触覚

国沢柊青

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 朝の清々しい日差しが差し込む図書館の閲覧室。
 高い位置にある天窓からの日差しは、擦りガラスに遮られ些か柔らかかったが、日に日に日差しは強くなっているようだ。もうすぐ梅雨となり、その向こうにはうだるような夏が待っている。
 静かだが、さわさわと空気が揺らめくこの広い空間の中で、男はまるで辞書のような分厚さの本をひたすら捲っていた。
 男の周辺には、近くの本棚で今日のお気に入りの本を探している老婦人と、男から少し離れたところに予備校生風の少年一人と女子大生風の娘が二人、めいめいのテーブルに腰掛けていたが、少年も娘達も、ことあるごとに男の姿を目で捉えていた。男が、大変魅力的だったからだ。
  さっくりしたベージュのニットにストレートジーンズという恰好の男は、一見若い大学教授のように見える。よもや少年も娘達も、この男が夜の仕事をしているようには想像しないだろう。それほど、男 ── 香倉は、その場の雰囲気に自然に馴染んでいた。それが彼の才能でもある。
 香倉が手にしている本は、過去の新聞を縮小して纏められているもので、丁度二十年前の新聞を集めた巻である。
 北原正顕という名前については、愛用のノートパソコンでネット検索をかけ、いくつか怪しい情報を既にピックアップしていた。そして今、一番有力と思われる情報を更に掘り下げているところだった。
 香倉が探し出すべき『北村正顕』は、櫻井と高橋が交わる延長線上にいる存在でなくてはならない。
  ネット検索で出てきた情報のうち、二十年前に学会から突如姿を消した心理学者の名前が引っかかってきた。その情報は、心理学会にリンクされているページの掲示板に辛うじて名前が登場していた程度のものだったが、その裏には事件の臭いがしていた。
 心理学者・北原正顕が学会から姿を消した理由は、詳しく語られていなかったが、その奥には触れてはならないタブーが存在しているようだった。
 ── これは、叩けば埃が出る。
 だから過去の記録を調べようと、図書館に出向いたのである。
 本来なら、警視庁にあるデータベースに照会をかけるのが一番だが、立場上、警視庁にはなるだけ出入りしたくない。ということでこういう結果になったのだが・・・。
「あった」
 香倉のページを捲る手が止まった。
 とある日の新聞。
 その三面記事に小さく掲載されていた。
 『著名心理学者、息子に刺される』
 安っぽい見出しだ。
 内容は、7歳になる北原正顕の息子が、北原の喉を果物ナイフで突き刺したというもので、その息子は未成年であったために罪は問われず、家裁に送られたというものだった。もちろん、その息子の名前は公にされていない。
 ── 櫻井は、いくつだっけな・・・。
 香倉は、夕べ真摯な瞳で自分を真っ直ぐに見つめてきた刑事の顔を思い浮かべた。
 その後の新聞記事も追ってみたが、残念ながら、それ以上の続報は掲載されていなかった。
 恐らく、加害者である少年があまりにも幼かったため報道機関も自粛した感が見える。動機すら明らかにされていない。
 香倉は溜息をついた。
 ── やはり『本社』に出勤しないとダメか。
 香倉は、その気の重さに、再び溜息をついたのだった。


 その日の午前中ずっと、櫻井は潮ヶ丘署の資料室に缶詰状態にされていた。
 今まで後回しにされてきた資料の整理を、ベテラン刑事の川口から頼まれたのだ。
 強行犯係としての仕事がない訳ではないはずだったが、櫻井をあまり外には出したくないという配慮が感じられた。おそらく、川口は高橋から頼まれているのだろう。
 パソコンの端末に山のような資料のデータを打ち込まねばならず、余計なことを考えている暇などまるでない。
 かび臭い資料室で、ひたすら膨大な量の書類と睨めっこしながら、櫻井は珍しく心の中で愚痴った。
 ── まるで、身体にキノコが生えてきそうだと。
 資料の整理を半分まで終わらせたところで時計を見ると、もう二時を過ぎていた。
 さすがに空腹感を感じた櫻井は、資料室から出て、刑事部屋でカップラーメンを啜った。
 刑事部屋の連中は出払っていて、刑事庶務係の若い婦人警官と暴力犯係の強面刑事が二人いるだけだった。課長の椅子に高橋の姿はなく、庶務の子に訊くと「先ほどどこかに出て行かれました」と言われた。
 大石は会議室にいるのだろうか。
 いずれにしても、櫻井はもう立ち入ることのできない部屋になってしまったので、覗くこともできない。
 櫻井は溜息をついて、刑事課前の廊下の突き当たりにある休憩フロアに足を向けた。
 刑事課の先の休憩フロアにだけは煙草の自動販売機がある。
 世の中はパブリックスペースでの禁煙の風潮が広まっているが、刑事みたいなストレスの多い職種には煙草が不可欠だ。
