不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

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【ティタ視点】再生の輪郭──『その一歩を、踏み出せたなら』

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──人はいつだって、過ちを誰かのせいにしたがる。でも本当は、最初から気づいている。間違えたのは自分自身だって。

私は、愛してほしくて傷つけてしまった人がいる。



最初に彼を見た時のことを、私は今でもはっきりと覚えている。

初夏の蒸し暑い午後だった。庭の木々はうるさく葉を擦り合わせ、地面からは重い湿気が立ちのぼっていた。

私はその日も苛立っていた。何に、というのは自分でもうまく言えない。ただ胸の内を掻き乱すような何かに、常に追われていた。

子供の頃から積み重なった理不尽や小さな不満。どうして自分だけがこんな目に遭うのかと、誰にも言えずに部屋で涙をこらえる日々だった。勉強にも身が入らず、些細なことにも腹が立ち、父にも使用人にも八つ当たりしては自分を嫌悪していた。

そんな私の前に、サンゼールが現れた。

細身で、物静かで、けれど目の奥には何かを見通すような光を湛えた美しい青年。私は彼の名前を聞いた瞬間から、どこかで会ったような、不思議な懐かしさを覚えた。

『でも、どうせすぐ辞めるのでしょうね』

最初の印象は、ただそれだけだった。けれど、彼は辞めなかった。私の理不尽な命令にも、突き放すような言葉にも、一度も怒らず、否定もせず、ただ静かに、私のそばにいた。

あの日、白いドレスを破いたのは、ほんの一瞬の感情だった。パーティーで他の令嬢たちに言われた陰口に傷ついたのだ。

「お盛んなティタに、白なんて似合わないわ」

冗談のように笑っていた彼女たちの声が耳に焼きついて、鏡の前で思わずドレスの裾を裂いてしまった。泣きながら、私は自分が誰よりも浅はかで愚かに思えた。

──その時、サンゼールが部屋に入ってきた。

何も言わず、私は背を向けた。彼は破れたドレスをそっと拾い上げ、針と糸を取り出して、丁寧に縫い直しはじめた。黙々と、ただ黙々と。私は嗚咽を抑えることができず、彼の手の動きをじっと見つめていた。

「このドレス、お嬢様にとてもお似合いですよ」

その言葉を、私は何度も思い返している。

嘘ではなかった。誰にも言えなかった苦しみを、彼だけが何も尋ねずに包んでくれた。

それからだった。一緒に庭を散歩したり、お茶を飲みながら静かに笑い合ったり、少しずつ日々が変わり始めた。

部屋で二人だけのワルツを踊ったあの夜、私は確信した。サンゼールは私を見てくれている。私という人間を、欠けたままの私を。

──だから、告白しようと思った。

春先の、柔らかな風が吹く日の午後。私は一度深く息を吸って、彼に向き合った。

「サンゼール、私……あなたのことが好きなの」

彼は少し驚いたように目を見開いたあと、ゆっくりと視線を伏せた。

「申し訳ありません、お嬢様……私はあなたの執事です。それ以上には、なれません。私は、あなたに幸せになっていただけたら……それで十分なのです」

応えてくれると、思ったのに。嘘でもいいから好きだと、私を慰めるような何かを、ほんの一言でいいから与えてほしかった。

「……どうして?同じ気持ちじゃなかったの?ずっと……私のこと、見ていてくれたでしょう……!」

私は子供みたいに縋りつきそうになるのを、必死で堪えた。けれど、溢れる感情はもう止まらなかった。私の中で芽生えていた初めての恋は、何の前触れもなく砕け散った。

彼の優しさは本物だった。だからこそ、私は勘違いした。初めて誰かに大切にされたような気がして、信じてしまったのだ。

もう、何もかもどうでもよかった。

言葉を耳に入れないよう、わざと誰かを傷つける言葉を吐いては、胸の奥に渦巻く自己嫌悪を押し殺す。心が痛くて堪らなくても、悪評を浴びるほどにどこか安堵した。そうだ、これでいい。私は、愛される資格などないのだから。

夜会では必ずと言っていいほど誰かと衝突した。グラスを奪っては砕き、侮辱されればより鋭く言葉を投げ返した。貴族の礼儀も、優雅さも、私には似合わない。壊して壊して、周りの視線に怯えるのをやめた。皆が眉を顰めるたびに、どこか安心する自分がいた。きっと、母に捨てられたあの日から、私はずっと壊れたままだ。

そんな日々のなか、幼馴染のアトラが結婚すると聞いた。相手は彼女の執事。何故だろう、心が千切れるような痛みに襲われた。彼女の幸せな笑顔が目に浮かぶ。招待状を手にしたとき、私は指が震えるのを感じて、息を詰まらせた。

「……ずるい」

声にした途端、胸の中に黒い塊が膨れ上がった。嫉妬だとすぐにわかった。どうして彼女ばかりうまくいくの? どうして私は駄目なの? 震える手で招待状を破り、何度も何度も床に踏みつけた。

それでも、涙は出なかった。ただ、胸の中が焼けるように熱かった。

誰にも愛されず、誰にも必要とされないのなら、もうどうなったって構わない。誰かを憎むことで、自分の心を守っていた。
愛されないことが痛いと知っているから。
本当は愛されたかったけれど、それを認める勇気が、なかった。

そんな愚かな私の為に、彼はぼろぼろになりながら、クロードと戦っている。

命に等しい羽を失い、人間の姿を手に入れた蝶。
昔、気紛れに助けただけの小さな命。

どうして?絶対に勝てるはずのない相手に、全てを懸けて挑んでくれるほどに、私を想ってくれていたの?

何度も降参を促されていた。けれど、彼は耳を貸さなかった。痛みをものともせず、震える指先でクロードの足首を掴んでいる。

「……お願い、もう、やめて」

声は喉の奥で震え、どこにも届かない。叫ぶことすらできなかった。

あなたがこんなに傷だらけになるほどに、何かを賭けてしまったその理由が、私だったとしたら――。

私は、いったい、何を返せばいい?

「……お嬢様は、渡しません」

愛って、いったい、何だろう。

こんなにも苦しくて、胸の奥が焼けるようで、息を吸うことすら痛いのに、私は、あの人の名前を呼びたいと思っている。

涙で滲む景色の向こう。地面に手をつきながら、あなたが、振り返った。

その眼差しに私はもう抗えなかった。

――逃げては、いけない。

傷つくことを恐れて踏み込まずにいれば、失うだけだ。私はもう二度と、あの夜のように、別れの言葉を告げられて泣くだけの少女でいたくない。

あなたが命を懸けて戦ってくれるのならば、私も戦わなくてはいけない。

足元が揺れている。
心臓の奥で、何かが崩れながら、生まれ変わろうとしている。

さあ──もう一度、世界と向き合いましょう。

今度は、私があなたに手を差し伸べる番だ。過去の傷も、後悔も、嫉妬も、今は全部脇に置いて、あなたと自分自身のために、もう一度立ち上がるのだ。

私はもう迷わずに、彼の元へと走り出した。
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