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act.25
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丸々一日経っても、吉岡の容態は回復する様子を見せなかった。
徹夜で吉岡の治療にあたった井手だったが、彼の心の中にできた壁は意外に分厚く、その奥にまで井手の声が届くことはなかった。
井手は催眠療法の腕に関しては、日本でも五本の指に入るほどの実力を持っていたが、彼女の技術を持ってしても吉岡の中の壁を崩すことはできなかった。
「少し休んだ方がいいのではないか」
ずっと付き合っていた大石が、井手の体調を考えて、休養できる部屋を手配した。
吉岡が収容された総合病院の精神科医・豊中に頼むと、彼はVIP用の病室を井手のために提供してくれた。特別の計らいだった。
そこは吉岡の病室の向かいにある個室で、患者用のベッドの他に、簡単な応接セットが構えられている部屋だった。
そのソファーに腰掛けながら、井手は眉間を指で押えた。
「 ── 私も、ここまで頑丈にプロテクトされているとは思わなかったわ・・・」
「プロテクト・・・ですか?」
井手よりは随分年上の豊中であったが、実力では井手にとても適わない。そのせいなのか、豊中は井手に敬語を使っていた。
井手は、目の下にクマのできた顔で大きな溜息をつくと、テーブルの上のメモ用紙に図式を書いて説明した。
「本来なら、患者本人が自己防衛のために作る壁は、複雑だとしても一定の法則があるの。それさえ解いてしまえば、患者の心の芯に到達することは可能だわ。それができれば、問題を取り除くこともできる。それはおわかりね?」
「ええ。だが、今回はそうではないのですか?」
「そうなの。吉岡刑事のご家族の方からいろんな情報を得て、それをキーワードとしてぶつけてみたんだけど、どれもまったく反応をしない。彼の心の壁になっているのは彼自身の心のトラウマというより、別の誰かが意図的に作ったもののようだわ」
「つまり、吉岡を廃人の状態にまで追い込んだ人間 ── “あの男”か」
大石が腕組みをして呟く。
井手が頷いた。
「ええ、そうね。多分。そういうのは、今回だけよ。先の中谷や橘は、結局彼らの心の中にあるトラウマを利用したものだったの。だから突破口が見出せた。でも、今度のは違う。相手は本気で人格を破壊するつもりできている。余程気に入らないことがあったのか、彼をそこまで追い込むのに十分な時間がかけられたのか・・・。でもね。不思議なのよ」
井手の向かいに座る男二人が、井手を同時に見つめた。井手の次の言葉を待った。
「“あの男”が北原正顕だとして、北原正顕の過去の資料を元にして、彼の場合のキーワードもぶつけてみたの。でも反応がない。まるで他人事のようにせせら笑っている感じよ。むしろ喜んでいるといった風な反応が返ってくる。これではプロテクトを解く鍵 ── つまり弱点ということにはならないわ」
「・・・どういう、意味ですか?」
ちんぷんかんぷんな様子の豊中は、井手と大石の顔を交互に見比べた。大石が唸り声を上げる。
まさか・・・と彼は思った。
「どうしたの? 大石」
井手も大石のひらめきに気がついたようだった。「ん?」と大石が顔を上げる。
「何か、考えが?」
「ああ・・・」
大石は、井手の書いた図式の中にある『あの男=北原正顕』に×印をつけた。
「もし、根本的に我々の見方が間違っていたとしたら・・・?」
井手が目を見開く。
「北原の仕業じゃないってこと?」
彼女はしばらく考えをめぐらせて、「そうね。そうかもしれない」と答えた。
「井手、何とかその相手がどんな人間なのか、しっぽを掴むことはできないのか?」
「いやぁ・・・それは無理でしょう。今の方法では」
豊中が声を上げる。
「井手先生の治療をモニターさせてもらいましたが、催眠療法での限界は既に到達していると私は感じました」
「どうなんだ、井手」
「そう・・・。そうね、残念ながら。まだ一日しか時間をかけてないから、なんとも言えないけれど、豊中さんの見解は正しいと思うわ」
大石が溜息をつく。
「手詰まりということか・・・」
