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一流ホテルの最上階にあるレストランに姿を現したその女は、匂い立つような色香を周囲に撒き散らしていた。
今時の女性らしく背が高く、すらりと足が長い。
細身の身体を黒いワンピーススーツと赤いスカーフで彩った女は、黒髪を上品にアップさせた髪型で、シャネルの大きな黒いサングラスをかけていた。
ローズレッド色で微笑を湛えるその白い顔は、さながら和風のオードリー・ヘップバーンである。いや、オードリーにしては、些か色気がありすぎるのか。
レストラン中の人間が見惚れるような熱い溜息をつく中、女は一般客の目が届かないVIPルームへと向かった。
女がその個室に入ると、男が待ちかねたように席を立った。
「ああ、ようやく現れてくれたね、ナオミ」
「待つことが男の喜び、でしょ」
男にエスコートされながら席につく。
男は、レストランのマネージャーに目配せをして晩餐の始まりを告げると、女の向かいの席にさっさと座り、女の両手を握った。
「この日を待ちかねていたよ」
ロマンスグレーといった風情の男は、その様相に似合わず額に汗を浮かべながら、焦り気味の笑顔を浮かべた。
女は対照的に落ち着いたもので、男の手をすいっと逃れると、傍らの白ワインが注がれたグラスに口をつけた。
「でも先生、いいのかしら? ここでこんなことをしている暇はないのではなくて? 党執行部の大切な話し合いは終わってないんでしょ?」
「そんなもの、君が会ってくれるというのなら、大したことではないよ」
「ごめんなさい、先生のご都合も考えないで・・・。ちょっと急にお金が必要になってしまったから」
「ああ、ああ。わかっているよ、みなまで言わなくても」
男は懐から分厚い封筒を取り出すと、女のワイングラスの前にそれを差し出した。
「残りの金は、後日用意が出来次第、銀行に振り込んであげるから」
女は口の端だけ上げる笑みを浮かべると、封筒を自分のハンドバックに仕舞った。
その腕を、男が掴む。
「だから、今夜はいいだろう? 久しぶりなんだ。ここのスイートを取ってあるよ。君の好きなイチゴも用意しておいた。苦労したんだよ。いい品がなくて」
女は、「いいわ」と答えると、ローズレッドの唇をゆっくりと舐めた。
男は、スイートルームに入ると、尚更焦った様子で女にしがみ付いた。
「待って。洋服が皺になっちゃうわ」
「いいじゃないか。また新しいものを買ってあげるよ」
ダブルベッドになだれ込む。
男は、女の服を剥ぎ取るように脱がした。
中から、真っ白な肌と真っ黒な下着、そしてガーターベルトが現れる。
男はすっかり興奮した様子で、女の身体にむしゃぶりついた。
女は文句なく美しい容姿と肌をしていたが、唯一文句をつけるとすれば、それは薄い胸元だろう。
黒いブラジャーの向こうから現れた胸元は、かなり小ぶりである。
だが男はそんなことなど気にしない。
さっさと女の下着全てを奪い去り、自分も服を脱ぐと、すぐさま女の中に自分を突き入れた。
「本当にせっかちね。痛いじゃないの」
「すぐよくなるさ」
「やめて」
「いいじゃないか、ちょっとぐらい」
「やめて」
「ああ、ナオミ、いいよ」
「やめてって言ってるでしょ!!」
女は、男を突き飛ばす。
「私が嫌がることは絶対にしないって、あれほど約束したわよね」
男は、床に投げ出され、ゼイゼイと息をしながら女を見上げた。
「君にはたくさんの金を貢いでやってるんだ。こんなことぐらい、大したことないだろう?」
「こんなことですって?」
女は目を見開いた。
