【R18】貴方の傍にいるだけで。

樹沙都

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§ 追いかけてきた過去

09

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 半透明のポリ袋の底に、割れた卵の黄色が流れ出ているのが見える。潰れた食パン、卵に塗れたハーゲンダッツの容器。きっともう溶けきって食べ頃すら逸してしまっただろう。
 立ち上がった私はポリ袋をつかみ、キッチンの端に置いてあるゴミ箱の蓋を開けるや否や、それを仇の如く投げ入れ、啓に背を向けた。

「あいつが親友だから庇ったとでも思ってるのか? おまえは、俺がそんな奴だと思ってるのか?」

 ハーゲンダッツ。一口くらい食べたかったな。

 卵に塗れぐちゃぐちゃに潰れたダッツのカップが破れて、中身が流れ出ている。どれほど惜しくても、ひとたび溶けてしまったアイスクリームに再生は有り得ない。

「あなたがどうだろうと、事実は変わらない」

 価値がなくなれば、捨てられる。私もそうだっただけ。

「瑞稀、おまえはなにもわかってない!」

 荒げられた声と同時に強引な腕に引き寄せられた。なにが起きているのか。力強い腕に背を搦め捕られ胸を押し潰されては、呼吸すらままならない。

「ぃ……や。はな、し……て、くる……し」

 肺の中にささやかに残った空気を吐き出して出た掠れ声が耳に届いたのだろうか。ふと、締め付けが緩んだ。けれども、ほっと息をつく間も無く代わりに押し当てられた唇に戦慄する。開きかけた唇を強引に割って入り込んでくるぬるっとした感触。気持ちが悪い。口腔いっぱいに不快感が広がった。

 自由を奪われていない手で拳を握り啓の肩を、背を、叩くのが精一杯。顔を背けようにも、後頭部を押さえつける大きな手に邪魔され、身体を引き剥がそうともがけば、腰に回された腕の拘束がきつくなる。

 必死に抵抗したところで所詮、成人男性の本気には敵わない。呼吸ができない。血の気が失せるように頭の天辺から背筋へとひんやりとしたなにかが広がっていく。きつく抱き締められているのに、啓の体温すら感じられない。

「瑞稀、俺は……おまえを守りたかっただけなんだ。あの頃のおまえはガラス細工の人形のようにきれいで……素直で、かわいくて……。おまえに俺の気持ちがわかるか? 俺が……智史におまえを譲らなければよかったと、どれほど後悔したかわかるか? いなくなったあいつを必死に探すおまえを見ていた俺の気持ちがわかるか?」

 この人、なにを言っているの?

「……その痣のあるおまえの顔を初めて見たとき、俺がどんな気持ちだったと思う? あいつを忘れられなくて変わってしまったおまえを毎日見ている俺の辛さがわかるか? それでも……それでも俺は、おまえの傍にいておまえをずっと守りたかった。それなのにどうして? どうして俺じゃないんだよ! 俺が……こんなにおまえを愛してるのに」

『俺が……こんなにおまえを愛しているのに』

 私の中で、ぱりん、と、なにかが砕ける音がした。

 薄れゆく意識の中、鳴き声にも似た荒い息づかいだけが耳に突き刺さる。

 醜い痣を宿した人形。その瞳にはなにも映らない。ただ、彼の唇が頬を滑り、首筋を吸い上げる。髪を留めていたゴムはどこかに飛ばされてしまった。釦が外れたシャツの隙間から覗く下着。裾までも引き出され、露わになる白い肌に温度はない。

 いったいなにが行われているのだろう。離れた場所からもうひとりの私が、彼の挙動を静かに眺めている。


 なにかがぶつかった衝撃で、肩に鋭い痛みを感じた。

「止めてっ! 瑞稀になんてことしてんのよ!」

 小夜が叫びながらいつもの大きなバッグを振り回し、啓を殴っている絵が目に飛び込んできた。

 茫然とそれを見ている私の頬に触れた手の感触に、ひゅっと息を飲み身体を硬くする。肩にかけられた人肌の温もりが残るコートから、慣れ親しんだ亮の匂いがする。コートごと抱き寄せられ温もりに顔を埋めてはじめて、私の身になにが起きたのかを理解した。

「瑞稀を傷つけないで!」

 怒りに震える小夜の声と遠ざかる足音。啓は出て行ったのだ。

 顔を上げれば、目に涙を溜めた小夜が、私を見下ろしている。

「瑞稀……大丈夫?」
「うん」

 大丈夫かと訊かれたら大丈夫と答える以外、他になにを言えばいい?
 亮の腕の中で小夜の瞳が語るその意味を考えながら無理やり微笑む私の顔はきっと、泣き顔よりも醜く歪んでいると思う。

「立てるか?」

 抱え上げられて立ち上がり、椅子に座った。亮は跪き、肩にかけてくれたコートの前を合わせ髪の乱れを整えてくれる。ただ、その探るような視線が苦しくて、思わず目を逸らしてしまった。

「ごめんなさい」

 ようやく絞り出した謝罪の言葉に、小夜の明快なお小言が畳み掛けられる。

「そうよー、心配したんだからね! 松本さんにちゃんと謝りなさいよ! なにかあったんじゃないかって私にまで電話してきたんだから」
「電話?」

 バッグから取り出し起動した携帯電話の画面に延々と並ぶ着信履歴に驚いた。

「ごめんなさい。ぜんぜん気がつかなかった」
「いいよ。おまえが無事なら、それでいいんだ」

 微笑み、私の頭を撫でる亮の手が、少し震えている。

「じゃあ私、帰るわ。まだ仕事残ってるし」

 この大嘘つき。徹夜仕事なんてさすがにあるわけないでしょう?

「うん。ごめんね小夜。忙しいのに」
「いいって。さて、今日は何時に上がれるかな? んじゃ、お先ね」

 スリッパを履く余裕すらもなかったのだ、と、音も無く玄関へ走る小夜の後ろ姿を見送りながら、先ほどまでの状況を思い浮かべた。

 騙すつもりはなかった、傷つけたくなかった、守りたかった、と、言った啓のその言葉は本当の思いだったのか。だったらなぜ——。

 親友だと、信じていた。彼の思いなんぞなにも知らず私は、五年もの間、疑いひとつ持たなかった。

 出口を探し彷徨うように、啓の言葉が頭の中をぐるぐる回っている。あの目、あの表情、あの言葉。ひとつひとつが、錆びて刃こぼれだらけになったナイフで切りつけられるように、歪な傷をつけていく。

 そうか。私が、愚かだっただけだ。

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