不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

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【クロードの回想】存在の輪郭──『孤独という名の、始まり』

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──本能だけで生きていれば、世界は恐ろしく単純で、恐ろしく穏やかだ。

空腹になれば食らい、疲れれば眠り、危険を察知すれば逃げる。

だが、人は心という不確かなものを得た瞬間から、その単純さの外へと追い出される。なぜ生きるのか、なぜ誰かを思うのか、理由もなくただ在ることに、説明を求め始める。

それは、生きることを難しくし、苦しみに変え、それでもなお、そこに意味を探そうとする営みなのだろう。

私はまだ、その意味を知らない。

ただ、彼の言葉の震えだけが、私にその存在を伝えていた。



それはまだ、私が唯の蜘蛛として、森の奥に生きていた時のことだ。

森の奥深く、月光が微かに差し込む蜘蛛の巣の上で、私は静かに息をひそめていた。葉擦れの音すら遠く、夜露の滴り落ちる気配が、ただ静寂に満ちた世界のすべてだった。

季節の流れも、年月の感覚も、私たち蜘蛛にとっては意味を持たない。

ただただ、生き、捕らえ、食らい、命を繋ぐことだけが存在のすべてだった私たちの中に、彼は確かにいた。

彼は私とよく似ていた。強靱な糸を紡ぎ、理に適った幾何学的な巣を張り、どこまでも冷静で、効率的だった。獲物がかかれば、迷いなく絡めとり、躊躇なく牙を突き立てる。そこに感情も戸惑いもなく、ただ生きることだけがあった。

私は、そんな彼と静かに、だが確かに寄り添っていたのだと思う。

彼を兄弟とも同胞とも呼んだことはない。蜘蛛にとって、呼び名は意味を持たない。互いに網の震えを感じ取り、隣り合って巣を広げる。それだけで充分だった。

だが、あの森に魔法使いが現れた日、私はその均衡を失った。

魔法使いが彼を見つけたのか、彼が魔法使いを見つけたのか、それは今でもわからない。
ただ、気がつけば彼は、人の姿となって、私の前に現れたのだった。

――それは、奇妙な光景だった。

八本の脚で紡ぐべき網を、五本の指でさわり、ぎこちなく私の巣の縁を撫でる彼。

彼の目はもはや複眼ではなく、深く澄んだ人の瞳となっていて、その奥に、私たち蜘蛛にはなかったもの――名も知らぬ「孤独」というものを、私は確かに見た気がした。

彼は言った。

「私は、もうここにはいられない」
「けれど、君はここにいてくれ。君まで変わることはない」

私は、何も言わなかった。ただ、巣の震えでそれを受け止めた。言葉を交わす術を、私はまだ持たなかったし、必要とも思わなかったからだ。

だが、彼の言葉は私の糸に、確かに微かな歪みを残した。

やがて彼は森を出て行った。

人間たちの築く石造りの館で、彼は「執事」と呼ばれる役割を得たらしい。
主に仕え、誰かの隣で、己の役割を全うすることに、己の居場所を見出したのだ。

彼は、時折ふと思い出したように森に帰ってきては私に世間話をしていった。

人間の言葉は不思議なものだ。
無駄が多く、迂遠で、けれども時に、直接的な網よりも遥かに繊細に、心という目に見えぬものを掬い上げる。

「生きるということは、難しいな」

ある夜、彼は静かにそう言った。

「本能なら、きっともっと楽なんだ。誰かを好きになるのも、傍にいるのも、理由なんかなくていい。ただ、共にいるから共にいる。それだけでよかった。でも、今の私は違うんだ」

彼はかすかに笑った。

「苦しい。けれど、幸せなんだ。……彼女が私のことを必要としてくれる、それだけで、私はこの形になってよかったと思えるんだ」

月明かりに照らされた彼の横顔は、どこか痛々しくも、穏やかだった。

私はただ静かに巣の中心で彼を見ていた。
理解など、できるはずもない。ただ、彼の言葉の震えが、網を通して確かに伝わってきたのだ。

私たちはもはや同じ種ではない。けれど、孤独であることは、また違った形で互いに知っていたのかもしれない。

その日から、私は考えるようになった。

彼の生き方は、果たして失われたのか、それとも新しい価値を得られたのかを。
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