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第24話 過去の影、血の匂い
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夜明け前の風は冷たかった。
小屋の外で鳥が鳴く。嵐の名残を残した空気は湿り、草の上に夜露が光っている。
クラリッサは袖をまくり、まだ眠るマリオの頭を軽く叩いた。
「おはようございますの。ほら、朝の労働こそ貴族の務めですわ」
「……クラリッサさん、それ平民の務めじゃ……」
「貴族も平民も、この村では同等ですの」
マリオが寝ぼけ眼で笑ったとき、背後から声がした。
「……畑の外、何かいる」
レオンだ。
目が冴えている。夜のうちも眠っていなかったのだろう。
その視線の先――森の縁、泥にまみれた地面に“足跡”があった。
それは人間のものだった。
大人二人分、いや三人……。
泥に混じる血のしぶき。刃物の跡。
「……狼じゃありませんわね」
クラリッサの声が低くなる。
レオンは跪き、土を指でなぞった。
「鋲付きの靴。訓練された歩幅。――盗賊じゃない」
「では?」
「……追跡隊だ。王都の」
その言葉に、クラリッサの心臓が一瞬だけ跳ねた。
王都――。
あの名を聞くだけで、胸の奥に苦い香りが蘇る。
あの腐った薔薇の宮廷、嘘と断罪の夜。
もう過去のことだと思っていたのに。
「まさか……わたくしを追って?」
「いや、断定はできない。ただ――この辺境に“公爵令嬢”がいるという噂は、王都の耳にも届くだろう」
レオンの声は静かだった。
だがその静けさは、剣を抜く前の兵の呼吸に似ていた。
「レオンさん。あなた……この足跡の“型”を知っていましたわね?」
「……少しな」
「やはり、傭兵ではなく――」
クラリッサが言いかけたとき、森の中で木が折れる音がした。
レオンが即座にクラリッサを庇い、腰に手を伸ばす。
「剣は抜かない約束、忘れましたの?」
「敵がいるなら話は別だ」
次の瞬間、茂みを割って三つの影が飛び出した。
黒布で顔を覆い、腰には細身の短剣。
間違いない――王都の追跡隊。
「……“標的確認”。公爵令嬢クラリッサ・ヴァレンティーヌ、拘束せよ」
低い声が響く。
レオンが前に出る。
「退け。ここは民の土地だ」
「……裏切り者が何を」
その言葉で、クラリッサはすべてを理解した。
レオンの瞳が一瞬だけ揺れる。
彼は“追う側”の人間だった――かつて。
短剣が閃く。
レオンは素早く相手の腕を払うと、足を払って地面に押し倒した。
しかし、二人目が森の影から矢を放つ。
クラリッサは身を伏せながら、腰の小袋を開く。
「セージ、ローレル、そして――マリオ! 火を!」
「はいっ!」
小さな火種が乾いた葉を舐め、煙が上がる。
香りが一瞬で風に乗り、灰色の幕を作った。
敵の視界が曇る。
その隙にレオンが踏み込み、二人を瞬時に無力化する。
「動くな」
最後の男が短剣を構え、クラリッサに詰め寄る。
「令嬢、命までは取らぬ。大人しく来い」
「お断りいたしますわ」
クラリッサは懐から小瓶を取り出した。
中には黄金色の液体――乾燥ミントと蜂蜜の濃縮香料。
彼女は瓶を開けて、男の目の前に突きつけた。
「優雅な教えですの。
“女性の手に瓶があるとき、男は近づくな”。」
強烈な香気が男の鼻を刺す。
混乱して後退した瞬間、レオンが剣を抜いた。
音はひとつ――風が裂ける音。
刃先が男の喉元で止まった。
「……やめておけ」
「なぜ止めた?」
「血を流せば、もっと来る。
この連中は、ただの追跡役だ。背後に“本命”がいる」
レオンの声には確信があった。
その冷静な判断力――かつて彼が指揮官だったことを、物語っていた。
「あなた……本当は、誰ですの?」
クラリッサの問いに、彼はしばし沈黙したあと、ゆっくりと剣を鞘に戻した。
「俺は――“王都騎士団、第一近衛隊”の元隊長だった」
「王都の……!」
「そして……かつて、“君を捕らえる命令”を受けた人間だ」
空気が凍る。
マリオが息を飲み、クラリッサの瞳がわずかに揺れた。
けれど彼女は微笑んだ。
「そうですの。……なら、ようやく借りを返す機会ができましたわね」
「借り?」
「わたくしを一度、壊した人が、いまはわたくしの畑を守っている。
これを“運命の茶会”と呼ばずして何と呼びますの?」
レオンは何も言わなかった。
けれど、その瞳に浮かぶ痛みは、彼自身の贖罪の始まりを告げていた。
そして、森の奥で小さな鐘の音が鳴る。
新たな足音――追跡者の第二陣。
クラリッサは扇子を開き、笑った。
「……また来ますのね。なら、少し香りを濃くしておきましょうか」
「クラリッサ――」
「心配は無用ですわ、レオンさん。
この香りがあれば、どんな“追跡”もわたくしの舞台に変わりますの」
