は学校を黙って休んで、徒歩で北原家に向かっている。』
そこまで読んで、香倉はリンクされた写真を表示させた。
神経質そうで疲れた顔つきの男の顔と、大きな瞳が印象的な幼い少年の顔が表示される。少年の右の目尻には黒子。間違いない。櫻井正道の7歳時の写真だ。
『北原家に侵入した正道は、真っ直ぐ父の寝室に向かっている。凶器である果物ナイフは、正道が自宅の櫻井家(母方の実家)から持参していた。
寝台にうつ伏せに寝転がっていた北原の左後方から、喉元目掛け一刺し。右手でナイフの柄を持ち、左手のひらをナイフの柄の端に添えて刺した為、子どもながらも深い刺し傷となった。ナイフを引き抜いたのは、刺された当人である北原正顕。頚動脈を切断され、多量に出血。北原の悲鳴を聞いた家政婦が駆けつけ、正道を取り押さえ、119番通報をした。瀕死の重傷を負った北原正顕は、近くの総合病院に搬送。集中治療室にて治療を受け、現在もなお面会謝絶状態である。』
香倉は、瞬きをした。
この調書が書かれた時点では、まだ北原は生きていた。ということは、助かった可能性は大いにあるということだ。
先を読む。
『被疑者である正道は、駆けつけた警察官に身柄を拘束されたが、目立った抵抗はしていない。7歳ながらも、覚悟の犯行だった。犯行の動機は、「姉を助けるため」と供述。北原の長女・正実(まさみ)10歳は、随分以前から、実父である正顕より性的虐待を受けていた模様。事件発生時にも、父親と同じ寝台にいた。正実自身がそう証言している。』
香倉は、正実の顔写真を表示させた。
思わず「あ」と声が出る。
その美しい白い顔。
まだ幼さが残る顔には、間違いなく『加賀見真実』の面影があった。
肩まで伸びた艶やかな髪も美しく、日本人形のような面差しであった。
── ということは・・・。
香倉は考えを巡らせた。
北原正顕が生きていたとして、今回の事件の裏に絡んでいたとしたら、その動機は、何だろう・・・。
香倉は、顎を撫でる。
北原の写真と幼い櫻井の写真を交互に見比べて、しばし考えにふける。
と、ひとつの考えが浮かんだ。
── 櫻井正道に対する、復讐だとしたら。
香倉の頭脳が、活発に働き出す。
よくよく考えてみると、事件は全て、櫻井が属している潮ヶ丘署管内で発生している。被害者二人の生活圏が潮ヶ丘署管内にあったとしても、不自然な一致だ。自宅が潮ヶ丘署管内にあった中谷ならともかく、橘は、目黒の実家で被害者の母親と同居していた。それにも関わらず、態々母親が潮ヶ丘署管内にある馴染みの呉服店に顔を出すところを見計らって殺しているのだ。
そして、犯行が始まった時期。
誘拐犯逮捕の事件で、櫻井の存在が大々的に全国放送で報道された。
それが、きっかけだとしたら。
もちろん櫻井の詳しいプロフィールは公開されなかったが、それでも警官姿の顔写真は、何度もテレビ画面に映し出されている。
あの黒子。
親であれば、あれが自分を刺した息子の成長した姿だとすぐに判るだろう。
問題の『加賀見真実』は、櫻井のニュースが全国報道された直後から、香倉の店に現れた。
北原が、今なお自分の娘と共に行動し、娘を操りターゲットを選んで犯行を犯させるまでに一週間。時間的にも一致するといえる。
もし、北原の動機が櫻井に対する復讐だったとして、それが明るみに出れば、櫻井だってそのままでおれる筈がない。進退問題にだって関わってくるだろう。
いや、それより、あの櫻井の性格だ。
もし自分の父親が生きていて、自分に対する復讐の為に罪もない人々が刺殺されたと知った時、櫻井はどう思うのか・・・。
香倉は、夕べ目の前で倒れた櫻井の姿を思い浮かべた。
苦しそうに喘ぎながら、目尻から涙を零していた。
名前を聞いただけで、あそこまでの発作を起こす程、櫻井の心の傷は深い。北原正顕の行動は、その傷を致命傷まで深く抉るものではないのか。
── 何ということだ・・・。
さすがの香倉も、唸るしかなかった。
