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始業前、ただふたりだけの朝
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朝八時を少し回ったカフェの店内には、一定のリズムで人の出入りがあった。
出勤前のサラリーマンたちが、新聞を読みながらトーストをかじり、あるいはスマートフォンを片手にラテを啜っている。
ひとつひとつの会話は小声だが、重なればそれなりのざわめきとなって、店内の空気を満たしていた。
その中で、窓際のカウンター席だけが、どこか静けさを保っていた。
阿波座凛と谷町光が並んで腰をかけ、それぞれのコーヒーに口をつけていた。
ふたりのあいだに、言葉はなかった。
しかし、沈黙は重くない。
朝という時間が与える、少しだけ柔らかく、少しだけ眠たげな空気がふたりのまわりを緩やかに包んでいた。
凛は、手にしたアイスコーヒーのストローをゆっくりと回していた。
カップの氷がカランと鳴る。
指の動きは無意識のようでいて、どこか思案をはらんでいる。
彼の眉間には、わずかな皺。
眉を寄せるほどでもないが、何かを考えているときにだけ見せる、静かなしわ。
隣に座る光は、シンプルな白いシャツに濃紺のジャケットを羽織っていた。
髪は昨夜より整えられていて、ネクタイもきっちりと結ばれている。
けれどその姿勢はどこか緊張感をはらみながらも、視線の先は凛の横顔に向けられていた。
ふと、凛が小さく息を吐いた。
「……平野と付き合ってた頃」
光の指先がわずかに止まる。
それでも、顔を動かさずに耳を傾けていた。
「会社に来るのが、怖い朝が続きました」
凛は窓の外を見たまま続ける。
朝の通勤風景。
道路を急ぎ足で渡る人々や、信号待ちをする自転車。
そのすべてが他人事のようで、しかしかつての自分もそこにいたのだと、静かに思い返していた。
「誰かにバレたらって、そればかり考えてた。
朝の会話、昼の視線、何もかもが意味を持ってしまって。
……ただ、会社に行くだけなのに」
言葉のひとつひとつが、今の凛には珍しく、断片的だった。
語るたびに、自分の内側を少しずつ掘り起こすような、慎重さと恐れがにじんでいた。
光は、自分のコーヒーに手を伸ばすことなく、ただ耳を澄ませていた。
凛の言葉が終わるまで、何も言わず、何もはさまずに。
「……それでも、好きだったんですよね。その人のこと」
ようやく口を開いた光の声は、驚くほどまっすぐだった。
批判も、哀れみも、羨望もない。
ただその事実を確認するように、まるで過去に触れた葉の感触を確かめるように、柔らかく響いた。
凛は答えなかった。
だが、わずかにストローを持つ手が止まった。
「その人に問題があったわけじゃない。
……誰かを信じきるって、想像以上に勇気がいるんですね」
ぽつりと落とされたその言葉に、光は小さく頷いた。
「はい、そうだと思います。
でも、俺は、信じてもらえるようになりたいです」
言葉を遮られることなく、その一文がふたりのあいだに落ちた。
凛は視線をようやく窓から引き、カップに口をつけた。
アイスコーヒーの冷たさが喉をすべり落ちる。
その温度が、今の自分には少しだけ心地よいと感じた。
「……じゃあ、どうすれば、信じられますか」
「時間です。
毎日、横にいるだけで、気づいたら信じてた、みたいな。
俺、それをやりたくて、ここにいるのかもしれません」
凛は目を伏せ、わずかに微笑んだ。
その微笑みは一瞬だったが、明らかに、誰かに向けたものだった。
テーブルの上には、すでにぬるくなりはじめたコーヒー。
隣の席では、別のサラリーマンが新聞をたたんで立ち上がる。
ふたりの朝だけが、店の時間とずれていた。
けれど、そのずれが心地よく思えるほどに、空気は静かであたたかかった。
凛は再び窓の外を見つめながら、思った。