「いいえ」
井手が一際低い声で言った。再び男二人の目が井手に集まる。
「私にだってプライドがある。連れ戻すといった以上、私はやるわ」
「しかし、井手。残りは二日だ。流石の俺も、二日しか持ちこたえられない。二日経てば、吉岡の身柄は検察に移される。おそらくそこで簡易精神鑑定を受け、不起訴処分になるだろう。そうなれば我々は吉岡に手を出すことはできなくなる。国家指定の精神病院に移送されてお仕舞いだ」
「わかっているわ、そんなこと」
井手は、北原正顕につけられた×印を見つめた。
「あと二日・・・。あの方法なら、間に合うかもしれない・・・」
「あの方法?」
豊中が怪訝そうな表情を浮かべる。
「・・・EEGコンタクト」
井手が静かに呟いた。大石はわからないと言った表情を浮かべたが、豊中の顔色が見る間に青ざめた。
「そ、それは危険です!」
「どういうことだ?」
「EEGコンタクトとは、患者の脳波と治療者の脳波を互いの脳に直接刺激として交換させ、互いの脳の動きを伝え合うものなの。脳波は通常、脳から発せられる電子信号を増幅して図表化したものだけど、それを更に細かく分析することで・・・つまりどのような信号が、脳のどの部分で起こっているかを正確に探り出すことができれば、それを再現することが可能なの。別の脳の全く場所に、全く同じ電流刺激を与えると、疑似体験ができるという訳ね。個人の脳みその経験値によっては多少ずれが出てくるかもしれないけれど、対象者が何を考え、何を訴えようとしているかは手に取るようにわかるわ」
「まるでSF映画みたいだな・・・」
「EEGコンタクトは、既に確立されている技術よ。 ── ただし、非合法だけど」
「そうです!」
豊中が声を荒げる。
「日本は愚か、世界の精神医学界でも論争になったんです。結果、人道に反するという理由で、排除されました。この技術が悪用されれば、プライバシーの侵害はもとより、マインドコントロールが安易に行われるという危険も大いにあるからです。だから、この地球上で確認できる範囲では、EEGコンタクトに関する資料、技術、装置全てが廃棄処分にされているはず・・・」
「あるわ」
井手が、豊中とは対照的に静かな声で言う。
「うちのクリニックにある。もちろん、うちでも封印された代物として、倉庫で埃を被っている状態だけど。確か院長が廃棄処分にせず、そのまま置いていたはずよ。大石、ということだから、もう一働きしてほしいの。吉岡刑事をクリニックに移送できるように計らってほしい」
「井手さん!」
豊中が立ち上がる。
「私が危惧しているのは、何も法的な問題を言ってるだけじゃないんですよ! あの方法は危険だ。下手をすれば、あなたがこの世界に帰って来れなくなる。患者の脳に直接触れるということは、容易なことではないんだ」
「そんなことは百も承知よ!」
井手が一喝する。
豊中もその迫力に怯んだ。
「けれど、このまま放っておけるというの? 人が何人も死んで、何人も人が一生抱えていかねばならない重い傷を負ったのよ。一人の許されざる人間の仕業で。このままにしておけば、次の被害者がきっと出る。犯人が死に至るまで、ずっと。いや、例え犯人が死んでも、この世に残された沢山の傷は癒されることなく残っていくのよ。それを阻める可能性が少しでも残されているというのに、それを放っておけというの?! それを止めるだけの責任を、あなたは取れる?!」
井手の怒鳴り声を聞いて、制服警官が病室のドアを開けた。
「どうかしましたか?!」
大石がソファーから立ち上がり、警官に向かって静かにこう言った。
「吉岡を坂出メンタルクリニックに移送する。責任は私が持つ。早くしろ」
櫻井が潮ヶ丘署に入ると、皆一様に驚いた様子で彼を見つめた。
昨日の吉岡の一件が早くも耳に入っているのだろう。おそらく、櫻井が小夜子の病室の前でした告白も。
誰もが遠巻に櫻井を眺め、声を掛けてくることはなかった。その目は、櫻井を軽蔑するというよりは寧ろ、困惑しているといった表情であった。
櫻井は、全身にそんな視線を受け続けながら、刑事課を目指した。
刑事課の室内は閑散としていて、殆どの人間が出払っていた。