櫻井が他にも、身体的欠陥を抱えていることは、井手から無理やり聞き出している。
櫻井のセックスに対する拒否反応は、父親が繰り返していた姉に対する性的虐待を目の当たりにしていた所為に違いない。
男女間の性の営みを、汚れたものとして心に植え付けられたのだ。
── これは酷いな・・・。
香倉は、声に出さずに呟いた。
一体、櫻井はどんな気持ちで父親を刺したのか。 そしてどんな思いで今まで生き延びてきたのか。
データの最後は、こう締めくくられていた。
『事件後、北原正道は、未成年ということで補導を受け、家裁に送致。その後、正道の母親は、正道の親権を放棄した。』
事件を起こした後、櫻井がどんな人生を歩んできたかは、この一文により容易に想像できる。孤独な人生を送ってきたに違いない。
── 本当に、何と言うことだろう・・・。
「チクショウ」
香倉はそう呟いて、眉間を強く摘んだ。
その時、背後でドアが開く音がした。
さっきまで横柄な態度を取っていた資料室付きの警官が、即座に立ち上がり敬礼する気配が感じられる。
資料室に入ってきた人物が誰かは、振り返らずとも判った。
特徴あるだみ声が、制服警官に「ここはいいから、少し休憩をしてこい」と言った。男がポケットから小銭をじゃらじゃらと取り出す音が続く。
「ほら、これでコーヒーでも買え」
「は! ありがとうございます!」
警官が出て行く。
香倉は顔を上げ、PCの画面に向かったまま少し笑った。
「どこの色男が来ているかと思いきや、バーテンさんじゃないか」
香倉が振り返る。
そこにいたのは案の定、警視庁公安部のドン・榊警視だった。
香倉はわざとらしく顔を顰め、「オヤジ」と呟いた。
榊は近くの椅子を引き寄せて、どっかり腰を下ろした。
「上司に向かってオヤジはないだろう。部長と呼べ、部長と」
憎まれ口調でそう言っているが、目は笑っている。
「出先から帰ってきたら、外立ちの青臭い警官に呼び止められて、警視と同じ名前のコピー業者がさっき来ましたよとからかわれるし、4階に行ってみれば、若いお姉ちゃん警官達が、物凄くハンサムな人を見ちゃったわ、笑顔が超素敵でぇ~、え~どんな人~、羨ましい~って騒いでる。もうお前だってことがバレバレなんだよ。そんなことじゃ特務捜査員として失格だな」
香倉は溜息をつく。
別にあんたにばれたって、いいんだよ。他の連中にばれなかったら・・・と心の中で呟いた。
「あ、今、俺のこと舐めた顔しやがったな」
まるで子どものようなことを言う男である。
こんな男が、警視庁の裏の顔を背負って立つ公安部のトップなのだから、まったく冗談みたいな話だ。
「誰があんたの汚い顔を舐めるって言うんです? いい加減にしてください」
鬼の榊を捕まえて、こんな口を利けるのは公安部の中でも香倉しかいない。
元々の度胸のよさに出来のよさも相まって、榊も許している。
本来なら榊は、文字通り泣く子も黙るほど恐ろしい男である。汚れ仕事も、笑みを浮かべながらやってのけることもあるのだ。
「まったく、今度はどんな余計なことに首を突っ込んでいやがるんだ?」
榊は大げさにPCの画面を覗き込んだ。
「知っているくせに」
香倉は足を組んで伸びをする。榊はニヤリと笑った。警視庁管内のことで、榊が知らないことはない。
「手柄を立てたから、しばらく自由に過ごしていいと言っていたはずだぞ。誰が余所様の仕事しろと言った?」
「え? 仕事だって言いましたか?」
香倉がとぼける。
「俺は言われるがまま、自由に過ごしているんですよ」
こうした顔つきの香倉は、榊でさえ食えないところがある。榊は肩を竦めた。
「ものは言いようだなぁ、香倉。だが、ほどほどにしとけよ。くれぐれも、表立ったことはするな」
「誰に向かって言ってるんですか?」
挑むような笑みを香倉が浮かべる。
榊が頭をガリガリと掻いた。
「やれやれ、お前の扱いは俺でさえ閉口する。おい、今度来る時は、制服にしろ、制服に。そしたらくだらん職質もかけられんだろうが。お前が変な恰好をして出勤してくる度に、俺がその後始末をせねばならん」