この人といるときだけ、自分は過去から少しだけ離れられる。
そしてそれこそが、今いちばん欲しかった“時間”なのかもしれないと。
出勤前のサラリーマンたちが、新聞を読みながらトーストをかじり、あるいはスマートフォンを片手にラテを啜っている。
ひとつひとつの会話は小声だが、重なればそれなりのざわめきとなって、店内の空気を満たしていた。
その中で、窓際のカウンター席だけが、どこか静けさを保っていた。
阿波座凛と谷町光が並んで腰をかけ、それぞれのコーヒーに口をつけていた。
ふたりのあいだに、言葉はなかった。
しかし、沈黙は重くない。
朝という時間が与える、少しだけ柔らかく、少しだけ眠たげな空気がふたりのまわりを緩やかに包んでいた。
凛は、手にしたアイスコーヒーのストローをゆっくりと回していた。
カップの氷がカランと鳴る。
指の動きは無意識のようでいて、どこか思案をはらんでいる。
彼の眉間には、わずかな皺。
眉を寄せるほどでもないが、何かを考えているときにだけ見せる、静かなしわ。
隣に座る光は、シンプルな白いシャツに濃紺のジャケットを羽織っていた。
髪は昨夜より整えられていて、ネクタイもきっちりと結ばれている。
けれどその姿勢はどこか緊張感をはらみながらも、視線の先は凛の横顔に向けられていた。
ふと、凛が小さく息を吐いた。
「……平野と付き合ってた頃」
光の指先がわずかに止まる。
それでも、顔を動かさずに耳を傾けていた。
「会社に来るのが、怖い朝が続きました」
凛は窓の外を見たまま続ける。
朝の通勤風景。
道路を急ぎ足で渡る人々や、信号待ちをする自転車。
そのすべてが他人事のようで、しかしかつての自分もそこにいたのだと、静かに思い返していた。
「誰かにバレたらって、そればかり考えてた。
朝の会話、昼の視線、何もかもが意味を持ってしまって。
……ただ、会社に行くだけなのに」
言葉のひとつひとつが、今の凛には珍しく、断片的だった。
語るたびに、自分の内側を少しずつ掘り起こすような、慎重さと恐れがにじんでいた。
光は、自分のコーヒーに手を伸ばすことなく、ただ耳を澄ませていた。
凛の言葉が終わるまで、何も言わず、何もはさまずに。
「……それでも、好きだったんですよね。その人のこと」
ようやく口を開いた光の声は、驚くほどまっすぐだった。
批判も、哀れみも、羨望もない。
ただその事実を確認するように、まるで過去に触れた葉の感触を確かめるように、柔らかく響いた。
凛は答えなかった。
だが、わずかにストローを持つ手が止まった。
「その人に問題があったわけじゃない。
……誰かを信じきるって、想像以上に勇気がいるんですね」
ぽつりと落とされたその言葉に、光は小さく頷いた。
「はい、そうだと思います。
でも、俺は、信じてもらえるようになりたいです」
言葉を遮られることなく、その一文がふたりのあいだに落ちた。
凛は視線をようやく窓から引き、カップに口をつけた。
アイスコーヒーの冷たさが喉をすべり落ちる。
その温度が、今の自分には少しだけ心地よいと感じた。
「……じゃあ、どうすれば、信じられますか」
「時間です。
毎日、横にいるだけで、気づいたら信じてた、みたいな。
俺、それをやりたくて、ここにいるのかもしれません」
凛は目を伏せ、わずかに微笑んだ。
その微笑みは一瞬だったが、明らかに、誰かに向けたものだった。
テーブルの上には、すでにぬるくなりはじめたコーヒー。
隣の席では、別のサラリーマンが新聞をたたんで立ち上がる。
ふたりの朝だけが、店の時間とずれていた。
けれど、そのずれが心地よく思えるほどに、空気は静かであたたかかった。
凛は再び窓の外を見つめながら、思った。
この人といるときだけ、自分は過去から少しだけ離れられる。
そしてそれこそが、今いちばん欲しかった“時間”なのかもしれないと。
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