だが、櫻井が思った通り、高橋課長は刑事部屋の一番奥、課長席に座り、難しい顔で窓の外を見つめていた。
櫻井が課長席の前に立つと、ようやく気がついたのか、高橋は少し驚いた顔をして櫻井を見上げた。
「ご迷惑をおかけしました」
しっかりした口調で櫻井がそう言うと、高橋は少し表情を和らげた。
「傷の方は大丈夫なのか」
「はい。ご心配をおかけして・・・。でも大丈夫です。何もかも」
「そうか・・・」
「吉岡さんと小夜子さんの容態は・・・」
「うむ」
高橋は再び窓の外に目をやると、いつも通りの落ち着いた声で言った。
「小夜子さんは完全に持ち直して、今朝集中治療室を出た。意識も回復したそうだ。吉岡の方は、まだ容態は好転していないらしい。だが、あの先生がついている。まだ時間もあるし、アイツは帰って来ると信じている」
「・・・はい」
櫻井も静かに答えた。
「課長」
「なんだ」
「捜査に、復帰させてください。大石さんの特捜に」
高橋が、ゆっくり櫻井の方へ身体を向ける。
「この事件は、自分が最後の決着をつけない限り、終わらないと確信しています。このまま手をこまねいて見ているだけだなんて、自分にはできません」
高橋は何も言わず、櫻井を見上げ続けている。
櫻井は言った。
「もう自分を見失ったりはしません。お願いします。自分を、捜査に・・・」
「駄目だ」
「課長!」
「お前は事件の関係者だ。事件の関係者が捜査に加われないことは、お前も十分知っているだろう?」
「しかし、課長!」
「何度も言わせるな」
そう言う高橋の声は、以前の時とは違い、酷く穏やかなものだった。
高橋は、物悲しそうな瞳で櫻井を見た。
「はっきり言おう。相手は、お前が目的なんだ。お前を破壊するために、苦しめるためにこんな馬鹿げたことをしている。復讐だかなんだか知らないが、そこに普通の理屈は通用しない。相手は、お前を陥れるためなら、何でもするだろう。それがわかっているのに、それを許可すると思うのか? 俺がお前をみすみす失うようなことを許すとでも?」
櫻井はぎゅっと目を瞑った。高橋の思いが櫻井の心を押し掴んだ。
幼い頃、深い罪を背負った櫻井を一番に気に掛けてくれたのは高橋だった。彼は言葉少なだったが、いつの時も櫻井の行く末を気にやんでいてくれた。
櫻井の目から、涙が零れた。
高橋の言葉を聞いて泣いたのは、7歳の時以来のことだった。
高橋の思いを痛いほど知っていて、それでも次の言葉を言わねばならない自分が、たまらなく辛かった。
── でも、自分は、行かねばならない・・・。
「捜査に参加できないのであれば、自分はここを去ります」
櫻井は、懐から辞表を取り出すと、高橋の前にそれを置いた。それにあわせて、警察手帳と手錠をその隣に置く。
「今まで、本当にお世話になりました」
櫻井は深々と頭を下げると、高橋が何かを言い出す前にその場を去った。
一度も振り返らなかった。
案の定、香倉の携帯電話に公安部の榊警視正からコンタクトがあったのは、櫻井が香倉の部屋を出てからすぐのことであった。
『仲貝議員の私設秘書に接触して、情報を得ろ。やり方はお前に任せる』
公安部の目的は、この不可解な事故の解決ではなく、そこで何が起こったかを正確に把握することであった。
世の中で発生する重要な事件、事故について、公安が「知らない」ということがあってはならない。
公安部特務員の任務のほとんどは、公に警察が動けない事項に関する情報収集が主な仕事であった。したがって公安部が逮捕状を裁判所に請求することは殆どない。
香倉は、私設秘書に関する情報をメールで受け取ると、クローゼットの中から喪服を取り出し、手早く着替えた。
ベッドサイドのサイドボードの引き出しを開ける。数ある伊達眼鏡の中から黒縁のスクエア型を取り出すと、腰のポケットに突っ込んだ。そして、引き出しを全て引き抜くと、眼鏡をベッドの上にぶちまけて、引き出しの裏を探った。
引き出しの底がカタリと外れる。二枚底の下に隠されていたのは、本革製のヒップホルスターに包まれた、きれいに手入れされているオートマチックタイプの拳銃、シグ社製のザウエルP229だった。
香倉は弾倉の中身を確認すると、それをホルスターに突っ込み、腰に装着する。そして上から漆黒のジャケットを羽織った。
