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| 第13章 |
富樫老人と彼の息子夫婦に丁寧にお礼を言って櫻井が富樫家を出たのは、午後10時を5分ほど回った頃だった。
自分の告白に深いショックを受けた青年に、老いた医者は何度も謝罪の言葉を口にした。
── 君のお姉さんの存在を無理やりねじ伏せたのは、私達大人のしたこと。そして君のお姉さんやそして君自身をあのような状況に追い込んでしまったのも私達大人のせい。今、君のお姉さんが人に対して深い憎悪の気持ちを持っているのだとしたら、そしてそれが元になって恐ろしい罪を重ねているのだとしたら、それは正しく、私達悪い大人のせいに違いないのだ・・・。
富樫老人は、そう言って熱い涙を流した。比較的大柄な人だったが、やけに小さく見えた。
富樫老人は、あの事件があって以来、きっぱりと医者を辞めていた。彼もまた、20年前の事件に翻弄されたひとりなのだ。
この事件は、これまでの様々な人の“罪”が重なって起こったことのように思えてならなかった。
この世に罪のない人間など一人もいないだろうが、それらが偶然や必然に引き寄せられパズルのようにぴったりと合わさった時、今回のような身を裂かれるような痛ましい事が起きてしまうのではないのだろうか。
── 出口が・・・、出口が見えない・・・。
櫻井は、夜空を見上げた。
月さえも見えない夜空だった。
どこかで、おもちゃのピアノが鳴っている。
廊下に差し込む眩しい光。目が眩んで、古びた木造建築の壁は、炭焼きをしたように真っ黒く見える。
俺は手を翳した。
眩しい白い光が、射抜くように自分の顔を照らし出す。
ここはどこなんだ。
何も見えない。
櫻井は、富樫家の近くに停めてあった車に戻ると、両手で顔を覆って、額をハンドルに押し付けた。
思い浮かぶのは、姉と過ごした透明の日々。
日の光が燦々と差し込む家の廊下で、思う存分おいかけごっこをして遊んだ。
かくれんぼをして遊ぶ時は、いつもきまって櫻井の方が負けた。
姉は探し出すことが得意で、櫻井がどんなところに隠れても、すぐに探し出した。まるで、弟の考えていることがわかっているように。
── そういえば、母さんがそんなようなことをよく口走っていたっけ。あの子は、まるで人を見透かすような嫌らしい目をしていた、と。
父親と別れる原因が姉にあったことは明白で、母は心底姉を憎んでいた。
自分のお腹を痛めたはずの子どもだったが、いつしか母は、姉の目を避けるように暮らし始めた。
今思えば、姉をあんな身体で生んでしまったことに対する負い目なのか、ただ単に、自分の夫を奪った人間に対する憎悪なのか。とにかく、母は姉を心の底から憎んでいた。
── それなら・・・。
それなら姉は、母のことをどう思っていたのだろう。自分を慰み者にしていた父のことは。
櫻井の脳裏に、無惨にも剥製にされた中年男の無表情な顔が思い浮かぶ。
変質した細胞。何も映し出すことのないガラスの瞳。
姉は恐らく、父親を憎んでいたのだろう。そして母や ── この自分も。
そして今、姉が現在の自分をテレビを見たことから、忌まわしい事件を起こしたのだ。
憎悪。
ああ、なんて感情だろう。 尊い人の命までも巻き添えにしてまでの恨みの気持ちとは。
真実を知った自分にできることは・・・。
「お父さん、なぜそんなことをするの?」
廊下の先、誰かの囁き声。
おもちゃのピアノ音は、まだ鳴っている。鳴り響いている。
廊下の奥に足を進める。ぎしりぎしりと木が軋む。
湿気の多い空気。
妙に艶めかしく輝く板壁。
「こんなことをしてもいいの? 父さん、これが好きなの?」
足下から聞こえる軋みの他に、同じリズムで何かがギシギシと揺れている。
俺は、奥の部屋のドアを少し開ける。
汗だくの男の背中。その脇からふらふらと揺れる細い足首。
白いソックス。ひだスカート・・・。
「お前を愛しているんだ。愛しているんだよ。わかっているんだろう・・・」
今にも泣きそうな男の声。まるで、縋りつくような。
男の肩越しに、まだあどけなさを残した少女の白い顔が見える。
無表情で何も感じていないような瞳を、俺に向ける。
── これが大人のすることよ。
突然、脳味噌を鷲掴みにされる。
── お前達、汚い男達のすることよ。
── 今まで、幾人もの男が欲しがった。あからさまな目つきで、私をこんな姿に追いやった。
── これがお前らの罪。汚れた目をしたお前達、俗人の醜い欲望。
── お前なら堪えられるか? お前なら堪えられるのか? これが?
