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執事の履歴書──『妻のためなら、公爵家も辞す』
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──正体とは、明かされた瞬間よりも、明かされる直前に最も輝く。
シルクの裾が音もなく揺れ、立ち上がるその所作すら舞台の一場面のようだった。私が扉の前で一礼するのと入れ違いに、夫人がサロンを後にしようとしたそのとき、彼女は振り返り、肩越しに微笑んだ。
「それにしても、伯爵様もお相手が悪かったわね。なにしろクローディアスことクロードは、アルケニア公爵家の元執事長ですもの」
その一言は、静かに、けれど確実に空気を変えた。いや、“塗り替えた”と言った方が正しいかもしれない。
アルケニア公爵家──この国で、その名を知らぬ者はいない。歴史の大系を支える大図書院の守護者にして、大陸五大家の一角。国政と文化の両輪を担い、古より王家に忠誠を誓い続けてきた名門中の名門。その執事長ともなれば、もはや王族の補佐といっても過言ではない。
室内にいた全員が、何らかの形で動きを止めた。伯爵は口を開けたまま石像のように固まり、男爵様は紅茶のカップを手にしたまま「……なんでまた、そんな人がうちに……」と呆然と呟いた。
私は小さく会釈し、静かに答えた。
「お嬢様、いえ妻に最高の執事として仕えたいと思いまして。公爵家の執事長という立場は、そのための勉強としてこれ以上ない環境でした。学ぶべき技術、身につけるべき心得をすべて習得しましたので、公爵家を辞して再就職した次第でございます」
男爵様は、それを聞いて静かに天を仰いだ。まるで何かを深く諦めたような表情をしている。
「いや、でも……」
伯爵がかすれ声で言う。
「そんな……冗談でしょう?」
侯爵夫人は扉に手をかけながら、振り返って愉快そうに微笑んだ。
「冗談なら、こんな茶会は開かれていないわ」
その声に、伯爵はよろけるようにソファへ沈み込んだ。
私にとっては、特別な話でもなんでもない。ただ、“最適な場所”で、必要な技術と知識と心得を身につけたというだけの話だ。
誰よりも早く人間の機微を見極める目。
言葉の裏を読み取る耳。
何より、大切な人を守るための刃──それらを鍛えるためには、あそこしかなかったのだ。
「お前というやつは……本当に……」
男爵様がぽつりと呟く。私の努力を知っているはずの彼にすら、あまりに常識外れに映ったのだろう。
「妻の幸福が私の幸福ですから。それ以外に何が必要だとおっしゃるのですか?」
私の問いに、誰も答えなかった。
少年執事は明らかに感動した様子で目を輝かせ、サンゼールは微かな笑みを漏らし、伯爵だけがいまだに何かをつぶやいていたが、もはやそれは意味を成していなかった。
侯爵夫人だけが、全てを楽しげに見守っている。
「ふふ、やはりあなたは、どこまでも面白い人ね、クロード」
面白いという言葉に、私は苦笑を返すだけだ。それが称賛なのか、皮肉なのかを考える余裕などない。私にとって大切なのはただ一つ──あの人の隣で生きるにふさわしい自分であり続けることだけなのだから。
男爵様がもう一度、小さくため息をついた。
「まあ、いいさ……お前が幸せなら、私も幸せだよ」
その言葉が、なぜか胸にじんわりと沁みる。執事として仕えるだけでなく、家族として受け入れられていることを改めて実感する。
──ああ、私はやはり幸せなのだ。
侯爵夫人が廊下を去り、静寂が戻る。
それでもこの場には、確かに爪痕が残った。
私という“公爵家の元執事長”の、正体の一片が。
愛する人の笑顔のためなら、肩書きなど、ただの飾りにすぎない。それは、ただひとりの妻のために磨き上げられたものなのだから。
シルクの裾が音もなく揺れ、立ち上がるその所作すら舞台の一場面のようだった。私が扉の前で一礼するのと入れ違いに、夫人がサロンを後にしようとしたそのとき、彼女は振り返り、肩越しに微笑んだ。
「それにしても、伯爵様もお相手が悪かったわね。なにしろクローディアスことクロードは、アルケニア公爵家の元執事長ですもの」
その一言は、静かに、けれど確実に空気を変えた。いや、“塗り替えた”と言った方が正しいかもしれない。
アルケニア公爵家──この国で、その名を知らぬ者はいない。歴史の大系を支える大図書院の守護者にして、大陸五大家の一角。国政と文化の両輪を担い、古より王家に忠誠を誓い続けてきた名門中の名門。その執事長ともなれば、もはや王族の補佐といっても過言ではない。
室内にいた全員が、何らかの形で動きを止めた。伯爵は口を開けたまま石像のように固まり、男爵様は紅茶のカップを手にしたまま「……なんでまた、そんな人がうちに……」と呆然と呟いた。
私は小さく会釈し、静かに答えた。
「お嬢様、いえ妻に最高の執事として仕えたいと思いまして。公爵家の執事長という立場は、そのための勉強としてこれ以上ない環境でした。学ぶべき技術、身につけるべき心得をすべて習得しましたので、公爵家を辞して再就職した次第でございます」
男爵様は、それを聞いて静かに天を仰いだ。まるで何かを深く諦めたような表情をしている。
「いや、でも……」
伯爵がかすれ声で言う。
「そんな……冗談でしょう?」
侯爵夫人は扉に手をかけながら、振り返って愉快そうに微笑んだ。
「冗談なら、こんな茶会は開かれていないわ」
その声に、伯爵はよろけるようにソファへ沈み込んだ。
私にとっては、特別な話でもなんでもない。ただ、“最適な場所”で、必要な技術と知識と心得を身につけたというだけの話だ。
誰よりも早く人間の機微を見極める目。
言葉の裏を読み取る耳。
何より、大切な人を守るための刃──それらを鍛えるためには、あそこしかなかったのだ。
「お前というやつは……本当に……」
男爵様がぽつりと呟く。私の努力を知っているはずの彼にすら、あまりに常識外れに映ったのだろう。
「妻の幸福が私の幸福ですから。それ以外に何が必要だとおっしゃるのですか?」
私の問いに、誰も答えなかった。
少年執事は明らかに感動した様子で目を輝かせ、サンゼールは微かな笑みを漏らし、伯爵だけがいまだに何かをつぶやいていたが、もはやそれは意味を成していなかった。
侯爵夫人だけが、全てを楽しげに見守っている。
「ふふ、やはりあなたは、どこまでも面白い人ね、クロード」
面白いという言葉に、私は苦笑を返すだけだ。それが称賛なのか、皮肉なのかを考える余裕などない。私にとって大切なのはただ一つ──あの人の隣で生きるにふさわしい自分であり続けることだけなのだから。
男爵様がもう一度、小さくため息をついた。
「まあ、いいさ……お前が幸せなら、私も幸せだよ」
その言葉が、なぜか胸にじんわりと沁みる。執事として仕えるだけでなく、家族として受け入れられていることを改めて実感する。
──ああ、私はやはり幸せなのだ。
侯爵夫人が廊下を去り、静寂が戻る。
それでもこの場には、確かに爪痕が残った。
私という“公爵家の元執事長”の、正体の一片が。
愛する人の笑顔のためなら、肩書きなど、ただの飾りにすぎない。それは、ただひとりの妻のために磨き上げられたものなのだから。
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