「 ── ショータイムだ」
香倉はそう呟くと、部屋を出て行った。
徹夜で吉岡の治療にあたった井手だったが、彼の心の中にできた壁は意外に分厚く、その奥にまで井手の声が届くことはなかった。
井手は催眠療法の腕に関しては、日本でも五本の指に入るほどの実力を持っていたが、彼女の技術を持ってしても吉岡の中の壁を崩すことはできなかった。
「少し休んだ方がいいのではないか」
ずっと付き合っていた大石が、井手の体調を考えて、休養できる部屋を手配した。
吉岡が収容された総合病院の精神科医・豊中に頼むと、彼はVIP用の病室を井手のために提供してくれた。特別の計らいだった。
そこは吉岡の病室の向かいにある個室で、患者用のベッドの他に、簡単な応接セットが構えられている部屋だった。
そのソファーに腰掛けながら、井手は眉間を指で押えた。
「 ── 私も、ここまで頑丈にプロテクトされているとは思わなかったわ・・・」
「プロテクト・・・ですか?」
井手よりは随分年上の豊中であったが、実力では井手にとても適わない。そのせいなのか、豊中は井手に敬語を使っていた。
井手は、目の下にクマのできた顔で大きな溜息をつくと、テーブルの上のメモ用紙に図式を書いて説明した。
「本来なら、患者本人が自己防衛のために作る壁は、複雑だとしても一定の法則があるの。それさえ解いてしまえば、患者の心の芯に到達することは可能だわ。それができれば、問題を取り除くこともできる。それはおわかりね?」
「ええ。だが、今回はそうではないのですか?」
「そうなの。吉岡刑事のご家族の方からいろんな情報を得て、それをキーワードとしてぶつけてみたんだけど、どれもまったく反応をしない。彼の心の壁になっているのは彼自身の心のトラウマというより、別の誰かが意図的に作ったもののようだわ」
「つまり、吉岡を廃人の状態にまで追い込んだ人間 ── “あの男”か」
大石が腕組みをして呟く。
井手が頷いた。
「ええ、そうね。多分。そういうのは、今回だけよ。先の中谷や橘は、結局彼らの心の中にあるトラウマを利用したものだったの。だから突破口が見出せた。でも、今度のは違う。相手は本気で人格を破壊するつもりできている。余程気に入らないことがあったのか、彼をそこまで追い込むのに十分な時間がかけられたのか・・・。でもね。不思議なのよ」
井手の向かいに座る男二人が、井手を同時に見つめた。井手の次の言葉を待った。
「“あの男”が北原正顕だとして、北原正顕の過去の資料を元にして、彼の場合のキーワードもぶつけてみたの。でも反応がない。まるで他人事のようにせせら笑っている感じよ。むしろ喜んでいるといった風な反応が返ってくる。これではプロテクトを解く鍵 ── つまり弱点ということにはならないわ」
「・・・どういう、意味ですか?」
ちんぷんかんぷんな様子の豊中は、井手と大石の顔を交互に見比べた。大石が唸り声を上げる。
まさか・・・と彼は思った。
「どうしたの? 大石」
井手も大石のひらめきに気がついたようだった。「ん?」と大石が顔を上げる。
「何か、考えが?」
「ああ・・・」
大石は、井手の書いた図式の中にある『あの男=北原正顕』に×印をつけた。
「もし、根本的に我々の見方が間違っていたとしたら・・・?」
井手が目を見開く。
「北原の仕業じゃないってこと?」
彼女はしばらく考えをめぐらせて、「そうね。そうかもしれない」と答えた。
「井手、何とかその相手がどんな人間なのか、しっぽを掴むことはできないのか?」
「いやぁ・・・それは無理でしょう。今の方法では」
豊中が声を上げる。
「井手先生の治療をモニターさせてもらいましたが、催眠療法での限界は既に到達していると私は感じました」
「どうなんだ、井手」
「そう・・・。そうね、残念ながら。まだ一日しか時間をかけてないから、なんとも言えないけれど、豊中さんの見解は正しいと思うわ」
大石が溜息をつく。
「手詰まりということか・・・」
「いいえ」
井手が一際低い声で言った。再び男二人の目が井手に集まる。
「私にだってプライドがある。連れ戻すといった以上、私はやるわ」