俺はその場に蹲る。
ああ、心が張り裂けそうだ。
櫻井は、香倉に連絡を取ろうと、携帯電話の電源を入れた。その途端にベルが鳴り、少し驚く。
ナンバーを見ると、井手の番号だった。
「はい、櫻井です」
『 ── 櫻井君?』
「どうしました、井手さん」
井手の声にただならぬ気配を感じて、櫻井は姿勢を正した。
『ああ、よかった。やっと繋がったわ。さっきからずっとかけてたの。櫻井君も行方不明になっちゃったのかと思って、気が気じゃなかったわ』
櫻井の眉間に皺が寄る。
「俺もって・・・どういう意味ですか」
一瞬、携帯の向こうで沈黙が流れた。
「井手さん」
珍しく櫻井が声を荒げると、井手の淡々とした声が答えた。
『香倉の行方が、わからなくなったの』
それを聞いた瞬間、櫻井は、井手の言ったことを理解することができなかった。
何かが割れる音。
床に散らばる、陶器の破片。
「どういうつもりなの?! あなた!」
テーブルを殴りつけるのは、泣く女。
「あなたはこの子の身体のこと、知っているんでしょ?! それをわかって・・・それをわからないでも、こんなことは異常よ!! 異常よ!!」
病的に見開かれた瞳。
溢れ出る涙。
ふいに女が、俺を見る。
「なによ、その顔。あんたもあんたよ。どうしてお父さんの言いなりになるのよ。なんでそんな顔で私を見るの?! あんたが誘ったんじゃないの?! あんたをそんな身体に生んだアタシを恨んで、あんたがそうし向けたんじゃないの?! そうなの? そうなんでしょ!!」
鬼の形相で、夥しい憎悪の風を吹きつけてくる。
── これが、この女の罪。
女が、テーブルに突っ伏して泣く。夫や我が子を醜く責め立てながら、自分の存在価値を訴える。
── 醜い女とは、所詮どいつもこいつも、こんなものよ。
── 何の罪もなかった私を、こんな身体にしやがったのはこの女。そしてこんな身体に生まれた我が子を不気味がったのもこの女よ。
── お前なら堪えられるか? 男か女かもわからない身体で生み落とされて、それを理由に奇異の目で見つめられる屈辱を。自分ではどうにもならない身体の苦しみを、誰にも訴えられないこの悲しみを。
── それから後も、いろんな女が同じ様な目を私に向けた。自分の縋り付けるはずのものを私に奪われたと、聞いたこともないようなことを言って、私を苦しめた。
── 私をこんな風にしたのは、お前らじゃないか・・・。
憎悪の洪水。
痛みの渦。
その海から、俺は逃れられない。
これでもかと、脳味噌に数々の人間の罪が擦り付けられていく・・・。
『東京の監察医務院で大石に会ってから、黒塗りの車に拉致されたところを大石の部下が目撃してる。後を追ったけど、追いつけなかったそうよ。犯人は、サラリーマン風の二人の男だったって。今、大石も必死になって行方を追っているわ』
井手の声は微かに震えていた。自分の動揺のせいでそう聞こえるのかもしれなかった。
── 香倉さんが、拉致された? あの香倉さんが・・・?
『あの男の協力者かもしれないわ。正直、私もどうしていいか、わからない・・・』
そう言う井手の声は、普段の井手からは想像もできないほど気弱だった。
「とにかく、東京に戻ります」
櫻井は、震える手で電話を切った。
クスクスクス・・・。
子どもの笑い声。
黒光りする廊下。
ひとりの少女が、目の前を通り過ぎる。
なびくひだスカートの裾。白いソックス。
「待ってよぉ!」
ドタドタと後を追うのは、短い髪の少年だ。
ふと少年が立ち止まる。
俺の方に顔を向ける。
澄んだ瞳。少し生意気そうな小鼻。目尻の黒子。
── 櫻井?
