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“呼び出しメール”が、妙に優しい
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昼下がりの営業部は、軽いざわめきに包まれていた。
会議室帰りの社員たちが席に戻り、誰かのスマホがチャットの通知音を鳴らしている。
その中で谷町光は、自分のスマホに届いたひとつのメールを見て、思わず小さく声を漏らした。
「……来た」
件名は、見慣れた文言だった。
『件名:経費処理について(再確認)』
ただ、それを見ただけで胸の奥が微かに跳ねるのは、完全に“自業自得”だという自覚もあった。
画面をスライドして開く。
本文は、丁寧すぎるほど丁寧だった。
『谷町様
お疲れ様です。経理部の阿波座です。
先日ご提出いただいた経費精算書の内容について、以下の項目に確認が必要となっております。
・4月18日付の飲食費の領収書 → 添付不備
・交通費区分 → 種別の誤記載あり
お忙しいところ恐れ入りますが、お手すきの際に経理カウンターまでお越しください。
どうぞよろしくお願いいたします。
阿波座 凛』
光はメールを読み返す。
一度読んだだけでは終わらない。
二度、三度と、意味もなく目でなぞる。
“お忙しいところ恐れ入りますが”
その一文が、なぜかやたらと胸に残った。
普通なら、ただの定型文として流すべき部分。
だが、阿波座凛がこうしてメールを送るとき、彼は滅多に感情を含めない。
実際、同期や他部署の社員に送っているメールをたまたま覗いたとき、もっと機械的で簡潔だった。
件名も違っていた。
他の社員には『経費処理不備(要確認)』など、より直接的で厳しい言葉が並んでいた。
光だけが、『再確認』で、『お忙しいところ』で、『恐れ入りますが』だった。
…気のせいかもしれない。
でも、もしもこれが自分だけの“特別扱い”だとしたら。
光は机に肘をつき、スマホを逆さまに伏せて置いた。
だが、画面の余熱のようなものが、まだ指先に残っていた。
“お忙しいところ”って……俺のこと、ちゃんと見てくれてる気がするんだよなあ。
もしかして――俺だけ、特別?
…いやいや、まだ作戦段階。落ち着け俺。
軽く頭を振って、熱を追い払うように深呼吸する。
だが、落ち着こうとしても、胸の高鳴りはなかなか収まらなかった。
経理カウンターに向かう途中、すれ違った今里澪と目が合った。
「また呼び出されたの?」
「またって…言い方~」
「そろそろ、君の顔写真貼られるんじゃない?“要注意営業”として」
「それ、ちょっと面白いかも」
苦笑いしながら答えたが、本心ではどこか嬉しい自分がいた。
また会える。そのこと自体が、もう“報酬”になっていた。
経理部に入ると、いつものように静かな空気が広がっていた。
電話の受話器を置く音、電卓を叩くリズム、そしてタイピングの音。
その中に混じる音の一つ――凛のキーボードは、他と比べて驚くほど静かで、一定のテンポがあった。
打鍵というより、ピアノの弱音のように優しく、それでいて正確。
静かなその音が、光には“凛”そのものに聞こえた。
カウンターに立つと、凛はすぐに顔を上げた。
「谷町くん」
「はーい。今日もお呼び出しいただき、ありがとうございます」
「感謝されるような内容ではありません。これは、再提出指導です」
光はおどけるように笑いながら、胸元から書類を取り出した。
「あの、“恐れ入りますが”のとこ、すごく気遣い感じました」
凛はわずかに目を細めたが、表情の変化は最小限だった。
「文章の丁寧さは、相手を問わず統一しています」
「でも、他の人のメールより、俺のメールの方が…ちょっと優しい気がするんですよね」
凛は一瞬、指先で書類を挟んだまま動きを止めた。
だが、すぐに元のペースで確認を始める。
「谷町さんは、修正箇所が多いため、柔らかい言葉で促す方が効果的と判断しています」
「わお、心理戦」
光が肩をすくめるように笑うと、凛は眼鏡のフレームに指をかけ、そっと位置を直した。
その動きが、普段よりもゆっくりに見えたのは、気のせいだったのか。
「修正、お疲れ様でした。次回以降は、初回で正確に処理できるようお願いします」
「はーい、がんばりまーす。…でも、次もまた“優しいメール”来るかなあ」
凛は何も答えず、書類を整えてファイルに差し込む。
だが、光が背を向けたその瞬間、凛の表情にかすかな苦笑が浮かんでいた。
それは誰にも気づかれない、ほんの一瞬の“緩み”だった。
けれど、光は感じ取っていた。
背中で、その空気の変化を確かに。
カウンターを離れながら、光はスマホをもう一度取り出した。
開かれたメールには、変わらず凛の丁寧な文章が並んでいる。
