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10 港町グラーダ
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ディレイムの北西に、グラーダという港町がある。王都から最も離れたこの町は、海に面しているだけあって人や物の流れが忙しい。
品物を買い付けに来た商人、浅黒い肌の踊り娘を連れた旅芸人たち、大きな荷物を抱えた旅行者。旅人にとってはただの通過点なので、グラーダにゆっくり滞在する観光客は少ない。
この街を治めているのはリヴァイ家だが、先代が亡くなった折に家督は息子に引き継がれ、先代夫人は屋敷を出て丘の上の別荘へ移り住んだ。別荘からは忙しそうな港の様子や、その向こうに広がる紺碧の海がよく見える。庭の東屋から眼下に広がる景色を眺めるのは、先代夫人オクタビアのささやかな楽しみだった。
「大奥様、お茶をお持ちしました。ひざ掛けはいかがしましょう?」
「ありがとう。今日は暖かいから大丈夫だよ」
オクタビアはティーカップを手に取り、温かな紅茶をひと口飲んだ。お茶を運んできてくれた侍女はルシアといい、明るい褐色の髪と翡翠色の瞳をもつ美しい娘だ。
最初に出会った時ルシアは工房でお針子として働いていたのだが、立ち振る舞いがまるで貴族の令嬢のように見事だったので、うちで働かないかと誘ったのだった。オクタビアは領主の妻だったせいか、困った人を見るとほっておけない性分なのである。
ルシアを見たときも「これは何か深い事情がありそうだ」とオクタビアは思い、彼女を別荘に連れて来た。同じように連れて来られた者は三人おり、彼らはオクタビアに頼まれて別荘の管理をしたり彼女の世話をしたりする。
息子は別荘に来るたびに「母さん、これ以上ひとを増やさないでよ」と愚痴をいうが、別荘は亡き夫が残してくれたオクタビアの財産である。なにをどうしようがオクタビアの勝手だ。母に愚痴をいう前に、さっさと結婚してほしいものだと思う。
――ああそうだ、結婚といえば。
「ルシアや」
「はい、大奥様」
「時々ここへ野菜を届けに来る、ビルのことはどう思っているの? あの子は父親の跡を継いで農場を営んでいるんだけど、心根の優しい男だよ。女グセも悪くないし……。ビルはあなたの事を気に入ってるみたいだけど」
「お気持ちはとても有難いです。ただ……わたしでは、ビルさんを幸せに出来ないと思うので……」
「うぅん、やっぱりかい。あなたのように若くて美しい娘がこんな国の端にいるんだから、何か事情があるんだろうけどねぇ……。私の目が黒いうちに、ルシアの幸せを見届けたいもんだね」
「有難うございます。わたしは今でも充分幸せですから」
ルシアは一礼して東屋を去り、夕食の支度に取り掛かった。今日はオクタビアの息子であるバージルがやって来るので、食材が足りるかどうか確認しておかねばならない。
この別荘で働く者はルシアを含めて四人いるが、二人はオクタビアの侍女で、残る二人は屋敷の管理にあたっている。結構広い別荘なので、各部屋の掃除や薪を用意するだけでも重労働なのだ。
「サラさん、わたしは買い出しに行ってきますね。大奥様のことお願いします」
「分かったわ。任せといて」
オクタビアは用があればベルを鳴らすはずなので、侍女はサラ一人でも大丈夫だろう。ルシアは買い物籠を持って外に出た。門に繋がる道の途中に小さな池があり、歩くルシアの姿を映し出す。水面に映ったのは、淡い褐色の髪をしたメイド服の女だった。
(少し髪の色が薄くなったかしら……。また薬草で染めておかなくちゃ)
ルシアはまだオクタビアに真実を話していない。本当の名はシーナということも、ある理由からこの国の王子を騙していたことも。
ポケットの中から小さな袋を取り出してぎゅっと握る。この袋はルターナが亡くなる直前にシーナに渡してくれたもので、お金のほかに翡翠の指輪も入っていた。母アグネスが子供の頃に初めて自分で買った指輪だ。母にとっては思い出の品なので、嫁入りの際にケルホーン伯爵家へ持ってきたらしい。それはルターナに渡り、今はシーナに受け継がれている。