俺は一歩足を踏み出す。
幼い少年は、俺から逃げ出すように走り去る。
少年の後を追うと、庭に出た。
よく手入れされた庭。季節の花が咲き乱れている。
庭の片隅にあるのは、小さな池。
風に青紫の花が揺れている。
クスクス・・・。
花の向こうに、子どもの頭が二つ見えた。
「そんなに知りたい? 秘密のお話」
「うん」
「教えてあげてもいいけど、その代わり正チャンもお姉ちゃんの願いを聞いてくれる?」
「うん、いいよ」
「そう・・・」
少女 ── 北原正実は、花の向こうから辺りを見回す。
そして庭の真ん中に突っ立っている俺を見て、何とも言えない笑みを浮かべる。
まったく子どもらしくない、歪んだ笑顔。
まるで、俺を責めるような。汚れた大人達を白々しく眺める瞳・・・。
「お姉ちゃんはねぇ、人の考えていることがわかるの。じっとその人の目を見ていたらね、その人が何が欲しいのか、すぐわかっちゃうのよ」
「えー! どうして?!」
「なんでも。お姉ちゃんは、何でもわかるのよ。お父さんの考えていること。お母さんの考えていること。正チャンのことも、お姉ちゃんが一番よく知ってる。これは、お父さんもお母さんもまだ知らない秘密。正チャンだけに特別教えてあげたのよ。・・・さぁ、今度は正チャンが、お姉ちゃんのお願いを聞く番」
少女は、俺の目を見ながらそう言う。
── やめろ。櫻井。その女の言うことは聞いてはいけない。
それはその少女の復讐。汚れた大人達への歪んだ仕返し。
── やめろ、やめろ! その子には罪はない。櫻井には何の罪もないんだ。
俺は手を伸ばす。
足を進めようとする。
だが、進んでも進んでも、カキツバタの前まで近づけない。
なぜなんだ。どうして。
「お姉ちゃんの目をよく見て、正チャン」
「うん。こう?」
「そう。 ── 正道、これから、どんな女の人が正チャンの身体に触ろうとしても、正チャンはその女のモノになってはダメよ」
少女が、幼い櫻井の頬を撫でる。
「その女達の手は汚れているの。だから正チャンも汚れてしまう。決して、触られてはダメよ。正チャンは、私を助けてくれなくちゃダメなんだから。私を助けるために、この世に生まれてきたのよ・・・」
櫻井は、不思議そうな顔をしている。
「お姉ちゃん、何言ってるか、わかんないよ」
「わかんなくったっていいの。それはね、正チャンが大きくなったらわかるよ・・・」
ガタン!!
ギャァ!!
瞬きをした瞬間、俺は血の海の中に立っていた。
全裸の男の首元にナイフを突き刺す幼い男の子。
血みどろの床。
耳を覆いたくなるような叫び声。
幼い男の子は、どこにそんな力があるのだろう、全身真っ赤に染まりながら、歯を食いしばって更にナイフを突き立てる。
見開かれた瞳。
獣のような唸り声。
やめろ! 櫻井!!
無駄だと思っていても、叫ばずにはいられない。
なんて光景だ。なんという痛みと悲しみ。
── とうとう、やってしまったのね。
俺は胸を掻きむしりながら、壁際のベッドを見た。
北原正実。
幼いとはいえ、既に“女”の顔をした少女。
俺はその少女の表情を見て、背筋が凍る。
その恍惚の表情。
そして次の瞬間には、落胆した顔をして見せた。
なぜだ。なぜ俺に、こんな場面を見せる。
少女の心の奥に隠された、醜い情念の渦に飲み込まれるのを肌で感じながらも、俺はえぐられる自分の心をどうすることもできずにいる。
── 落ち着け、冷静になれ・・・。
井手からの電話を切った櫻井は、震える手を押さえつけた。
── サラリーマン風の二人の男?