「私のここは凄く狭いのよ。そんなに乱暴にしたら、傷つくわ。知ってるでしょ」
男は、口の周りにローズレッドの汚れを付けまわった情けない顔で、口を戦慄かせた。
「だって君は、セックスが大好きなんだろう? いつもそう言ってたじゃないか。こっちは今日まで随分我慢してきたんだ。お望み通り金も用意してやった。少しぐらいこちらに主導権を握らせてくれたっていいじゃないか・・・」
女は益々目を充血させた。
「ええ、そうよ。セックスは大好き。気持ちのいいセックスならね。でもさっきのは何? あれはセックス? ただの強姦じゃないの」
「そんなつもりはなかったんだよ、ナオミ・・・。ナオミ許してくれ・・・」
男は、女の股間に縋りつく。
そのまま女を押し倒し、「でも我慢ができないんだよ。そこが痛いんなら、後ろでもいいんだ・・・。こっちの方も好きなんだろ・・・? な、おとなしく言うことをきいてくれよ」と囁く。
「いい加減にしてよ!」
女は、男の両こめかみを両側からぐっと掴んで引き上げた。
「ナオミ・・・!」
女は、鬼のような形相で男の目に自分の目を合わせると、獣のような唸り声を上げて男の目を見射た。
ドクンと男の身体が跳ね上がる。
女はぎゃぁと獰猛な声を上げながら、男のこめかみを掴んだまま投げ飛ばした。
ぶちぶちと髪の毛が切れる音がする。
男の身体は人形のようにグニャグニャと揺れ、床に倒れた。
男は、目を見開きポカンと口を開けたまま、天井を見上げている。
女は、ゆっくりと立ち上がると、両手に残った髪の毛をふっと吹き飛ばした。
「私を操ろうなんて、なんて浅はかな男なの」
女は、大の字になって転がる男をそのままにして、服を身につけた。
ベッドの傍らにあるドレッサーの前に座り、ウィッグを外すとゴミ箱にそれを捨てた。
すっかり乱れてただの汚れになっている口紅をティッシュで拭うと、別の色の口紅をカバンから取り出して塗った。
鏡に映る女の顔の向こうでは、口からヨダレを垂らす男の横顔が見えている。
女はそれをじっと見つめて言った。
「支配者はこの私だ。いつの時も」
女は、すっかり身なりをきれいに整えると、男の方に身体を向けた。
「立ちあがって服を着ろ」
男は、空を見つめたまま立ち上がるとのろのろと洋服を身につけた。
「そのまま部屋を出て、ロビーに行け。ホテルを出たら、真っ直ぐ歩くんだ。何があっても止っては駄目。ずっとずっと歩くがいい。誰かに止められそうになってもね」
男は、口からヨダレを垂らしたまま、ドアに向かう。
「ヨダレはちゃんと拭け。もういい大人なんだから」
男の足が止る。男は、スーツの袖で口元を拭うと、パタンと部屋を出て行った。
女は、ハンドバックから煙草を取り出して一服すると、サングラスを掛けてスカーフを頭に巻き、部屋を後にした。
女がホテルのロビーを出ると、そこは大騒ぎになっていた。
悲鳴と野次馬の騒ぎ声、車のクラクションの音。その中に混じって、「救急車を呼べ! 早く!」という怒鳴り声と、「ありゃ助からんな・・・、大型バスに引きずられたんだ。内臓が飛び出してる・・・」という囁き声が聞こえた。
女は、雑踏の間から道路に転がる赤い塊をチラリと見た後、何食わぬ顔をしてその場を立ち去ったのであった。
ねぇ、正道。
今日は、男の愚かさをほとほと思い知ったの。
どの男も父さんと同じ。
自分の欲望を押し付けてくるだけ。
父さんは許せたわ。
悦びを教えてくれたのは、父さんだったから。
でも、他人は駄目よ。
父さんや正道と同じ肌触りの男でない限り、私は認めたりしない。
ああ、あの触り心地。滑らかな肌。
私達の遺伝子のみが持つ、極上の感覚。
どうしてお前は気づかないの?