「 ── 嫌いなんだよなぁ・・・制服」
明後日の方向を見つめながら呟く香倉の椅子を、榊が乱暴に蹴った。受
身を取りながらも、香倉はクスクス笑っている。
「今回は、大石に俺から言っておく。今回までだぞ」
榊はそう言い捨てると、自分の背後に置いていた黒のハードアタッシュケースを香倉に向かって放り投げ、部屋を出て行った。
香倉は、アタッシュケースを抱き込みながら、再度画面に目をやった。
暗い瞳の色を浮かべるあどけない少年の顔。
香倉は、さっきまでとはうって変わって、陰りのある表情を浮かべると、PCの電源を乱暴な手つきで落とした。
「ちょっと君、どこに行くんだね」
最近政治的にも不穏な世の中だ。警視庁に入っていく一般人の中で、目に付く人物は片っ端から声をかけられる。
ダークグレイのスーツに青いネクタイ。銀縁の眼鏡。黒の大きなハードアタッシュケースを持った長身のサラリーマンは、警官に呼び止められると、朗らかな笑顔を浮かべた。所謂、営業スマイルってやつだ。
「お世話になっております。コピーのメンテナンスにお伺いいたしました」
男は、スーツの胸につけているネームタグを警官に見せた。
それは確かに警視庁にコピー機を納入している会社の社員証で、男の写真も貼り付けられている。
名前は、『榊浩次』。
偶然だろうが、公安部の鬼部長として有名な榊警視と同姓同名なので、若い警官は一瞬怯んだ。
「捜査一課一係の魚住さんから連絡を受けまして。コピーの調子がおかしいから、直ちに飛んで来いと」
捜査一課一係は、捜査一課の庶務を担当している部署である。確かに、一係のコピー機が壊れると困るだろう。しかも「直ちに飛んで来い」とは一係の御大・魚住の口癖だ。
「なんなら、鞄を開けましょうか?」
眼鏡の奥の魅力的な瞳ににっこりと微笑まれ、警官は我知らず頬を赤くした。
「いや、それは荷物検査のゲートがあるので・・・」
「判りました。では、失礼いたします」
洗練された物腰で会釈して、男はロビー内に姿を消して行った。
エレベーターに乗り込んで階が上がるにつれ、エレベーターの中の人物が次々と減っていく。
最後の一人である美人警官の出て際の熱い流し目に朗らかな微笑みで会釈しながら、香倉は素早くエレベーターの“閉”ボタンを押した。
エレベーター内で一人になった香倉は、黒いハードアタッシュケースを床に置き、コピー会社の社員証を外すと、懐から警視庁入庁許可のパスカードを胸に付けた。パスカードには、潮ヶ丘署・戸塚の名前が記されてあった。
銀縁の伊達眼鏡を外して懐にしまい、後ろに撫でつけた髪の毛を手で適度にかき乱す。そして、きっちり締めたネクタイを少し緩めた。上着の前ボタンを全て外す。アタッシュケースの中から、折畳式の鞄を取り出した。
そうしている内に目指す6階フロアに到着する。ここには、警視庁のデータベースが保管されてある端末室がある。
香倉は、素早くエレベーターから出ると、辺りを確認して黒のハードアタッシュケースを物陰に隠した。何食わぬ顔で、職員が行き来する廊下に出る。
本来なら、香倉は警視庁に属する警察官であるのだから、こんな手の込んだことをせずともよいと思われがちだが、公安のしかも特務捜査員となればそうもいかない。
公安職員であるという警察手帳をあちらこちらで見せびらかす訳にはいかないのだ。公安の特務捜査員は、警視庁内部にも存在を勘ぐられてはならない。
端末室の前まで行くと、暗証番号つき電子ロックがかかっていた。
警視庁内の電子ロック番号は全て頭にインプットしてある。
素早く押して、中に入った。
端末室つきの制服警官が、自分のデスクについたまま顔を上げた。
「すみません。潮ヶ丘署の戸塚ですが、過去の事件のデータファイルを見せていただきたいのですが」
警官は怪訝そうな顔をする。
「自分の署の端末から照会できるだろうが」
