それは、ホントに不可抗力で。

樹沙都

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§ 墨に近づけば黒くなる。

13

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 一心不乱に滑る指先。カタカタカタカタとキーボードを叩く音が、静かなオフィスに響く。

 私はいま、すこぶる機嫌が悪い。

 モニタの隙間からチラと目線を向ければ、ソファに座りタブレットに見入っている元凶、尊の憎たらしい横顔が見える。すべては、こいつのせいだ。

 開発への移動、つまり、小林統括のアシスタント初日、連れてこられた先は、開発部ではなくこいつのオフィス。名目こいつのアシスタントなのだから、それは、まあいい。

 だが、どういうわけか私は、こいつのデスクに座りこいつのマシンを使いこいつが設計したプログラムを書かされている。

 のんきにコーヒーを啜らせるために、あんたの仕事を肩代わりするのが、アシスタントなのか。納得がいかない。

『これ、新しくウチで開発する個人ユーザー向けのアプリ。どう? ちょっとおもしろそうだろう?』
『ライフスタイルマネージメント? スケジュール、お金、……へえ、健康管理までトータルなんだ? うん。なんかおもしろそうだね』
『俺がやろうと思ってたんだが、おまえ、ざっと組んでみないか? 叩き台だからとりあえず動けばいいから。それで、どのくらいでできる? あー、おまえならそうだな、一週間もあれば余裕だろ』

 おもしろそうだねなんて乗った私がバカでした。

 できそこないのプロジェクトマネージャーみたいなセリフを吐きやがって。なにが、ざっとだ。なにが、とりあえず動けばだ。なにが、一週間もあれば余裕だ。こんな複雑なものを一週間で組めってあなた、鬼ですか。いや、大魔王でした。

 そして、極めつけはやはり、食い物の恨み。

 昨日、尊が出かけたあとのこと。佳恵とのおしゃべりが一段落つき、食器を片付けにキッチンへ立つと、台湾から自分のためだけに持ち帰った大切な大切な大切な高級カラスミが、流し台の上にポツンと置かれていたのだ。

 私が無意識に冷蔵庫から取り出して、ここへ置くわけはなく、もちろん、カラスミが冷蔵庫の中からひとりで歩いて出てくるなんてありえない。

 つまり、犯人は私以外のもうひとり。あいつタケル

 これは、夕飯時にカラスミを食べさせろとの意思表示。
 すでに半解凍状態のカラスミを手に取り、諦めの境地でとりあえずそれを冷蔵庫にしまおうと扉を開けるとそこには。

 さらなる悲劇が、待ち受けていた。

「嘘だろ……」

 庫内中央にゴロンと横たわっていたのは、趣味部屋のクローゼットの奥に、ひっそりと隠し持っていた秘蔵のシャブリ。

 あの野郎、いつの間に。
 あいつはただの大魔王じゃなくて『家捜し大魔王』だ。

 シャブリは冷やし過ぎるとせっかくの飲み頃を逸してしまう。
 いまさらではあるが、冷蔵庫よりは多少温度の高い野菜室のほうがまだマシだろうと、ボトルを移動。

 そして、高かったのにと悔し泣き半分、大根を買いにスーパーマーケットへ向かう道すがら思う。鮨の元をここまでしっかり取られるとは、報復にかけるあいつの執念は、怖ろしい。

 もちろん、カラスミもシャブリも、その大半があいつの胃袋に収まったのは、言うまでもない。

「その様子だと、一週間もかからずに終わりそうだな」

 嬉しそうな声が耳に届く。こいつと一緒に居ると、自分の性格まで黒く染まりそうで恐ろしい。
 怒りのあまりカタカタとキーを打つ指がさらに力強く滑らかにスピードアップした。

 遠くで尊の高笑いが聞こえた気がするが、きっと空耳だろう。

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