風が吹き、初恋草の香りが広がる。
その香りの奥に、血と鉄と、静かな誓いの匂いが混じっていた。
小屋の外で鳥が鳴く。嵐の名残を残した空気は湿り、草の上に夜露が光っている。
クラリッサは袖をまくり、まだ眠るマリオの頭を軽く叩いた。
「おはようございますの。ほら、朝の労働こそ貴族の務めですわ」
「……クラリッサさん、それ平民の務めじゃ……」
「貴族も平民も、この村では同等ですの」
マリオが寝ぼけ眼で笑ったとき、背後から声がした。
「……畑の外、何かいる」
レオンだ。
目が冴えている。夜のうちも眠っていなかったのだろう。
その視線の先――森の縁、泥にまみれた地面に“足跡”があった。
それは人間のものだった。
大人二人分、いや三人……。
泥に混じる血のしぶき。刃物の跡。
「……狼じゃありませんわね」
クラリッサの声が低くなる。
レオンは跪き、土を指でなぞった。
「鋲付きの靴。訓練された歩幅。――盗賊じゃない」
「では?」
「……追跡隊だ。王都の」
その言葉に、クラリッサの心臓が一瞬だけ跳ねた。
王都――。
あの名を聞くだけで、胸の奥に苦い香りが蘇る。
あの腐った薔薇の宮廷、嘘と断罪の夜。
もう過去のことだと思っていたのに。
「まさか……わたくしを追って?」
「いや、断定はできない。ただ――この辺境に“公爵令嬢”がいるという噂は、王都の耳にも届くだろう」
レオンの声は静かだった。
だがその静けさは、剣を抜く前の兵の呼吸に似ていた。
「レオンさん。あなた……この足跡の“型”を知っていましたわね?」
「……少しな」
「やはり、傭兵ではなく――」
クラリッサが言いかけたとき、森の中で木が折れる音がした。
レオンが即座にクラリッサを庇い、腰に手を伸ばす。
「剣は抜かない約束、忘れましたの?」
「敵がいるなら話は別だ」
次の瞬間、茂みを割って三つの影が飛び出した。
黒布で顔を覆い、腰には細身の短剣。
間違いない――王都の追跡隊。
「……“標的確認”。公爵令嬢クラリッサ・ヴァレンティーヌ、拘束せよ」
低い声が響く。
レオンが前に出る。
「退け。ここは民の土地だ」
「……裏切り者が何を」
その言葉で、クラリッサはすべてを理解した。
レオンの瞳が一瞬だけ揺れる。
彼は“追う側”の人間だった――かつて。
短剣が閃く。
レオンは素早く相手の腕を払うと、足を払って地面に押し倒した。
しかし、二人目が森の影から矢を放つ。
クラリッサは身を伏せながら、腰の小袋を開く。
「セージ、ローレル、そして――マリオ! 火を!」
「はいっ!」
小さな火種が乾いた葉を舐め、煙が上がる。
香りが一瞬で風に乗り、灰色の幕を作った。
敵の視界が曇る。
その隙にレオンが踏み込み、二人を瞬時に無力化する。
「動くな」
最後の男が短剣を構え、クラリッサに詰め寄る。
「令嬢、命までは取らぬ。大人しく来い」
「お断りいたしますわ」
クラリッサは懐から小瓶を取り出した。
中には黄金色の液体――乾燥ミントと蜂蜜の濃縮香料。
彼女は瓶を開けて、男の目の前に突きつけた。
「優雅な教えですの。
“女性の手に瓶があるとき、男は近づくな”。」
強烈な香気が男の鼻を刺す。
混乱して後退した瞬間、レオンが剣を抜いた。
音はひとつ――風が裂ける音。
刃先が男の喉元で止まった。
「……やめておけ」
「なぜ止めた?」
「血を流せば、もっと来る。
この連中は、ただの追跡役だ。背後に“本命”がいる」
レオンの声には確信があった。
その冷静な判断力――かつて彼が指揮官だったことを、物語っていた。
「あなた……本当は、誰ですの?」
クラリッサの問いに、彼はしばし沈黙したあと、ゆっくりと剣を鞘に戻した。
「俺は――“王都騎士団、第一近衛隊”の元隊長だった」
「王都の……!」
「そして……かつて、“君を捕らえる命令”を受けた人間だ」
空気が凍る。
マリオが息を飲み、クラリッサの瞳がわずかに揺れた。
けれど彼女は微笑んだ。
「そうですの。……なら、ようやく借りを返す機会ができましたわね」
「借り?」
「わたくしを一度、壊した人が、いまはわたくしの畑を守っている。
これを“運命の茶会”と呼ばずして何と呼びますの?」
レオンは何も言わなかった。
けれど、その瞳に浮かぶ痛みは、彼自身の贖罪の始まりを告げていた。
そして、森の奥で小さな鐘の音が鳴る。
新たな足音――追跡者の第二陣。
クラリッサは扇子を開き、笑った。
「……また来ますのね。なら、少し香りを濃くしておきましょうか」
「クラリッサ――」
「心配は無用ですわ、レオンさん。
この香りがあれば、どんな“追跡”もわたくしの舞台に変わりますの」
風が吹き、初恋草の香りが広がる。
その香りの奥に、血と鉄と、静かな誓いの匂いが混じっていた。
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