本庁の警官は、制服警官と言えども所轄の人間に対しては横柄な口をきくらしい。
香倉は苦笑いした。
「それが、今電気系統の工事をしていて、回線がダウンしているんですよ。それで態々、こんなところまで来たって訳です。文句なら、大石管理官に言ってもらいたいな」
大石の名前が出て、制服警官の顔つきが変った。
「大石管理官?」
しかし警官は、まだ香倉のことを疑り深い目で見ている。香倉は、面倒くさそうに首筋を掻いた。
「そんなに怪しいと思うなら、管理官に確認してみてくださいよ」
香倉はそう言って大石の携帯電話の番号を教えた。
警官は、デスク上のプッシュフォンの受話器を取る。
「あ~・・・、今アパートを内定中だから、携帯繋がんないかもしれないなぁ」
わざと呑気な声を上げる。
確かに、電話は繋がらなかったようだ。
受話器から、大石の声で今電話に出ることができないとのメッセージが流れている。しかし、警官は大石の声を聞いて納得したようだ。
「奥の端末を使え。使い方は判っているよな」
はいはいと返事を返し、香倉は一番奥のPCの前に座った。
実は、先ほど警官に教えた電話番号は、大石が個人で持っている携帯の番号だった。大石の性格上、仕事中にはパーソナルな電話には出ないようにしていることは、百も承知だった。
第一、警視庁から給付されている携帯電話に、自分の声で留守録を吹き込むことはありえない。この警官は、そこのところに気づけていないのだ。そこを見越して香倉は大石の個人的なナンバーを利用したのだが、案の定だ。
── 簡単なものだな。こんな調子なら、外部のスパイが本気で入り込もうとすれば、簡単に侵入できるかもしれない。いや、もう潜入されている可能性だってある。これは内務調査部に嫌味ひとつでも入れておくべきか・・・。
データベースのタイトル画面を表示させながら、香倉は少し笑った。
10分ほど経って、データベースに香倉の狙っていたファイルがヒットした。
なんせ20年も前の事件だったため些か不安だったが、当時の報告書がきちんと整理され、データ化されていた。
データの最初には、調書を作成した担当捜査員の名前が記されてある。
『警視庁世田谷署少年課、高橋繁巡査部長』
若き日の高橋警部に違いない。
今では少年課は、少年係として保安係と統合され生活安全課の中に入っているが、当時は少年課という部署がまだあった。恐らく、高橋が私服警官になりたての頃の事件に違いない。
香倉は、表示された文字を目で追った。
『1981年5月14日(木)。午前11時38分。事件発生。
被害者は北原正顕、41歳。数ヶ所の大学で客員教諭として教鞭をとっていた心理学者。そしてまた、精神科医の資格も有していた。 業界ではかなり有名で、数多くの著作物も発行している。事件当日も、自宅で新しい研究論文の執筆を行っていた。
被疑者は、北原の息子である北原正道、7歳。協議離婚が成立していたが、父方の苗字を名乗っていた。両親が離婚したのは、同年3月。だが、母親が身を寄せた実家はさほど遠くなく、事件当日、正道は学校を黙って休んで、徒歩で北原家に向かっている。』
そこまで読んで、香倉はリンクされた写真を表示させた。
神経質そうで疲れた顔つきの男の顔と、大きな瞳が印象的な幼い少年の顔が表示される。少年の右の目尻には黒子。間違いない。櫻井正道の7歳時の写真だ。
『北原家に侵入した正道は、真っ直ぐ父の寝室に向かっている。凶器である果物ナイフは、正道が自宅の櫻井家(母方の実家)から持参していた。
寝台にうつ伏せに寝転がっていた北原の左後方から、喉元目掛け一刺し。右手でナイフの柄を持ち、左手のひらをナイフの柄の端に添えて刺した為、子どもながらも深い刺し傷となった。ナイフを引き抜いたのは、刺された当人である北原正顕。頚動脈を切断され、多量に出血。北原の悲鳴を聞いた家政婦が駆けつけ、正道を取り押さえ、119番通報をした。瀕死の重傷を負った北原正顕は、近くの総合病院に搬送。集中治療室にて治療を受け、現在もなお面会謝絶状態である。』