お前の素晴らしさを。
ああ、早くこの手にお前を抱きたい。
そしてお前の脳髄を犯してあげるの。
お前の喘ぐ顔が早く見たいわ。
お前は私のもの。
そうよね、正道。
今までお姉さんがしてあげたことは、早くお前が今の世界から飛び出す手助けをしてあげているのよ。
早く警察だなんてものは辞めておしまいなさい。
姉さんは待っているのよ、お前のことを。
この世のものとは思えない快楽を、私がお前に与えてあげる。
だからお前には、誰も触れることができないようにしてやっているの。
お前に触れていいのは、この私だけ。
お前と同じ神経細胞を持つ、この私だけなのよ。
翌朝、結局櫻井は、香倉の寝ていたソファーに寄りかかった姿勢のまま目が覚めた。
身体には、薄手の毛布がかけられてあった。
櫻井は目を擦りながら身体を起こした。
振り返ると、キッチンカウンターで香倉が昨日の残りのチキンを食べていた。
思わずその横顔を見つめてしまう。
香倉が食事をしている姿は初めて見る。
普段よりリラックスした様子は、香倉も普通の人間であるという感じがして、彼の存在を身近に感じることができた。
── あ、あくびした・・・・。
香倉は、あくびを噛み殺すと、新聞に目をやりながら食後のコーヒーを啜った。
目が充血している。彼は櫻井以上によく眠れなかったらしい。
櫻井は正座をして、毛布をきちんと畳んだ。
香倉が櫻井に気がつく。
「おはようございます」
声をかけられる前に櫻井はしっかりした声で言った。
香倉は少し微笑むと、「飯食えよ。昨日の残りしかないけど」と言って席を立った。
「あ、自分がします」
櫻井は素早く立ち上がり、香倉の手から食器を取ると、自分でチキンを皿に盛った。
しばらくは無言で食事を取った。
その間に香倉は新聞を読み終え、畳んでテーブルの上に置いた。その一面に櫻井は目を奪われる。
「え・・・、仲貝議員、死んだんですか・・・」
あるホテル前での現場写真が大きく掲載されている。
与党の有力政治家の不可解な交通事故死。自殺か?とも書かれてある。
「ここ数年、こういう事故が多いな」
香倉が呟いた。
「財界の大物や著名な作家。音楽家。それに新興宗教の教祖もいたな。不可解な事故死ってやつ」
香倉の言葉を聞いて、櫻井もああと思い出した。
そういえば、都心でここ数年の間に著名人が重ねて事故で亡くなっている。頻度はさほど高くないので、単なる事故死で片付けられているが、結局のところ、どれも原因がわかっていない。
「本庁もウカウカしてられないな。動くかもしれん」
「え? 動くって・・・」
「榊のオヤジが、だよ。今回は次期総理とも呼び声のあった大物政治家だ。謎のままではすまんだろう。公安が動きそうなネタだ」
「じゃぁ・・・」
香倉が、ちらりと櫻井を見る。
「そうだな。俺に声がかかるかもしれん。ホームグラウンドに晴れてカムバックだ」
「そうか・・・」
櫻井は、自分の手元を見つめた。
自分も、このまま「ウカウカ」はしていられないのだ。
「香倉さん・・・」
「ん? なんだ」
櫻井は、スプーンを置いて姿勢を正すと、香倉を真っ直ぐ見た。
「自分は、署に帰ります」
しばらくの間、香倉は櫻井を見つめた。
「大丈夫なのか」
「はい」
櫻井は、静かに微笑んだ。
「勝機は、まだあるんですよね」
香倉も、笑みを浮かべる。
「ああ。そうだな。── 少し待ってろ」
香倉は席を立つと、香倉の寝室へと向かった。
すぐに戻ってくる。
その手には、スーツの入ったビニールケースがあった。
「これを着て行けよ」
櫻井が香倉からケースを受け取り、ジッパーを下ろすと、中から黒のシンプルなスーツと白いシャツ、濃紺でモダンな柄のネクタイが出てきた。
「お前が寝ている間、適当に買ってきておいたものだ。昨日お前が着ていた制服は血の染みが酷かったんで捨てた。あの手の染みは消えないからな」
「で、でも・・・」
躊躇う櫻井に、香倉は釘を刺す。
「そんなことを言ったって、その恰好で出頭はできないだろ?」
櫻井は、自分の恰好を見下ろす。
香倉に借りたTシャツにスウェット。サイズが大きくてモタモタしている感じだ。
「俺の服を貸してやろうにもサイズが合わん。仕方がないだろう。素直に受け取れよ」
「すみません・・・」
「いいさ。今度給料が出たらなんか奢れ」
その言い草がおかしくて、櫻井は笑った。
第一、所轄の刑事が公安の特務捜査員に表立って奢れるはずがない。
