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それでも、逃げたくなる夜があった
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カップの底に残った氷が、凛の指先にストローで軽く押されて、からん、と音を立てた。
その音はカフェのざわめきに紛れて、誰にも届かないほど小さい。
しかし凛にとっては、自分の記憶を呼び起こすきっかけとしては十分だった。
光が隣にいることはわかっていたが、しばらく言葉を継ぐことができなかった。
記憶の中に沈むように、静かに目を伏せる。
あの頃の自分は、まるで透明なフィルムを通して社内を歩いていた。
誰にも見られたくないのに、誰かの目を気にしてばかりいた。
そのくせ、平野が自分に向けてくれる笑顔に、安らぎを覚えていた。
矛盾と安堵が入り混じった関係。それを保つために、あらゆる感情を押し殺していた。
――コピー機の前。
ある日、平野が軽い調子で凛に話しかけてきたことがあった。
その声は別に人目を引くほどではなかったし、話の内容もただの印刷ミスの話だった。
だが、ちょうどすれ違った女性社員がふたり、こちらを一瞬見た気がして、凛は平野の言葉を遮ってしまった。
「あとで。今は、仕事中ですから」
声は冷たくなかったが、確実に距離を作っていた。
平野は少しだけ目を伏せて笑い、何も言わずにその場を離れていった。
あのときの、彼の背中を今でも思い出せる。
あのとき自分が見ていたのは、社員の目だけで、
目の前の平野の顔ではなかった。
「……全部、自分で終わらせようとしてました」
凛は静かに口を開いた。
カップの縁を指先でなぞるようにして、次の言葉をゆっくり探す。
「誰にも見せずに、ひとりで決めて、
“これがベストだ”と自分に言い聞かせて」
光は返事をしなかった。
ただ、凛の言葉が終わるのを待っていた。
急かさず、口を挟まず、まるでその記憶が凛の中で自然と整理されていくのを見守るように。
「……それが“大人”だと思ってたんです。
余計なことを話さないで、感情を抑えて、
それでちゃんと生きていける人間こそが、強いんだって」
記憶の中の平野は、どこまでも穏やかだった。
怒られたことも、責められたこともなかった。
最後のやり取りで、彼が言った言葉を今でも忘れない。
――「俺はもう少しだけ、甘えられる関係がいいな」
それは、別れの言葉ではなかった。
でも凛にとっては、それが決定打だった。
自分には、誰かに甘えることができない。
弱さを見せることが怖い。
だからその関係を保てないなら、いっそ終わらせたほうがいい。
そう決めたのは、平野ではなく、自分だった。
「別れたとき、喧嘩ひとつしませんでした。
向こうは最後まで、“いつでも話していい”って言ってくれてたんです」
凛はカップをテーブルに戻した。
音を立てないように、そっと置く。
「でも、できなかった。
今さら“怖い”とか、“助けてほしい”とか、
言える自分になれなくて」
沈黙が、ふたりの間を包んだ。
だがそれは苦しさをともなうものではなく、
ちょうど、雨上がりの空気が街を覆うような、乾いた静けさだった。
カウンター席の向こうで、朝の光が差し込む。
店のガラスを通して、信号待ちの人々が行き交っているのが見える。
その光景のひとつひとつが、過去と現在を繋いでいるようだった。
「……じゃあ、今はどうなんですか?」
光の声は、低く抑えられていた。
強く詰めるわけでも、探るわけでもなく、ただ凛の本音を知ろうとする声だった。
凛は答えず、もう一度カップを手に取った。
すでに氷はほとんど溶けかけていた。
それでも、少し口をつけてから、ふっと息をついた。
「分かりません。
でも……今こうして話せてるのは、当時の自分と違うってことだと思います」
光が、わずかに表情を緩めた。
その一瞬の変化を、凛は見ていなかった。