香倉は、瞬きをした。
この調書が書かれた時点では、まだ北原は生きていた。ということは、助かった可能性は大いにあるということだ。
先を読む。
『被疑者である正道は、駆けつけた警察官に身柄を拘束されたが、目立った抵抗はしていない。7歳ながらも、覚悟の犯行だった。犯行の動機は、「姉を助けるため」と供述。北原の長女・正実(まさみ)10歳は、随分以前から、実父である正顕より性的虐待を受けていた模様。事件発生時にも、父親と同じ寝台にいた。正実自身がそう証言している。』
香倉は、正実の顔写真を表示させた。
思わず「あ」と声が出る。
その美しい白い顔。
まだ幼さが残る顔には、間違いなく『加賀見真実』の面影があった。
肩まで伸びた艶やかな髪も美しく、日本人形のような面差しであった。
── ということは・・・。
香倉は考えを巡らせた。
北原正顕が生きていたとして、今回の事件の裏に絡んでいたとしたら、その動機は、何だろう・・・。
香倉は、顎を撫でる。
北原の写真と幼い櫻井の写真を交互に見比べて、しばし考えにふける。
と、ひとつの考えが浮かんだ。
── 櫻井正道に対する、復讐だとしたら。
香倉の頭脳が、活発に働き出す。
よくよく考えてみると、事件は全て、櫻井が属している潮ヶ丘署管内で発生している。被害者二人の生活圏が潮ヶ丘署管内にあったとしても、不自然な一致だ。自宅が潮ヶ丘署管内にあった中谷ならともかく、橘は、目黒の実家で被害者の母親と同居していた。それにも関わらず、態々母親が潮ヶ丘署管内にある馴染みの呉服店に顔を出すところを見計らって殺しているのだ。
そして、犯行が始まった時期。
誘拐犯逮捕の事件で、櫻井の存在が大々的に全国放送で報道された。
それが、きっかけだとしたら。
もちろん櫻井の詳しいプロフィールは公開されなかったが、それでも警官姿の顔写真は、何度もテレビ画面に映し出されている。
あの黒子。
親であれば、あれが自分を刺した息子の成長した姿だとすぐに判るだろう。
問題の『加賀見真実』は、櫻井のニュースが全国報道された直後から、香倉の店に現れた。
北原が、今なお自分の娘と共に行動し、娘を操りターゲットを選んで犯行を犯させるまでに一週間。時間的にも一致するといえる。
もし、北原の動機が櫻井に対する復讐だったとして、それが明るみに出れば、櫻井だってそのままでおれる筈がない。進退問題にだって関わってくるだろう。
いや、それより、あの櫻井の性格だ。
もし自分の父親が生きていて、自分に対する復讐の為に罪もない人々が刺殺されたと知った時、櫻井はどう思うのか・・・。
香倉は、夕べ目の前で倒れた櫻井の姿を思い浮かべた。
苦しそうに喘ぎながら、目尻から涙を零していた。
名前を聞いただけで、あそこまでの発作を起こす程、櫻井の心の傷は深い。北原正顕の行動は、その傷を致命傷まで深く抉るものではないのか。
── 何ということだ・・・。
さすがの香倉も、唸るしかなかった。
櫻井が他にも、身体的欠陥を抱えていることは、井手から無理やり聞き出している。
櫻井のセックスに対する拒否反応は、父親が繰り返していた姉に対する性的虐待を目の当たりにしていた所為に違いない。
男女間の性の営みを、汚れたものとして心に植え付けられたのだ。
── これは酷いな・・・。
香倉は、声に出さずに呟いた。
一体、櫻井はどんな気持ちで父親を刺したのか。 そしてどんな思いで今まで生き延びてきたのか。
データの最後は、こう締めくくられていた。
『事件後、北原正道は、未成年ということで補導を受け、家裁に送致。その後、正道の母親は、正道の親権を放棄した。』
事件を起こした後、櫻井がどんな人生を歩んできたかは、この一文により容易に想像できる。孤独な人生を送ってきたに違いない。
── 本当に、何と言うことだろう・・・。
「チクショウ」