「お姉さま……」
街に繋がる坂道をくだりながら、シーナは三年前の冬を思い出していた。
品物を買い付けに来た商人、浅黒い肌の踊り娘を連れた旅芸人たち、大きな荷物を抱えた旅行者。旅人にとってはただの通過点なので、グラーダにゆっくり滞在する観光客は少ない。
この街を治めているのはリヴァイ家だが、先代が亡くなった折に家督は息子に引き継がれ、先代夫人は屋敷を出て丘の上の別荘へ移り住んだ。別荘からは忙しそうな港の様子や、その向こうに広がる紺碧の海がよく見える。庭の東屋から眼下に広がる景色を眺めるのは、先代夫人オクタビアのささやかな楽しみだった。
「大奥様、お茶をお持ちしました。ひざ掛けはいかがしましょう?」
「ありがとう。今日は暖かいから大丈夫だよ」
オクタビアはティーカップを手に取り、温かな紅茶をひと口飲んだ。お茶を運んできてくれた侍女はルシアといい、明るい褐色の髪と翡翠色の瞳をもつ美しい娘だ。
最初に出会った時ルシアは工房でお針子として働いていたのだが、立ち振る舞いがまるで貴族の令嬢のように見事だったので、うちで働かないかと誘ったのだった。オクタビアは領主の妻だったせいか、困った人を見るとほっておけない性分なのである。
ルシアを見たときも「これは何か深い事情がありそうだ」とオクタビアは思い、彼女を別荘に連れて来た。同じように連れて来られた者は三人おり、彼らはオクタビアに頼まれて別荘の管理をしたり彼女の世話をしたりする。
息子は別荘に来るたびに「母さん、これ以上ひとを増やさないでよ」と愚痴をいうが、別荘は亡き夫が残してくれたオクタビアの財産である。なにをどうしようがオクタビアの勝手だ。母に愚痴をいう前に、さっさと結婚してほしいものだと思う。
――ああそうだ、結婚といえば。
「ルシアや」
「はい、大奥様」
「時々ここへ野菜を届けに来る、ビルのことはどう思っているの? あの子は父親の跡を継いで農場を営んでいるんだけど、心根の優しい男だよ。女グセも悪くないし……。ビルはあなたの事を気に入ってるみたいだけど」
「お気持ちはとても有難いです。ただ……わたしでは、ビルさんを幸せに出来ないと思うので……」
「うぅん、やっぱりかい。あなたのように若くて美しい娘がこんな国の端にいるんだから、何か事情があるんだろうけどねぇ……。私の目が黒いうちに、ルシアの幸せを見届けたいもんだね」
「有難うございます。わたしは今でも充分幸せですから」
ルシアは一礼して東屋を去り、夕食の支度に取り掛かった。今日はオクタビアの息子であるバージルがやって来るので、食材が足りるかどうか確認しておかねばならない。
この別荘で働く者はルシアを含めて四人いるが、二人はオクタビアの侍女で、残る二人は屋敷の管理にあたっている。結構広い別荘なので、各部屋の掃除や薪を用意するだけでも重労働なのだ。
「サラさん、わたしは買い出しに行ってきますね。大奥様のことお願いします」
「分かったわ。任せといて」
オクタビアは用があればベルを鳴らすはずなので、侍女はサラ一人でも大丈夫だろう。ルシアは買い物籠を持って外に出た。門に繋がる道の途中に小さな池があり、歩くルシアの姿を映し出す。水面に映ったのは、淡い褐色の髪をしたメイド服の女だった。
(少し髪の色が薄くなったかしら……。また薬草で染めておかなくちゃ)
ルシアはまだオクタビアに真実を話していない。本当の名はシーナということも、ある理由からこの国の王子を騙していたことも。
ポケットの中から小さな袋を取り出してぎゅっと握る。この袋はルターナが亡くなる直前にシーナに渡してくれたもので、お金のほかに翡翠の指輪も入っていた。母アグネスが子供の頃に初めて自分で買った指輪だ。母にとっては思い出の品なので、嫁入りの際にケルホーン伯爵家へ持ってきたらしい。それはルターナに渡り、今はシーナに受け継がれている。
「お姉さま……」
街に繋がる坂道をくだりながら、シーナは三年前の冬を思い出していた。
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