香倉は、それが無理なことを承知でそう言っているのだ。
「本当にすみません」
「何度も謝るなよ。うるさいな」
香倉がそう言って食事の後片付けをしている間に、櫻井はスーツに着替えた。
香倉は「適当に」と言っていたが、実際には櫻井の身体にぴったりと馴染んだ。
櫻井が普段着ている安物のスーツとは違って、細身でシャープなシルエットである。
櫻井の鍛えぬかれた身体を無理なくしかも抜群の着心地で収めているところを見ると、香倉の「適当」は普通の人の感覚よりズバ抜けている。
マットな質感の黒い生地で作られたスーツも、目が覚めるように真っ白いシャツも濃紺の品のいいネクタイも、櫻井によく似合った。
真っ黒く癖のない髪に切れ長の目。意思の強そうな眉。引き締まった口元。そのどれもがスーツとよくマッチしていて、互いが引き立てあっていた。
目元の泣き黒子だけが、唯一アンニュイな印象を与える。
「馬子にも衣装ってとこかな」
櫻井が振り返ると、香倉が煙草を吹かしていた。
「どういう意味ですか?」
櫻井が尋ねると、香倉は肩を竦めた。
「別に・・・。それより、お前、署に出るのはいいけど、病院に行って包帯も替えてもらえよ。ほっとくと傷が化膿するぞ」
香倉はそう言って、洗面所の方に消えていった。
15分後、櫻井は玄関のドアを開けた。
外に出て振り返ると、頭を下げる。
「お世話になりました」
「もうここに来るなよ」
開け放された玄関のドアに凭れかかりながら、ニヤニヤと笑いつつ、香倉が言う。櫻井も少し笑って、「はい」と答えた。
櫻井は再度頭を下げると、エレベーターホールに向かって歩き出す。その様子を、目を細めながら見つめる香倉だったが、ふいに櫻井の足が止ったことを怪訝に思った。
櫻井が振り返る。
彼は何か思いつめた表情で香倉のことを見つめると、ズカズカと荒い足取りで戻ってきた。
「どうした?」と香倉が訊く前に、櫻井の唇が香倉の唇に、乱暴に押し付けられた。
思わず香倉も、その荒々しい口付けに応える。
互いの舌をきつく吸いあって、離れる。
透明な糸が二人の唇の間に伸びて、やがてぷつりと切れた。
顔の間近で櫻井のほぅと吐き出す吐息が聞こえた。
香倉から身体を離した櫻井は、頬を赤くしながらも口を真一文字に引き結び、再び頭を下げると、何も言わず香倉の元を去って行った。
香倉は、驚いた顔を隠しもせず、しばらく視線を宙に彷徨わせた。
やがて口元に手を持っていく。
指に濡れた感覚がして、見下ろすと血が少しついていた。
不器用な櫻井の口付けのせいで、唇が切れていた。
香倉は、ぺろりと血を舐めると、大きく息を吸い込んでドアに凭れかかり、天を仰いだのだった。
今時の女性らしく背が高く、すらりと足が長い。
細身の身体を黒いワンピーススーツと赤いスカーフで彩った女は、黒髪を上品にアップさせた髪型で、シャネルの大きな黒いサングラスをかけていた。
ローズレッド色で微笑を湛えるその白い顔は、さながら和風のオードリー・ヘップバーンである。いや、オードリーにしては、些か色気がありすぎるのか。
レストラン中の人間が見惚れるような熱い溜息をつく中、女は一般客の目が届かないVIPルームへと向かった。
女がその個室に入ると、男が待ちかねたように席を立った。
「ああ、ようやく現れてくれたね、ナオミ」
「待つことが男の喜び、でしょ」
男にエスコートされながら席につく。
男は、レストランのマネージャーに目配せをして晩餐の始まりを告げると、女の向かいの席にさっさと座り、女の両手を握った。
「この日を待ちかねていたよ」
ロマンスグレーといった風情の男は、その様相に似合わず額に汗を浮かべながら、焦り気味の笑顔を浮かべた。
女は対照的に落ち着いたもので、男の手をすいっと逃れると、傍らの白ワインが注がれたグラスに口をつけた。
「でも先生、いいのかしら? ここでこんなことをしている暇はないのではなくて? 党執行部の大切な話し合いは終わってないんでしょ?」
「そんなもの、君が会ってくれるというのなら、大したことではないよ」
「ごめんなさい、先生のご都合も考えないで・・・。ちょっと急にお金が必要になってしまったから」
「ああ、ああ。わかっているよ、みなまで言わなくても」
男は懐から分厚い封筒を取り出すと、女のワイングラスの前にそれを差し出した。
「残りの金は、後日用意が出来次第、銀行に振り込んであげるから」
女は口の端だけ上げる笑みを浮かべると、封筒を自分のハンドバックに仕舞った。