 櫻井は滅多に煙草は吸わないが、たまに無性に吸いたくなる時がある。
 何となくやりきれなくて、どうしようもない時・・・。
 丁度今みたいな時だ。
 櫻井は、コインを落としてキャビンのボタンを押した。
 コトリと軽い音がして、煙草のケースが落ちてくる。
 櫻井は、休憩室の中央のソファーに座りながら煙草を取り出し、自分のデスクに忍ばせてあった緑色の百円ライターで火をつけた。
 辺りに芳ばしい香りが立ち上る。
 大きく煙を吐き出した時、背後から声をかけられた。
「煙草、吸うのか」 
 振り返った。大石管理官だった。
 大石は櫻井の隣に腰をかけると、「私にも一本くれないか」と言った。
 櫻井は黙って真新しい一本を差し出した。
 ライターで火をつけてやる。
 大石はうまそうに煙草を吹かした。
「久しぶりに吸うと、肺に染みるな」
 大石はそう言って少し笑った。
 いつも冷静沈着で能面のような印象の大石の顔が、急に人間味を帯びた。
「 ── 大分、堪えているようだな。特捜を外されたこと」
 まだ短い灰の塊を側の灰皿の上で弾き落としながら、大石は言った。
 櫻井は俯く。
「 ・・・仕方のないことです。あの名前が出た以上、自分は、事件の関係者になってしまった訳ですから」
 大石が櫻井の横顔を見た。純粋に驚いた顔をしていた。
「お前、知ってるのか。高橋さんは、言わなかったと言っていたが」
「調べました。 ── 刑事ですから・・・」
 櫻井がそういうと、大石は目を細めて煙草を吹かした。
「それもそうだな・・・」
 おかしそうに、少し笑い声を上げる。
「それで? 高橋さんの言われた通り、大人しく外れるって決めたのか」
 櫻井は大石を見た。
 挑むような目つきの大石がそこにいた。
 ── この人は、自分の何を推し量ろうとしているのか・・・。
 櫻井は、再び自分の足元を見た。
「課長の配慮については、痛いほど気持ちがわかります。あの人は、常に自分のことを大切に思ってくれているのです。自分が父との間に事件を起こして、その担当に課長がついてくれた時から、もうずっと・・・。感謝しています。ただ・・・」
 櫻井は、一回煙草を吸った。
「自分と父とのことについては、忘れろと言って忘れられることではありません。考えるなといっても、それは無理な話です。父がまだ生きていて、この事件に関わっているのだとしたら、それに対する原因や責任は自分にあります。それを判っていて、黙って見ている訳にはいきません」
 櫻井は、煙草を灰皿に押し付けた。
「外れろと言われれば、外れます。だけど、動くなと言われても、動かない訳にはいかない」
 櫻井は、真っ直ぐ大石を見た。
 真摯な瞳で。
「 ── どうしますか、管理官。俺を、抑えますか」
 大石もまた、煙草を灰皿に押し付ける。
 そして肩を竦めた。
「お前の独り言だろ?」
 大石はそう言って、席を立とうとする。
 その手を櫻井が掴んだ。
「大石さん、もうひとつ、お訊きしたいことがあります」
 大石が振り返る。
「香倉さんのことです」
 大石の片眉が動いた。
「聞かせてください。あの人は、いつからあんな仕事をしているんですか?」
 大石が小さく溜息をつく。
 再び櫻井の隣に腰をおろした。 「やはりお前に言うべきじゃなかったかな・・・」と呟く。
「お前の情報源は井手か。なるほどな。そこで香倉とまた会ったのか。そんなに香倉が気になるか?」 
 大石にそう言われ、櫻井は夕べの香倉を思い起こした。
 物静かな、それでいて隙のない動き。目線。
 同じ警察官でありながら、櫻井にとっては未知の世界に生きている男。
 彼の持っている情報は、自分達よりよっぽど少ないと言うのに、彼はもう事件の核心を突いて来ている。
 大石の質問に答えるとすれば、それは「イエス」だ。
 興味はある。
 そして、それは止められるものではなかった。
 しかし櫻井は、「はい」とは言えなかった。そのことを口に出すのが、なぜか気恥ずかしく感じた。その様子を大石がしばらく見つめ返してくる。
「 ── 確かに、お前のような若い刑事にとっては、興味のあるところなんだろう。公安ってところは」
 大石は、「もう一本くれないか」と続けた。
 櫻井は、煙草ケースとライターを差し出す。
「管理官は、香倉さんと同期だと・・・」 
 大石はふっと笑みを浮かべた。まるで香倉と同期であることが誇らしいかのような、柔らかな微笑みだった。
「ああ。警察大学校で同期だった。自分で言うのもなんだが、私達の学年はなかなか成績面で粒ぞろいでな。優秀なヤツが揃っていた。そんな中でも、あいつは常にトップだったよ。そのまま行けば、今頃は本庁の警備局なんかで出世街道まっしぐらだったかもな・・・」
 香倉はキャリアだったのだ。
 それは櫻井にとってしても意外だった。
 キャリアの香倉が、なぜあんな汚れ仕事をしている? 