まるで唐突だった。
これまで、カガミナオミの周囲にも、南川直志の周囲にもなかったキーワード。
── 一体、どういうことだ・・・。考えろ、考えるんだ・・・。
ピリリリリ。
再び携帯電話が鳴る。井手さんだろうかと画面を見た櫻井だったが、番号は悲通知だった。
櫻井は怪訝に思いつつ、電話に出る。
「・・・もしもし」
『櫻井、正道か』
スピーカーから聞こえてくる声は、櫻井が今まで聞いたことがないような男の声だった。
富樫老人と彼の息子夫婦に丁寧にお礼を言って櫻井が富樫家を出たのは、午後10時を5分ほど回った頃だった。
自分の告白に深いショックを受けた青年に、老いた医者は何度も謝罪の言葉を口にした。
── 君のお姉さんの存在を無理やりねじ伏せたのは、私達大人のしたこと。そして君のお姉さんやそして君自身をあのような状況に追い込んでしまったのも私達大人のせい。今、君のお姉さんが人に対して深い憎悪の気持ちを持っているのだとしたら、そしてそれが元になって恐ろしい罪を重ねているのだとしたら、それは正しく、私達悪い大人のせいに違いないのだ・・・。
富樫老人は、そう言って熱い涙を流した。比較的大柄な人だったが、やけに小さく見えた。
富樫老人は、あの事件があって以来、きっぱりと医者を辞めていた。彼もまた、20年前の事件に翻弄されたひとりなのだ。
この事件は、これまでの様々な人の“罪”が重なって起こったことのように思えてならなかった。
この世に罪のない人間など一人もいないだろうが、それらが偶然や必然に引き寄せられパズルのようにぴったりと合わさった時、今回のような身を裂かれるような痛ましい事が起きてしまうのではないのだろうか。
── 出口が・・・、出口が見えない・・・。
櫻井は、夜空を見上げた。
月さえも見えない夜空だった。
どこかで、おもちゃのピアノが鳴っている。
廊下に差し込む眩しい光。目が眩んで、古びた木造建築の壁は、炭焼きをしたように真っ黒く見える。
俺は手を翳した。
眩しい白い光が、射抜くように自分の顔を照らし出す。
ここはどこなんだ。
何も見えない。
櫻井は、富樫家の近くに停めてあった車に戻ると、両手で顔を覆って、額をハンドルに押し付けた。
思い浮かぶのは、姉と過ごした透明の日々。
日の光が燦々と差し込む家の廊下で、思う存分おいかけごっこをして遊んだ。
かくれんぼをして遊ぶ時は、いつもきまって櫻井の方が負けた。
姉は探し出すことが得意で、櫻井がどんなところに隠れても、すぐに探し出した。まるで、弟の考えていることがわかっているように。
── そういえば、母さんがそんなようなことをよく口走っていたっけ。あの子は、まるで人を見透かすような嫌らしい目をしていた、と。
父親と別れる原因が姉にあったことは明白で、母は心底姉を憎んでいた。
自分のお腹を痛めたはずの子どもだったが、いつしか母は、姉の目を避けるように暮らし始めた。
今思えば、姉をあんな身体で生んでしまったことに対する負い目なのか、ただ単に、自分の夫を奪った人間に対する憎悪なのか。とにかく、母は姉を心の底から憎んでいた。
── それなら・・・。
それなら姉は、母のことをどう思っていたのだろう。自分を慰み者にしていた父のことは。
櫻井の脳裏に、無惨にも剥製にされた中年男の無表情な顔が思い浮かぶ。
変質した細胞。何も映し出すことのないガラスの瞳。
姉は恐らく、父親を憎んでいたのだろう。そして母や ── この自分も。
そして今、姉が現在の自分をテレビを見たことから、忌まわしい事件を起こしたのだ。
憎悪。
ああ、なんて感情だろう。 尊い人の命までも巻き添えにしてまでの恨みの気持ちとは。
真実を知った自分にできることは・・・。
「お父さん、なぜそんなことをするの?」
廊下の先、誰かの囁き声。
おもちゃのピアノ音は、まだ鳴っている。鳴り響いている。
廊下の奥に足を進める。ぎしりぎしりと木が軋む。
湿気の多い空気。
妙に艶めかしく輝く板壁。
「こんなことをしてもいいの? 父さん、これが好きなの?」
足下から聞こえる軋みの他に、同じリズムで何かがギシギシと揺れている。
俺は、奥の部屋のドアを少し開ける。
汗だくの男の背中。その脇からふらふらと揺れる細い足首。
白いソックス。ひだスカート・・・。
「お前を愛しているんだ。愛しているんだよ。わかっているんだろう・・・」
今にも泣きそうな男の声。まるで、縋りつくような。
男の肩越しに、まだあどけなさを残した少女の白い顔が見える。
無表情で何も感じていないような瞳を、俺に向ける。
── これが大人のすることよ。
突然、脳味噌を鷲掴みにされる。
── お前達、汚い男達のすることよ。
── 今まで、幾人もの男が欲しがった。あからさまな目つきで、私をこんな姿に追いやった。
── これがお前らの罪。汚れた目をしたお前達、俗人の醜い欲望。
── お前なら堪えられるか? お前なら堪えられるのか? これが?