その腕を、男が掴む。
「だから、今夜はいいだろう? 久しぶりなんだ。ここのスイートを取ってあるよ。君の好きなイチゴも用意しておいた。苦労したんだよ。いい品がなくて」
女は、「いいわ」と答えると、ローズレッドの唇をゆっくりと舐めた。
男は、スイートルームに入ると、尚更焦った様子で女にしがみ付いた。
「待って。洋服が皺になっちゃうわ」
「いいじゃないか。また新しいものを買ってあげるよ」
ダブルベッドになだれ込む。
男は、女の服を剥ぎ取るように脱がした。
中から、真っ白な肌と真っ黒な下着、そしてガーターベルトが現れる。
男はすっかり興奮した様子で、女の身体にむしゃぶりついた。
女は文句なく美しい容姿と肌をしていたが、唯一文句をつけるとすれば、それは薄い胸元だろう。
黒いブラジャーの向こうから現れた胸元は、かなり小ぶりである。
だが男はそんなことなど気にしない。
さっさと女の下着全てを奪い去り、自分も服を脱ぐと、すぐさま女の中に自分を突き入れた。
「本当にせっかちね。痛いじゃないの」
「すぐよくなるさ」
「やめて」
「いいじゃないか、ちょっとぐらい」
「やめて」
「ああ、ナオミ、いいよ」
「やめてって言ってるでしょ!!」
女は、男を突き飛ばす。
「私が嫌がることは絶対にしないって、あれほど約束したわよね」
男は、床に投げ出され、ゼイゼイと息をしながら女を見上げた。
「君にはたくさんの金を貢いでやってるんだ。こんなことぐらい、大したことないだろう?」
「こんなことですって?」
女は目を見開いた。
「私のここは凄く狭いのよ。そんなに乱暴にしたら、傷つくわ。知ってるでしょ」
男は、口の周りにローズレッドの汚れを付けまわった情けない顔で、口を戦慄かせた。
「だって君は、セックスが大好きなんだろう? いつもそう言ってたじゃないか。こっちは今日まで随分我慢してきたんだ。お望み通り金も用意してやった。少しぐらいこちらに主導権を握らせてくれたっていいじゃないか・・・」
女は益々目を充血させた。
「ええ、そうよ。セックスは大好き。気持ちのいいセックスならね。でもさっきのは何? あれはセックス? ただの強姦じゃないの」
「そんなつもりはなかったんだよ、ナオミ・・・。ナオミ許してくれ・・・」
男は、女の股間に縋りつく。
そのまま女を押し倒し、「でも我慢ができないんだよ。そこが痛いんなら、後ろでもいいんだ・・・。こっちの方も好きなんだろ・・・? な、おとなしく言うことをきいてくれよ」と囁く。
「いい加減にしてよ!」
女は、男の両こめかみを両側からぐっと掴んで引き上げた。
「ナオミ・・・!」
女は、鬼のような形相で男の目に自分の目を合わせると、獣のような唸り声を上げて男の目を見射た。
ドクンと男の身体が跳ね上がる。
女はぎゃぁと獰猛な声を上げながら、男のこめかみを掴んだまま投げ飛ばした。
ぶちぶちと髪の毛が切れる音がする。
男の身体は人形のようにグニャグニャと揺れ、床に倒れた。
男は、目を見開きポカンと口を開けたまま、天井を見上げている。
女は、ゆっくりと立ち上がると、両手に残った髪の毛をふっと吹き飛ばした。
「私を操ろうなんて、なんて浅はかな男なの」
女は、大の字になって転がる男をそのままにして、服を身につけた。
ベッドの傍らにあるドレッサーの前に座り、ウィッグを外すとゴミ箱にそれを捨てた。
すっかり乱れてただの汚れになっている口紅をティッシュで拭うと、別の色の口紅をカバンから取り出して塗った。
鏡に映る女の顔の向こうでは、口からヨダレを垂らす男の横顔が見えている。
女はそれをじっと見つめて言った。
「支配者はこの私だ。いつの時も」
女は、すっかり身なりをきれいに整えると、男の方に身体を向けた。
「立ちあがって服を着ろ」
男は、空を見つめたまま立ち上がるとのろのろと洋服を身につけた。
「そのまま部屋を出て、ロビーに行け。ホテルを出たら、真っ直ぐ歩くんだ。何があっても止っては駄目。ずっとずっと歩くがいい。誰かに止められそうになってもね」
男は、口からヨダレを垂らしたまま、ドアに向かう。
「ヨダレはちゃんと拭け。もういい大人なんだから」
男の足が止る。男は、スーツの袖で口元を拭うと、パタンと部屋を出て行った。
女は、ハンドバックから煙草を取り出して一服すると、サングラスを掛けてスカーフを頭に巻き、部屋を後にした。
女がホテルのロビーを出ると、そこは大騒ぎになっていた。