「しかし、井手。残りは二日だ。流石の俺も、二日しか持ちこたえられない。二日経てば、吉岡の身柄は検察に移される。おそらくそこで簡易精神鑑定を受け、不起訴処分になるだろう。そうなれば我々は吉岡に手を出すことはできなくなる。国家指定の精神病院に移送されてお仕舞いだ」
「わかっているわ、そんなこと」
井手は、北原正顕につけられた×印を見つめた。
「あと二日・・・。あの方法なら、間に合うかもしれない・・・」
「あの方法?」
豊中が怪訝そうな表情を浮かべる。
「・・・EEGコンタクト」
井手が静かに呟いた。大石はわからないと言った表情を浮かべたが、豊中の顔色が見る間に青ざめた。
「そ、それは危険です!」
「どういうことだ?」
「EEGコンタクトとは、患者の脳波と治療者の脳波を互いの脳に直接刺激として交換させ、互いの脳の動きを伝え合うものなの。脳波は通常、脳から発せられる電子信号を増幅して図表化したものだけど、それを更に細かく分析することで・・・つまりどのような信号が、脳のどの部分で起こっているかを正確に探り出すことができれば、それを再現することが可能なの。別の脳の全く場所に、全く同じ電流刺激を与えると、疑似体験ができるという訳ね。個人の脳みその経験値によっては多少ずれが出てくるかもしれないけれど、対象者が何を考え、何を訴えようとしているかは手に取るようにわかるわ」
「まるでSF映画みたいだな・・・」
「EEGコンタクトは、既に確立されている技術よ。 ── ただし、非合法だけど」
「そうです!」
豊中が声を荒げる。
「日本は愚か、世界の精神医学界でも論争になったんです。結果、人道に反するという理由で、排除されました。この技術が悪用されれば、プライバシーの侵害はもとより、マインドコントロールが安易に行われるという危険も大いにあるからです。だから、この地球上で確認できる範囲では、EEGコンタクトに関する資料、技術、装置全てが廃棄処分にされているはず・・・」
「あるわ」
井手が、豊中とは対照的に静かな声で言う。
「うちのクリニックにある。もちろん、うちでも封印された代物として、倉庫で埃を被っている状態だけど。確か院長が廃棄処分にせず、そのまま置いていたはずよ。大石、ということだから、もう一働きしてほしいの。吉岡刑事をクリニックに移送できるように計らってほしい」
「井手さん!」
豊中が立ち上がる。
「私が危惧しているのは、何も法的な問題を言ってるだけじゃないんですよ! あの方法は危険だ。下手をすれば、あなたがこの世界に帰って来れなくなる。患者の脳に直接触れるということは、容易なことではないんだ」
「そんなことは百も承知よ!」
井手が一喝する。
豊中もその迫力に怯んだ。
「けれど、このまま放っておけるというの? 人が何人も死んで、何人も人が一生抱えていかねばならない重い傷を負ったのよ。一人の許されざる人間の仕業で。このままにしておけば、次の被害者がきっと出る。犯人が死に至るまで、ずっと。いや、例え犯人が死んでも、この世に残された沢山の傷は癒されることなく残っていくのよ。それを阻める可能性が少しでも残されているというのに、それを放っておけというの?! それを止めるだけの責任を、あなたは取れる?!」
井手の怒鳴り声を聞いて、制服警官が病室のドアを開けた。
「どうかしましたか?!」
大石がソファーから立ち上がり、警官に向かって静かにこう言った。
「吉岡を坂出メンタルクリニックに移送する。責任は私が持つ。早くしろ」
櫻井が潮ヶ丘署に入ると、皆一様に驚いた様子で彼を見つめた。
昨日の吉岡の一件が早くも耳に入っているのだろう。おそらく、櫻井が小夜子の病室の前でした告白も。
誰もが遠巻に櫻井を眺め、声を掛けてくることはなかった。その目は、櫻井を軽蔑するというよりは寧ろ、困惑しているといった表情であった。
櫻井は、全身にそんな視線を受け続けながら、刑事課を目指した。
刑事課の室内は閑散としていて、殆どの人間が出払っていた。
だが、櫻井が思った通り、高橋課長は刑事部屋の一番奥、課長席に座り、難しい顔で窓の外を見つめていた。
櫻井が課長席の前に立つと、ようやく気がついたのか、高橋は少し驚いた顔をして櫻井を見上げた。
「ご迷惑をおかけしました」