俺はその場に蹲る。
ああ、心が張り裂けそうだ。
櫻井は、香倉に連絡を取ろうと、携帯電話の電源を入れた。その途端にベルが鳴り、少し驚く。
ナンバーを見ると、井手の番号だった。
「はい、櫻井です」
『 ── 櫻井君?』
「どうしました、井手さん」
井手の声にただならぬ気配を感じて、櫻井は姿勢を正した。
『ああ、よかった。やっと繋がったわ。さっきからずっとかけてたの。櫻井君も行方不明になっちゃったのかと思って、気が気じゃなかったわ』
櫻井の眉間に皺が寄る。
「俺もって・・・どういう意味ですか」
一瞬、携帯の向こうで沈黙が流れた。
「井手さん」
珍しく櫻井が声を荒げると、井手の淡々とした声が答えた。
『香倉の行方が、わからなくなったの』
それを聞いた瞬間、櫻井は、井手の言ったことを理解することができなかった。
何かが割れる音。
床に散らばる、陶器の破片。
「どういうつもりなの?! あなた!」
テーブルを殴りつけるのは、泣く女。
「あなたはこの子の身体のこと、知っているんでしょ?! それをわかって・・・それをわからないでも、こんなことは異常よ!! 異常よ!!」
病的に見開かれた瞳。
溢れ出る涙。
ふいに女が、俺を見る。
「なによ、その顔。あんたもあんたよ。どうしてお父さんの言いなりになるのよ。なんでそんな顔で私を見るの?! あんたが誘ったんじゃないの?! あんたをそんな身体に生んだアタシを恨んで、あんたがそうし向けたんじゃないの?! そうなの? そうなんでしょ!!」
鬼の形相で、夥しい憎悪の風を吹きつけてくる。
── これが、この女の罪。
女が、テーブルに突っ伏して泣く。夫や我が子を醜く責め立てながら、自分の存在価値を訴える。
── 醜い女とは、所詮どいつもこいつも、こんなものよ。
── 何の罪もなかった私を、こんな身体にしやがったのはこの女。そしてこんな身体に生まれた我が子を不気味がったのもこの女よ。
── お前なら堪えられるか? 男か女かもわからない身体で生み落とされて、それを理由に奇異の目で見つめられる屈辱を。自分ではどうにもならない身体の苦しみを、誰にも訴えられないこの悲しみを。
── それから後も、いろんな女が同じ様な目を私に向けた。自分の縋り付けるはずのものを私に奪われたと、聞いたこともないようなことを言って、私を苦しめた。
── 私をこんな風にしたのは、お前らじゃないか・・・。
憎悪の洪水。
痛みの渦。
その海から、俺は逃れられない。
これでもかと、脳味噌に数々の人間の罪が擦り付けられていく・・・。
『東京の監察医務院で大石に会ってから、黒塗りの車に拉致されたところを大石の部下が目撃してる。後を追ったけど、追いつけなかったそうよ。犯人は、サラリーマン風の二人の男だったって。今、大石も必死になって行方を追っているわ』
井手の声は微かに震えていた。自分の動揺のせいでそう聞こえるのかもしれなかった。
── 香倉さんが、拉致された? あの香倉さんが・・・?
『あの男の協力者かもしれないわ。正直、私もどうしていいか、わからない・・・』
そう言う井手の声は、普段の井手からは想像もできないほど気弱だった。
「とにかく、東京に戻ります」
櫻井は、震える手で電話を切った。
クスクスクス・・・。
子どもの笑い声。
黒光りする廊下。
ひとりの少女が、目の前を通り過ぎる。
なびくひだスカートの裾。白いソックス。
「待ってよぉ!」
ドタドタと後を追うのは、短い髪の少年だ。
ふと少年が立ち止まる。
俺の方に顔を向ける。
澄んだ瞳。少し生意気そうな小鼻。目尻の黒子。
── 櫻井?