悲鳴と野次馬の騒ぎ声、車のクラクションの音。その中に混じって、「救急車を呼べ! 早く!」という怒鳴り声と、「ありゃ助からんな・・・、大型バスに引きずられたんだ。内臓が飛び出してる・・・」という囁き声が聞こえた。
女は、雑踏の間から道路に転がる赤い塊をチラリと見た後、何食わぬ顔をしてその場を立ち去ったのであった。
ねぇ、正道。
今日は、男の愚かさをほとほと思い知ったの。
どの男も父さんと同じ。
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父さんは許せたわ。
悦びを教えてくれたのは、父さんだったから。
でも、他人は駄目よ。
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ああ、あの触り心地。滑らかな肌。
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だからお前には、誰も触れることができないようにしてやっているの。
お前に触れていいのは、この私だけ。
お前と同じ神経細胞を持つ、この私だけなのよ。
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思わずその横顔を見つめてしまう。
香倉が食事をしている姿は初めて見る。
普段よりリラックスした様子は、香倉も普通の人間であるという感じがして、彼の存在を身近に感じることができた。
── あ、あくびした・・・・。
香倉は、あくびを噛み殺すと、新聞に目をやりながら食後のコーヒーを啜った。
目が充血している。彼は櫻井以上によく眠れなかったらしい。
櫻井は正座をして、毛布をきちんと畳んだ。
香倉が櫻井に気がつく。
「おはようございます」
声をかけられる前に櫻井はしっかりした声で言った。
香倉は少し微笑むと、「飯食えよ。昨日の残りしかないけど」と言って席を立った。
「あ、自分がします」
櫻井は素早く立ち上がり、香倉の手から食器を取ると、自分でチキンを皿に盛った。
しばらくは無言で食事を取った。
その間に香倉は新聞を読み終え、畳んでテーブルの上に置いた。その一面に櫻井は目を奪われる。
「え・・・、仲貝議員、死んだんですか・・・」
あるホテル前での現場写真が大きく掲載されている。
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「ここ数年、こういう事故が多いな」
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「財界の大物や著名な作家。音楽家。それに新興宗教の教祖もいたな。不可解な事故死ってやつ」
香倉の言葉を聞いて、櫻井もああと思い出した。
そういえば、都心でここ数年の間に著名人が重ねて事故で亡くなっている。頻度はさほど高くないので、単なる事故死で片付けられているが、結局のところ、どれも原因がわかっていない。
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「榊のオヤジが、だよ。今回は次期総理とも呼び声のあった大物政治家だ。謎のままではすまんだろう。公安が動きそうなネタだ」
「じゃぁ・・・」
香倉が、ちらりと櫻井を見る。
「そうだな。俺に声がかかるかもしれん。ホームグラウンドに晴れてカムバックだ」
「そうか・・・」
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自分も、このまま「ウカウカ」はしていられないのだ。
「香倉さん・・・」
「ん? なんだ」
櫻井は、スプーンを置いて姿勢を正すと、香倉を真っ直ぐ見た。
「自分は、署に帰ります」
しばらくの間、香倉は櫻井を見つめた。
「大丈夫なのか」
「はい」
櫻井は、静かに微笑んだ。
「勝機は、まだあるんですよね」
香倉も、笑みを浮かべる。
「ああ。そうだな。── 少し待ってろ」
香倉は席を立つと、香倉の寝室へと向かった。
すぐに戻ってくる。
その手には、スーツの入ったビニールケースがあった。
「これを着て行けよ」
櫻井が香倉からケースを受け取り、ジッパーを下ろすと、中から黒のシンプルなスーツと白いシャツ、濃紺でモダンな柄のネクタイが出てきた。