しっかりした口調で櫻井がそう言うと、高橋は少し表情を和らげた。
「傷の方は大丈夫なのか」
「はい。ご心配をおかけして・・・。でも大丈夫です。何もかも」
「そうか・・・」
「吉岡さんと小夜子さんの容態は・・・」
「うむ」
高橋は再び窓の外に目をやると、いつも通りの落ち着いた声で言った。
「小夜子さんは完全に持ち直して、今朝集中治療室を出た。意識も回復したそうだ。吉岡の方は、まだ容態は好転していないらしい。だが、あの先生がついている。まだ時間もあるし、アイツは帰って来ると信じている」
「・・・はい」
櫻井も静かに答えた。
「課長」
「なんだ」
「捜査に、復帰させてください。大石さんの特捜に」
高橋が、ゆっくり櫻井の方へ身体を向ける。
「この事件は、自分が最後の決着をつけない限り、終わらないと確信しています。このまま手をこまねいて見ているだけだなんて、自分にはできません」
高橋は何も言わず、櫻井を見上げ続けている。
櫻井は言った。
「もう自分を見失ったりはしません。お願いします。自分を、捜査に・・・」
「駄目だ」
「課長!」
「お前は事件の関係者だ。事件の関係者が捜査に加われないことは、お前も十分知っているだろう?」
「しかし、課長!」
「何度も言わせるな」
そう言う高橋の声は、以前の時とは違い、酷く穏やかなものだった。
高橋は、物悲しそうな瞳で櫻井を見た。
「はっきり言おう。相手は、お前が目的なんだ。お前を破壊するために、苦しめるためにこんな馬鹿げたことをしている。復讐だかなんだか知らないが、そこに普通の理屈は通用しない。相手は、お前を陥れるためなら、何でもするだろう。それがわかっているのに、それを許可すると思うのか? 俺がお前をみすみす失うようなことを許すとでも?」
櫻井はぎゅっと目を瞑った。高橋の思いが櫻井の心を押し掴んだ。
幼い頃、深い罪を背負った櫻井を一番に気に掛けてくれたのは高橋だった。彼は言葉少なだったが、いつの時も櫻井の行く末を気にやんでいてくれた。
櫻井の目から、涙が零れた。
高橋の言葉を聞いて泣いたのは、7歳の時以来のことだった。
高橋の思いを痛いほど知っていて、それでも次の言葉を言わねばならない自分が、たまらなく辛かった。
── でも、自分は、行かねばならない・・・。
「捜査に参加できないのであれば、自分はここを去ります」
櫻井は、懐から辞表を取り出すと、高橋の前にそれを置いた。それにあわせて、警察手帳と手錠をその隣に置く。
「今まで、本当にお世話になりました」
櫻井は深々と頭を下げると、高橋が何かを言い出す前にその場を去った。
一度も振り返らなかった。
案の定、香倉の携帯電話に公安部の榊警視正からコンタクトがあったのは、櫻井が香倉の部屋を出てからすぐのことであった。
『仲貝議員の私設秘書に接触して、情報を得ろ。やり方はお前に任せる』
公安部の目的は、この不可解な事故の解決ではなく、そこで何が起こったかを正確に把握することであった。
世の中で発生する重要な事件、事故について、公安が「知らない」ということがあってはならない。
公安部特務員の任務のほとんどは、公に警察が動けない事項に関する情報収集が主な仕事であった。したがって公安部が逮捕状を裁判所に請求することは殆どない。
香倉は、私設秘書に関する情報をメールで受け取ると、クローゼットの中から喪服を取り出し、手早く着替えた。
ベッドサイドのサイドボードの引き出しを開ける。数ある伊達眼鏡の中から黒縁のスクエア型を取り出すと、腰のポケットに突っ込んだ。そして、引き出しを全て引き抜くと、眼鏡をベッドの上にぶちまけて、引き出しの裏を探った。
引き出しの底がカタリと外れる。二枚底の下に隠されていたのは、本革製のヒップホルスターに包まれた、きれいに手入れされているオートマチックタイプの拳銃、シグ社製のザウエルP229だった。
香倉は弾倉の中身を確認すると、それをホルスターに突っ込み、腰に装着する。そして上から漆黒のジャケットを羽織った。
「 ── ショータイムだ」
香倉はそう呟くと、部屋を出て行った。
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