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言い訳 vs 計算の応酬
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「また来てるね、あの新人くん」
小声でそう言ったのは、経理部の一人だった。
今週に入って、谷町光が経理カウンターに現れるのはこれで三度目。
しかも、いずれも提出書類に何らかの不備があり、凛の呼び出しを受けての再訪問だった。
ただ、それにしても妙だった。
通常なら、ミスを繰り返せば気まずさを覚えて回数が減るものだが、光はむしろ回数を重ねるごとに馴染んできていた。
まるでそこにいるのが当たり前のように、ひょいとカウンターに現れて、いつもの調子で凛に話しかける。
「こんにちはー。またお世話になります、阿波座チーフ」
声だけ聞けば礼儀正しい新人のようだが、その手に持っている書類には、既に不穏な空気が漂っていた。
凛が一枚目に目を通すなり、ため息を押し殺すように鼻先で息を漏らす。
「このレシート、“社内交流会費”とありますが」
「はい、営業チームで“親睦を深めよう!”ってことで。ちゃんと領収書ありますよ」
「その“親睦を深めよう”の中身が、なぜコンビニのアイス十数本になるんですか」
「いや、暑い日に“差し入れアイス”って、絆深まるじゃないですか。実際、みんな喜んでましたよ?」
「喜びの有無は経費の可否に影響しません」
凛はそう言いながら、眼鏡を中指と人差し指で押し上げた。
その動作はいつも通りだが、どこかいつもより、指先の動きがゆっくりしている。
その横顔を、光がじっと見ていることに凛は気づいていない。
視線は熱を帯びていた。
軽口を叩いているときの、あの飄々とした雰囲気のまま、真剣な眼差しだけが凛の指の動きに注がれていた。
「じゃあ、このレシートは“愛情表現費”ってことで!」
光がふざけた調子で言いながら、もう一枚の領収書を差し出してくる。
そこにはパン屋のスタンプカードが添えられており、経費申請にはまったく関係のない個人購入分が混ざっているのは明らかだった。
「……精算の分類項目に“愛情”はありません」
凛は一瞬だけ口元を引き結び、書類を見つめ直した。
その表情は冷たくも見えるが、光にしてみれば、それすらもどこか“許容の表れ”に感じられていた。
「じゃあ凛さんのために、専用作りますか?“特別対応枠”ってことで」
「作りません。申請は正確に。次から再提出は受け付けません」
「了解っす。でも、凛さんって案外ちゃんと全部見てくれるんすね。細かいとこまで」
「それが仕事なので」
「でも、それにしても俺のこと、よく覚えてくれてますよね?俺、そんなに印象的でした?」
「ミスが多ければ印象には残ります。悪い意味で」
「えー、いい意味では?」
「ありません」
キッパリとした返答に、光はわざと肩を落としてみせたが、表情に悔しさはなかった。
むしろ楽しそうに、凛の表情を観察している。
「冷たいなあ、凛さん。でも、俺が毎日ちゃんと直しに来るのって、凛さんが見てくれるからってのもあるんですよ?」
「……それは業務への信頼ということで、受け取っておきます」
「いやいや、もっと個人的な意味も含めて」
「受け取れません」
この男、バカなふりをして懐に入り込んでくるのがうまい。
だが、俺は騙されない。
凛のモノローグは、そんなふうに冷静に言い切るものの、実際の心拍は、ほんの少しだけ早くなっていた。
光が差し出した修正済みの書類を受け取ると、凛は無言でチェックを始めた。
黙々と項目を追い、誤記や不備がないかを確認する。
その間、光は静かにその様子を見守っていた。
そして、ふと凛の手が止まる。
「あの、凛さん」
「何ですか」
「さっきの“愛情表現費”ってジョーク、点数的には何点でした?」
「ゼロ点です。却下されました」
「え~、じゃあ次回は“親睦促進費”で提出してみます」
「余計なことを覚えないでください」
二人のやり取りに、近くの社員がちらりと目を向ける。
その視線を感じ取ったのか、凛が一瞬だけ背筋を伸ばし、咳払いをした。
光はその様子を見て、目を細める。
「俺、けっこう凛さんの咳払い、好きかも」
「変な嗜好を公言しないでください。職場です」
「はいはい。じゃ、またミスしちゃったときはよろしくお願いしまーす」
「ミスしないでください」
光が去ったあと、凛は書類を整えてファイルに差し込んだ。
カウンターの空気がようやく静まったように感じられる。
だがその場には、二人だけの奇妙なリズムが、確かに刻まれていた。