 その思いは、もろに顔に出ていたらしい。
「なぜ今のような仕事をしているか、だろ?」
 大石が言う。櫻井は頷いた。
「ヤツは優秀過ぎたのさ。優秀すぎて、逆に目をつけられてしまったんだ。警視庁公安部の鬼・榊警視正に。榊警視正は、欲しいと思った人材は必ず取る。相手が、キャリア候補生だったとしても、だ。榊警視正に魅入られるということは、公安で飯を食っていかざるをえないということ。組織のコマとして動く以上、香倉とて例外じゃない。ましてや、あの頃の私達は、いくら大学校で幹部候補としての教育を受けていたとしても、結局は右も左も判らない新人警察官でしかなかった。逆らえる筈がないさ」
 大石は、そこで煙草を吹かす。
 少し疲れた横顔を見せた。
「大学校を卒業して、国家試験を受けて、本庁に入庁して、私達はすぐさま各方面に配属された。キャリアとしての第一歩を踏んだ。だが、香倉だけは違った。やっと着慣れてきた制服も取り上げられ、警察手帳も、本名すらも取り上げられた」
「本名すら?」
 櫻井が、目を見張る。大石は頷いた。
「香倉裕人は偽名だ。潜入捜査を主に担当する公安の特務員は、偽名を使うことが慣例となっている。だから、香倉裕人という警察官は、どこにも存在しない。辛うじて、本当の名前の方で警視庁公安部に籍を置く警部としての地位は確保されているが、本庁のほとんどの連中は、その警部の姿をまともに見たことがない。ヤツの存在自体がトップシークレットと言う訳だ。それを軽々しく話してしまった私は、間違いなく懲罰ものだな」
 大石は苦々しい笑みを浮かべる。
「でも・・・我が国で、おとり捜査が認められているのは、厚生省管轄の麻薬捜査官だけなんじゃないですか? 香倉さんの仕事は、違法性が高いのでは・・・!?」 
 思わず、櫻井の声が大きくなる。
 大石に目で責められた。櫻井は「すみません」と呟いた。
「だからこそ、トップシークレットなんだ。公安のやつらに言わせれば、“超法規的措置”ってやつさ。国益を守るため、時には目をつぶらねばならん時がある。法を犯さねばならない時もある。それもこれも、国家の安全を守るため。正義を行使するためだと・・・。誇り高き公安の大義名分がそこだ。ヤツは、その渦に飲み込まれてしまったのさ。何も判らず、気づけば容易に足が抜けられないところまできていた。もっとも、元々がああいう性格のヤツだ。案外そんな状況を楽しんでいるのかもしれないな、あいつは・・・」
 大石はそう言い終わると、二本目の煙草を消した。そうして櫻井を見る。
「あいつをあまり深追いするな。ことが失敗すれば、本気で組織から切って捨てられるような存在だ。万が一殺されても、警察官として葬式を挙げてもらえることもない。今のバーテンとしての顔を持つ前は、暴力団の組織に潜入していたこともある。香港では、覚せい剤の大規模なシンジケートを潰すきっかけを作ったあいつの首に今でも賞金をかけているし、その時の名残でヤツの身体には“墨”が入ってるって噂が上層部で持ち上がったりもしている。 ── ヤツは、そんな男だ。お前が太刀打ちできる男じゃない」
 大石は立ち上がる。
「私が知っているのは、これまでだ。もうこのことについては訊かないでくれ。この手の話は、互いにヤバクなるんだぞ」
 大石はそう言い残して足早に休憩室を出て行った。
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