「お前が寝ている間、適当に買ってきておいたものだ。昨日お前が着ていた制服は血の染みが酷かったんで捨てた。あの手の染みは消えないからな」
「で、でも・・・」
躊躇う櫻井に、香倉は釘を刺す。
「そんなことを言ったって、その恰好で出頭はできないだろ?」
櫻井は、自分の恰好を見下ろす。
香倉に借りたTシャツにスウェット。サイズが大きくてモタモタしている感じだ。
「俺の服を貸してやろうにもサイズが合わん。仕方がないだろう。素直に受け取れよ」
「すみません・・・」
「いいさ。今度給料が出たらなんか奢れ」
その言い草がおかしくて、櫻井は笑った。
第一、所轄の刑事が公安の特務捜査員に表立って奢れるはずがない。
香倉は、それが無理なことを承知でそう言っているのだ。
「本当にすみません」
「何度も謝るなよ。うるさいな」
香倉がそう言って食事の後片付けをしている間に、櫻井はスーツに着替えた。
香倉は「適当に」と言っていたが、実際には櫻井の身体にぴったりと馴染んだ。
櫻井が普段着ている安物のスーツとは違って、細身でシャープなシルエットである。
櫻井の鍛えぬかれた身体を無理なくしかも抜群の着心地で収めているところを見ると、香倉の「適当」は普通の人の感覚よりズバ抜けている。
マットな質感の黒い生地で作られたスーツも、目が覚めるように真っ白いシャツも濃紺の品のいいネクタイも、櫻井によく似合った。
真っ黒く癖のない髪に切れ長の目。意思の強そうな眉。引き締まった口元。そのどれもがスーツとよくマッチしていて、互いが引き立てあっていた。
目元の泣き黒子だけが、唯一アンニュイな印象を与える。
「馬子にも衣装ってとこかな」
櫻井が振り返ると、香倉が煙草を吹かしていた。
「どういう意味ですか?」
櫻井が尋ねると、香倉は肩を竦めた。
「別に・・・。それより、お前、署に出るのはいいけど、病院に行って包帯も替えてもらえよ。ほっとくと傷が化膿するぞ」
香倉はそう言って、洗面所の方に消えていった。
15分後、櫻井は玄関のドアを開けた。
外に出て振り返ると、頭を下げる。
「お世話になりました」
「もうここに来るなよ」
開け放された玄関のドアに凭れかかりながら、ニヤニヤと笑いつつ、香倉が言う。櫻井も少し笑って、「はい」と答えた。
櫻井は再度頭を下げると、エレベーターホールに向かって歩き出す。その様子を、目を細めながら見つめる香倉だったが、ふいに櫻井の足が止ったことを怪訝に思った。
櫻井が振り返る。
彼は何か思いつめた表情で香倉のことを見つめると、ズカズカと荒い足取りで戻ってきた。
「どうした?」と香倉が訊く前に、櫻井の唇が香倉の唇に、乱暴に押し付けられた。
思わず香倉も、その荒々しい口付けに応える。
互いの舌をきつく吸いあって、離れる。
透明な糸が二人の唇の間に伸びて、やがてぷつりと切れた。
顔の間近で櫻井のほぅと吐き出す吐息が聞こえた。
香倉から身体を離した櫻井は、頬を赤くしながらも口を真一文字に引き結び、再び頭を下げると、何も言わず香倉の元を去って行った。
香倉は、驚いた顔を隠しもせず、しばらく視線を宙に彷徨わせた。
やがて口元に手を持っていく。
指に濡れた感覚がして、見下ろすと血が少しついていた。
不器用な櫻井の口付けのせいで、唇が切れていた。
香倉は、ぺろりと血を舐めると、大きく息を吸い込んでドアに凭れかかり、天を仰いだのだった。
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家を空ける事が多い八雲の代わりに一応最低限の面倒は見ていたが、それでも自分には何の責任もないと一歩引いて少年と関わっていた村上。
けれど、共に暮らすうち、少年の想像を絶する異常性を知る事となる──。
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
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俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
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15話にて本編(なれそめ)が完結。
その後の話やら番外編やらをたまにのんびり公開中。
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