香倉はそう呟いて、眉間を強く摘んだ。
その時、背後でドアが開く音がした。
さっきまで横柄な態度を取っていた資料室付きの警官が、即座に立ち上がり敬礼する気配が感じられる。
資料室に入ってきた人物が誰かは、振り返らずとも判った。
特徴あるだみ声が、制服警官に「ここはいいから、少し休憩をしてこい」と言った。男がポケットから小銭をじゃらじゃらと取り出す音が続く。
「ほら、これでコーヒーでも買え」
「は! ありがとうございます!」
警官が出て行く。
香倉は顔を上げ、PCの画面に向かったまま少し笑った。
「どこの色男が来ているかと思いきや、バーテンさんじゃないか」
香倉が振り返る。
そこにいたのは案の定、警視庁公安部のドン・榊警視だった。
香倉はわざとらしく顔を顰め、「オヤジ」と呟いた。
榊は近くの椅子を引き寄せて、どっかり腰を下ろした。
「上司に向かってオヤジはないだろう。部長と呼べ、部長と」
憎まれ口調でそう言っているが、目は笑っている。
「出先から帰ってきたら、外立ちの青臭い警官に呼び止められて、警視と同じ名前のコピー業者がさっき来ましたよとからかわれるし、4階に行ってみれば、若いお姉ちゃん警官達が、物凄くハンサムな人を見ちゃったわ、笑顔が超素敵でぇ~、え~どんな人~、羨ましい~って騒いでる。もうお前だってことがバレバレなんだよ。そんなことじゃ特務捜査員として失格だな」
香倉は溜息をつく。
別にあんたにばれたって、いいんだよ。他の連中にばれなかったら・・・と心の中で呟いた。
「あ、今、俺のこと舐めた顔しやがったな」
まるで子どものようなことを言う男である。
こんな男が、警視庁の裏の顔を背負って立つ公安部のトップなのだから、まったく冗談みたいな話だ。
「誰があんたの汚い顔を舐めるって言うんです? いい加減にしてください」
鬼の榊を捕まえて、こんな口を利けるのは公安部の中でも香倉しかいない。
元々の度胸のよさに出来のよさも相まって、榊も許している。
本来なら榊は、文字通り泣く子も黙るほど恐ろしい男である。汚れ仕事も、笑みを浮かべながらやってのけることもあるのだ。
「まったく、今度はどんな余計なことに首を突っ込んでいやがるんだ?」
榊は大げさにPCの画面を覗き込んだ。
「知っているくせに」
香倉は足を組んで伸びをする。榊はニヤリと笑った。警視庁管内のことで、榊が知らないことはない。
「手柄を立てたから、しばらく自由に過ごしていいと言っていたはずだぞ。誰が余所様の仕事しろと言った?」
「え? 仕事だって言いましたか?」
香倉がとぼける。
「俺は言われるがまま、自由に過ごしているんですよ」
こうした顔つきの香倉は、榊でさえ食えないところがある。榊は肩を竦めた。
「ものは言いようだなぁ、香倉。だが、ほどほどにしとけよ。くれぐれも、表立ったことはするな」
「誰に向かって言ってるんですか?」
挑むような笑みを香倉が浮かべる。
榊が頭をガリガリと掻いた。
「やれやれ、お前の扱いは俺でさえ閉口する。おい、今度来る時は、制服にしろ、制服に。そしたらくだらん職質もかけられんだろうが。お前が変な恰好をして出勤してくる度に、俺がその後始末をせねばならん」
「 ── 嫌いなんだよなぁ・・・制服」
明後日の方向を見つめながら呟く香倉の椅子を、榊が乱暴に蹴った。受
身を取りながらも、香倉はクスクス笑っている。
「今回は、大石に俺から言っておく。今回までだぞ」
榊はそう言い捨てると、自分の背後に置いていた黒のハードアタッシュケースを香倉に向かって放り投げ、部屋を出て行った。
香倉は、アタッシュケースを抱き込みながら、再度画面に目をやった。
暗い瞳の色を浮かべるあどけない少年の顔。
香倉は、さっきまでとはうって変わって、陰りのある表情を浮かべると、PCの電源を乱暴な手つきで落とした。
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