だが、何かが変わりつつあることだけは、互いに感じ取っていた。
それはまだ小さな揺れだったが、確かに前へ進むための一歩だった。
その音はカフェのざわめきに紛れて、誰にも届かないほど小さい。
しかし凛にとっては、自分の記憶を呼び起こすきっかけとしては十分だった。
光が隣にいることはわかっていたが、しばらく言葉を継ぐことができなかった。
記憶の中に沈むように、静かに目を伏せる。
あの頃の自分は、まるで透明なフィルムを通して社内を歩いていた。
誰にも見られたくないのに、誰かの目を気にしてばかりいた。
そのくせ、平野が自分に向けてくれる笑顔に、安らぎを覚えていた。
矛盾と安堵が入り混じった関係。それを保つために、あらゆる感情を押し殺していた。
――コピー機の前。
ある日、平野が軽い調子で凛に話しかけてきたことがあった。
その声は別に人目を引くほどではなかったし、話の内容もただの印刷ミスの話だった。
だが、ちょうどすれ違った女性社員がふたり、こちらを一瞬見た気がして、凛は平野の言葉を遮ってしまった。
「あとで。今は、仕事中ですから」
声は冷たくなかったが、確実に距離を作っていた。
平野は少しだけ目を伏せて笑い、何も言わずにその場を離れていった。
あのときの、彼の背中を今でも思い出せる。
あのとき自分が見ていたのは、社員の目だけで、
目の前の平野の顔ではなかった。
「……全部、自分で終わらせようとしてました」
凛は静かに口を開いた。
カップの縁を指先でなぞるようにして、次の言葉をゆっくり探す。
「誰にも見せずに、ひとりで決めて、
“これがベストだ”と自分に言い聞かせて」
光は返事をしなかった。
ただ、凛の言葉が終わるのを待っていた。
急かさず、口を挟まず、まるでその記憶が凛の中で自然と整理されていくのを見守るように。
「……それが“大人”だと思ってたんです。
余計なことを話さないで、感情を抑えて、
それでちゃんと生きていける人間こそが、強いんだって」
記憶の中の平野は、どこまでも穏やかだった。
怒られたことも、責められたこともなかった。
最後のやり取りで、彼が言った言葉を今でも忘れない。
――「俺はもう少しだけ、甘えられる関係がいいな」
それは、別れの言葉ではなかった。
でも凛にとっては、それが決定打だった。
自分には、誰かに甘えることができない。
弱さを見せることが怖い。
だからその関係を保てないなら、いっそ終わらせたほうがいい。
そう決めたのは、平野ではなく、自分だった。
「別れたとき、喧嘩ひとつしませんでした。
向こうは最後まで、“いつでも話していい”って言ってくれてたんです」
凛はカップをテーブルに戻した。
音を立てないように、そっと置く。
「でも、できなかった。
今さら“怖い”とか、“助けてほしい”とか、
言える自分になれなくて」
沈黙が、ふたりの間を包んだ。
だがそれは苦しさをともなうものではなく、
ちょうど、雨上がりの空気が街を覆うような、乾いた静けさだった。
カウンター席の向こうで、朝の光が差し込む。
店のガラスを通して、信号待ちの人々が行き交っているのが見える。
その光景のひとつひとつが、過去と現在を繋いでいるようだった。
「……じゃあ、今はどうなんですか?」
光の声は、低く抑えられていた。
強く詰めるわけでも、探るわけでもなく、ただ凛の本音を知ろうとする声だった。
凛は答えず、もう一度カップを手に取った。
すでに氷はほとんど溶けかけていた。
それでも、少し口をつけてから、ふっと息をついた。
「分かりません。
でも……今こうして話せてるのは、当時の自分と違うってことだと思います」
光が、わずかに表情を緩めた。
その一瞬の変化を、凛は見ていなかった。
だが、何かが変わりつつあることだけは、互いに感じ取っていた。
それはまだ小さな揺れだったが、確かに前へ進むための一歩だった。
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