それだけで、少しだけ胸があたたかくなった。
まるで、恋文でも受け取ったかのように。
会議室帰りの社員たちが席に戻り、誰かのスマホがチャットの通知音を鳴らしている。
その中で谷町光は、自分のスマホに届いたひとつのメールを見て、思わず小さく声を漏らした。
「……来た」
件名は、見慣れた文言だった。
『件名:経費処理について(再確認)』
ただ、それを見ただけで胸の奥が微かに跳ねるのは、完全に“自業自得”だという自覚もあった。
画面をスライドして開く。
本文は、丁寧すぎるほど丁寧だった。
『谷町様
お疲れ様です。経理部の阿波座です。
先日ご提出いただいた経費精算書の内容について、以下の項目に確認が必要となっております。
・4月18日付の飲食費の領収書 → 添付不備
・交通費区分 → 種別の誤記載あり
お忙しいところ恐れ入りますが、お手すきの際に経理カウンターまでお越しください。
どうぞよろしくお願いいたします。
阿波座 凛』
光はメールを読み返す。
一度読んだだけでは終わらない。
二度、三度と、意味もなく目でなぞる。
“お忙しいところ恐れ入りますが”
その一文が、なぜかやたらと胸に残った。
普通なら、ただの定型文として流すべき部分。
だが、阿波座凛がこうしてメールを送るとき、彼は滅多に感情を含めない。
実際、同期や他部署の社員に送っているメールをたまたま覗いたとき、もっと機械的で簡潔だった。
件名も違っていた。
他の社員には『経費処理不備(要確認)』など、より直接的で厳しい言葉が並んでいた。
光だけが、『再確認』で、『お忙しいところ』で、『恐れ入りますが』だった。
…気のせいかもしれない。
でも、もしもこれが自分だけの“特別扱い”だとしたら。
光は机に肘をつき、スマホを逆さまに伏せて置いた。
だが、画面の余熱のようなものが、まだ指先に残っていた。
“お忙しいところ”って……俺のこと、ちゃんと見てくれてる気がするんだよなあ。
もしかして――俺だけ、特別?
…いやいや、まだ作戦段階。落ち着け俺。
軽く頭を振って、熱を追い払うように深呼吸する。
だが、落ち着こうとしても、胸の高鳴りはなかなか収まらなかった。
経理カウンターに向かう途中、すれ違った今里澪と目が合った。
「また呼び出されたの?」
「またって…言い方~」
「そろそろ、君の顔写真貼られるんじゃない?“要注意営業”として」
「それ、ちょっと面白いかも」
苦笑いしながら答えたが、本心ではどこか嬉しい自分がいた。
また会える。そのこと自体が、もう“報酬”になっていた。
経理部に入ると、いつものように静かな空気が広がっていた。
電話の受話器を置く音、電卓を叩くリズム、そしてタイピングの音。
その中に混じる音の一つ――凛のキーボードは、他と比べて驚くほど静かで、一定のテンポがあった。
打鍵というより、ピアノの弱音のように優しく、それでいて正確。
静かなその音が、光には“凛”そのものに聞こえた。
カウンターに立つと、凛はすぐに顔を上げた。
「谷町くん」
「はーい。今日もお呼び出しいただき、ありがとうございます」
「感謝されるような内容ではありません。これは、再提出指導です」
光はおどけるように笑いながら、胸元から書類を取り出した。
「あの、“恐れ入りますが”のとこ、すごく気遣い感じました」
凛はわずかに目を細めたが、表情の変化は最小限だった。
「文章の丁寧さは、相手を問わず統一しています」
「でも、他の人のメールより、俺のメールの方が…ちょっと優しい気がするんですよね」
凛は一瞬、指先で書類を挟んだまま動きを止めた。
だが、すぐに元のペースで確認を始める。
「谷町さんは、修正箇所が多いため、柔らかい言葉で促す方が効果的と判断しています」
「わお、心理戦」
光が肩をすくめるように笑うと、凛は眼鏡のフレームに指をかけ、そっと位置を直した。
その動きが、普段よりもゆっくりに見えたのは、気のせいだったのか。
「修正、お疲れ様でした。次回以降は、初回で正確に処理できるようお願いします」
「はーい、がんばりまーす。…でも、次もまた“優しいメール”来るかなあ」
凛は何も答えず、書類を整えてファイルに差し込む。
だが、光が背を向けたその瞬間、凛の表情にかすかな苦笑が浮かんでいた。
それは誰にも気づかれない、ほんの一瞬の“緩み”だった。
けれど、光は感じ取っていた。
背中で、その空気の変化を確かに。
カウンターを離れながら、光はスマホをもう一度取り出した。
開かれたメールには、変わらず凛の丁寧な文章が並んでいる。
それだけで、少しだけ胸があたたかくなった。
まるで、恋文でも受け取ったかのように。
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