眼鏡を外した凛が、ふと額に手を当てる。
その動作は、ほんのわずかにいつもより長く、深かった。
小声でそう言ったのは、経理部の一人だった。
今週に入って、谷町光が経理カウンターに現れるのはこれで三度目。
しかも、いずれも提出書類に何らかの不備があり、凛の呼び出しを受けての再訪問だった。
ただ、それにしても妙だった。
通常なら、ミスを繰り返せば気まずさを覚えて回数が減るものだが、光はむしろ回数を重ねるごとに馴染んできていた。
まるでそこにいるのが当たり前のように、ひょいとカウンターに現れて、いつもの調子で凛に話しかける。
「こんにちはー。またお世話になります、阿波座チーフ」
声だけ聞けば礼儀正しい新人のようだが、その手に持っている書類には、既に不穏な空気が漂っていた。
凛が一枚目に目を通すなり、ため息を押し殺すように鼻先で息を漏らす。
「このレシート、“社内交流会費”とありますが」
「はい、営業チームで“親睦を深めよう!”ってことで。ちゃんと領収書ありますよ」
「その“親睦を深めよう”の中身が、なぜコンビニのアイス十数本になるんですか」
「いや、暑い日に“差し入れアイス”って、絆深まるじゃないですか。実際、みんな喜んでましたよ?」
「喜びの有無は経費の可否に影響しません」
凛はそう言いながら、眼鏡を中指と人差し指で押し上げた。
その動作はいつも通りだが、どこかいつもより、指先の動きがゆっくりしている。
その横顔を、光がじっと見ていることに凛は気づいていない。
視線は熱を帯びていた。
軽口を叩いているときの、あの飄々とした雰囲気のまま、真剣な眼差しだけが凛の指の動きに注がれていた。
「じゃあ、このレシートは“愛情表現費”ってことで!」
光がふざけた調子で言いながら、もう一枚の領収書を差し出してくる。
そこにはパン屋のスタンプカードが添えられており、経費申請にはまったく関係のない個人購入分が混ざっているのは明らかだった。
「……精算の分類項目に“愛情”はありません」
凛は一瞬だけ口元を引き結び、書類を見つめ直した。
その表情は冷たくも見えるが、光にしてみれば、それすらもどこか“許容の表れ”に感じられていた。
「じゃあ凛さんのために、専用作りますか?“特別対応枠”ってことで」
「作りません。申請は正確に。次から再提出は受け付けません」
「了解っす。でも、凛さんって案外ちゃんと全部見てくれるんすね。細かいとこまで」
「それが仕事なので」
「でも、それにしても俺のこと、よく覚えてくれてますよね?俺、そんなに印象的でした?」
「ミスが多ければ印象には残ります。悪い意味で」
「えー、いい意味では?」
「ありません」
キッパリとした返答に、光はわざと肩を落としてみせたが、表情に悔しさはなかった。
むしろ楽しそうに、凛の表情を観察している。
「冷たいなあ、凛さん。でも、俺が毎日ちゃんと直しに来るのって、凛さんが見てくれるからってのもあるんですよ?」
「……それは業務への信頼ということで、受け取っておきます」
「いやいや、もっと個人的な意味も含めて」
「受け取れません」
この男、バカなふりをして懐に入り込んでくるのがうまい。
だが、俺は騙されない。
凛のモノローグは、そんなふうに冷静に言い切るものの、実際の心拍は、ほんの少しだけ早くなっていた。
光が差し出した修正済みの書類を受け取ると、凛は無言でチェックを始めた。
黙々と項目を追い、誤記や不備がないかを確認する。
その間、光は静かにその様子を見守っていた。
そして、ふと凛の手が止まる。
「あの、凛さん」
「何ですか」
「さっきの“愛情表現費”ってジョーク、点数的には何点でした?」
「ゼロ点です。却下されました」
「え~、じゃあ次回は“親睦促進費”で提出してみます」
「余計なことを覚えないでください」
二人のやり取りに、近くの社員がちらりと目を向ける。
その視線を感じ取ったのか、凛が一瞬だけ背筋を伸ばし、咳払いをした。
光はその様子を見て、目を細める。
「俺、けっこう凛さんの咳払い、好きかも」
「変な嗜好を公言しないでください。職場です」
「はいはい。じゃ、またミスしちゃったときはよろしくお願いしまーす」
「ミスしないでください」
光が去ったあと、凛は書類を整えてファイルに差し込んだ。
カウンターの空気がようやく静まったように感じられる。
だがその場には、二人だけの奇妙なリズムが、確かに刻まれていた。
眼鏡を外した凛が、ふと額に手を当てる。
その動作は、ほんのわずかにいつもより長く、深かった。
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