俺は一歩足を踏み出す。
幼い少年は、俺から逃げ出すように走り去る。
少年の後を追うと、庭に出た。
よく手入れされた庭。季節の花が咲き乱れている。
庭の片隅にあるのは、小さな池。
風に青紫の花が揺れている。
クスクス・・・。
花の向こうに、子どもの頭が二つ見えた。
「そんなに知りたい? 秘密のお話」
「うん」
「教えてあげてもいいけど、その代わり正チャンもお姉ちゃんの願いを聞いてくれる?」
「うん、いいよ」
「そう・・・」
少女 ── 北原正実は、花の向こうから辺りを見回す。
そして庭の真ん中に突っ立っている俺を見て、何とも言えない笑みを浮かべる。
まったく子どもらしくない、歪んだ笑顔。
まるで、俺を責めるような。汚れた大人達を白々しく眺める瞳・・・。
「お姉ちゃんはねぇ、人の考えていることがわかるの。じっとその人の目を見ていたらね、その人が何が欲しいのか、すぐわかっちゃうのよ」
「えー! どうして?!」
「なんでも。お姉ちゃんは、何でもわかるのよ。お父さんの考えていること。お母さんの考えていること。正チャンのことも、お姉ちゃんが一番よく知ってる。これは、お父さんもお母さんもまだ知らない秘密。正チャンだけに特別教えてあげたのよ。・・・さぁ、今度は正チャンが、お姉ちゃんのお願いを聞く番」
少女は、俺の目を見ながらそう言う。
── やめろ。櫻井。その女の言うことは聞いてはいけない。
それはその少女の復讐。汚れた大人達への歪んだ仕返し。
── やめろ、やめろ! その子には罪はない。櫻井には何の罪もないんだ。
俺は手を伸ばす。
足を進めようとする。
だが、進んでも進んでも、カキツバタの前まで近づけない。
なぜなんだ。どうして。
「お姉ちゃんの目をよく見て、正チャン」
「うん。こう?」
「そう。 ── 正道、これから、どんな女の人が正チャンの身体に触ろうとしても、正チャンはその女のモノになってはダメよ」
少女が、幼い櫻井の頬を撫でる。
「その女達の手は汚れているの。だから正チャンも汚れてしまう。決して、触られてはダメよ。正チャンは、私を助けてくれなくちゃダメなんだから。私を助けるために、この世に生まれてきたのよ・・・」
櫻井は、不思議そうな顔をしている。
「お姉ちゃん、何言ってるか、わかんないよ」
「わかんなくったっていいの。それはね、正チャンが大きくなったらわかるよ・・・」
ガタン!!
ギャァ!!
瞬きをした瞬間、俺は血の海の中に立っていた。
全裸の男の首元にナイフを突き刺す幼い男の子。
血みどろの床。
耳を覆いたくなるような叫び声。
幼い男の子は、どこにそんな力があるのだろう、全身真っ赤に染まりながら、歯を食いしばって更にナイフを突き立てる。
見開かれた瞳。
獣のような唸り声。
やめろ! 櫻井!!
無駄だと思っていても、叫ばずにはいられない。
なんて光景だ。なんという痛みと悲しみ。
── とうとう、やってしまったのね。
俺は胸を掻きむしりながら、壁際のベッドを見た。
北原正実。
幼いとはいえ、既に“女”の顔をした少女。
俺はその少女の表情を見て、背筋が凍る。
その恍惚の表情。
そして次の瞬間には、落胆した顔をして見せた。
なぜだ。なぜ俺に、こんな場面を見せる。
少女の心の奥に隠された、醜い情念の渦に飲み込まれるのを肌で感じながらも、俺はえぐられる自分の心をどうすることもできずにいる。
── 落ち着け、冷静になれ・・・。
井手からの電話を切った櫻井は、震える手を押さえつけた。
── サラリーマン風の二人の男?
まるで唐突だった。
これまで、カガミナオミの周囲にも、南川直志の周囲にもなかったキーワード。
── 一体、どういうことだ・・・。考えろ、考えるんだ・・・。
ピリリリリ。
再び携帯電話が鳴る。井手さんだろうかと画面を見た櫻井だったが、番号は悲通知だった。
櫻井は怪訝に思いつつ、電話に出る。
「・・・もしもし」
『櫻井、正道か』
スピーカーから聞こえてくる声は、櫻井が今まで聞いたことがないような男の声だった。
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