不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

文字の大きさ
85 / 91

【ティタ視点】名もなき願い──『ただ、お母様に愛されたかった』

しおりを挟む
──子どもは愛されるものだと、誰が決めたのだろう。
私はずっと、その前提の外側で育った。

抱きしめられた記憶も、おやすみの声もない。

それでも、わたしは母が好きだった。
いつか振り向いてくれる気がして、ずっと。

──夢を、見ていた。

物心がついた時にはもう知っていた。

私は、母に望まれて生まれた子ではないのだと。だって、それを証明するような言葉を、ある日聞いてしまったのだから。

「子供なんか産んだから、わたしの人生はもう終わりよ」

母が誰かと話していた。声の調子は平坦で、紅を引く手元を鏡に映しながら、ふとした瞬間にその言葉はこぼれ落ちた。

私が、母の人生を終わらせた?

それが私という存在の始まりだった。

母は美しい人だった。宝石のように光る瞳に、燃えるような緋色の髪。何を着ても様になって、何をしても周囲の注目を集めた。使用人達は「まるで画から抜け出してきたような方だ」と言っていたし、私の父──名門ロベルシュタイン伯爵家の当主が一目惚れして結婚したのも、きっと当然だったのだと思う。

でも、母は愛されなかった。
私にではない。父にでもなく。

母の心には、別の誰かが住んでいた。名も顔も知らないその男のことを、母は夢の中で呼ぶような声で、たまに呟いていた。

私は近づくたびに、邪魔者のように扱われた。

母の手は白く、細く、香水の匂いがした。けれどその手が私に触れることは滅多になかった。私が駆け寄ると、母は顔をしかめて身を引いた。服が汚れるから。化粧が崩れるから。面倒だから。

だから私は、父と使用人に囲まれて育った。父は穏やかな人だったけれど、いつも仕事で忙しくて、私の髪を梳かしてくれたのは乳母のクラリスだったし、熱を出した夜に傍にいてくれたのは厨房の女中だった。

──私はずっと、夢を見ていた。

よその家のように、お菓子を一緒に焼いたり、リボンを選んだり、ベッドの中で本を読んでもらったり。そういう、絵本の中にあるような『お母さん』との時間を。

私も、そういう愛され方をしたかった。

転機が訪れたのは、私が六歳になった夏のことだった。

母が私を呼んだ。

そう、あのひとが、はじめて私の名前を呼んでくれたのだ。存在を肯定されるように、その声は部屋の空気を変えた。

「ティタ。おいでなさい。今日は、あなたに着せたいドレスがあるの」

母の部屋は、薔薇の香りがした。窓際のレースカーテンが風に揺れ、その陰が床に淡く落ちていた。ソファの上には、淡い空色のドレスが置かれていた。見たこともないほど、繊細な刺繍が施されていた。

私は驚きと、まだ疑うような気持ちで立ち尽くしていた。すると、母が笑った。

「そんなに不思議そうな顔をしないで。あなたは私の娘なんだから、これくらい似合って当然でしょう?」

髪を梳かれ、リボンを結ばれ、頬に紅をのせられて。母の手が、私の頬に触れた。そのとき、世界が静かに輝いた。

「今日は夜会よ。私と一緒に行くの」

お出かけ。あの人と、初めて外へ。私は跳ねる心を押さえるのに必死だった。眠い目をこすりながら馬車に乗り込んだ時、母は私の肩を軽く抱いた。

会場は、眩しいほどだった。シャンデリアの光が跳ね、音楽が鳴り、人々の香水と笑い声が混ざる空間。私は夢を見ているのかと思った。母と手を繋いで歩く私に、男の人たちが笑いかけた。

「おやまあ、可愛いお嬢さん」

「お人形みたいで可憐ですね」

そう言って、大人たちは私の頬や手にキスをした。母は笑っていた。満足そうに。私が褒められるたび、にこやかに頷いていた。

「この子、私にそっくりでしょう?ね?」

私は笑った。嬉しかったのだ。母と並んで、同じ空間にいられることが。手を引かれ、光の中を歩くのが、ずっと夢だったから。

だから、笑った。意味も知らずに笑っていた。

その夜が、夢の始まりだったのか、それとも終わりの始まりだったのか今でも分からない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』

夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」 教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。 ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。 王命による“形式結婚”。 夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。 だから、はい、離婚。勝手に。 白い結婚だったので、勝手に離婚しました。 何か問題あります?

侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています

猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。 しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。 本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。 盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。

《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」 その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

貴妃エレーナ

無味無臭(不定期更新)
恋愛
「君は、私のことを恨んでいるか?」 後宮で暮らして数十年の月日が流れたある日のこと。国王ローレンスから突然そう聞かれた貴妃エレーナは戸惑ったように答えた。 「急に、どうされたのですか?」 「…分かるだろう、はぐらかさないでくれ。」 「恨んでなどいませんよ。あれは遠い昔のことですから。」 そう言われて、私は今まで蓋をしていた記憶を辿った。 どうやら彼は、若かりし頃に私とあの人の仲を引き裂いてしまったことを今も悔やんでいるらしい。 けれど、もう安心してほしい。 私は既に、今世ではあの人と縁がなかったんだと諦めている。 だから… 「陛下…!大変です、内乱が…」 え…? ーーーーーーーーーーーーー ここは、どこ? さっきまで内乱が… 「エレーナ?」 陛下…? でも若いわ。 バッと自分の顔を触る。 するとそこにはハリもあってモチモチとした、まるで若い頃の私の肌があった。 懐かしい空間と若い肌…まさか私、昔の時代に戻ったの?!

ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…

ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。 一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。 そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。 読んでいただけると嬉しいです。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

処理中です...