31 / 60
第31話 泥と真珠
しおりを挟む
王都へ続く街道は、まだ朝靄に包まれていた。
馬車の車輪がぬかるみを跳ね、木の香りと土の匂いが混ざる。
クラリッサは窓から外を見つめ、薄い唇を引き結んでいた。
「……懐かしい匂い、ですわね」
「王都の空気か?」と、向かいの席からレオンが問う。
「ええ。でも、あの頃とは違いますの。
もう、紅茶の香りよりも――畑の土の匂いのほうが落ち着きますのよ」
「それは……悪くない変化だ」
クラリッサは小さく笑った。
辺境での生活が、彼女の“誇り”を変えたのだ。
かつて彼女にとって誇りとは“美しく見せること”だった。
だが今は違う。“生き抜くこと”こそが誇り。
そして、“人を支える強さ”こそが、真の貴族の品格だと知った。
「王都に戻ったら、まずどこへ?」
「宗教院の旧館ですわ。封印されたままの“香りの台帳”を見たいのです」
「“鏡花の香”の記録か」
「ええ。――あの罪の香りを、今度こそ“希望”に変えますの」
レオンはその横顔を見つめ、ほんの一瞬、息をのんだ。
彼女の瞳は、もうかつての“断罪された令嬢”のそれではなかった。
どんな王も神も、彼女を跪かせることはできない。
それが、辺境で鍛えられた令嬢――クラリッサ・ヴァレンティーヌの今の顔だった。
街道の先には、馬を引く青年たちの姿が見えた。
その中の一人が駆け寄り、慌てた声を上げる。
「クラリッサ様! 村が――!」
「落ち着いて。どうしましたの?」
「村が、王都商会の傭兵団に包囲されました! “特産品の独占権”を奪うために!」
クラリッサは目を見開く。
「……初恋草ブレンドを、狙って……?」
青年はうなずく。
「“ヴァレンティーヌブランド”を名乗る偽物商会が、
王都で流行を作ってるそうです!」
クラリッサの指先がピクリと動いた。
「……王都は、まだ“奪うこと”しか知らないのね」
レオンが静かに立ち上がる。
「戻るか」
「ええ、もちろん。――“扇子を畑で振るう”日々は終わりましたの。
今度は、“農具を社交界で振るう”番ですわ」
クラリッサは窓の外に手を伸ばし、初恋草の花を一輪摘んだ。
「誇りを奪う者には、香りで返して差し上げますの」
馬車が再び動き出す。
王都と辺境――二つの世界をつなぐその道を、
“農具と扇子を携えた令嬢”がゆっくりと進んでいく。
王都の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
香水と香油の濃い香りが漂い、
人々の視線がクラリッサをすれ違いざまに刺す。
――二年前、断罪された公爵令嬢。
――いまや“辺境の変人”。
そんな噂がすでに都じゅうを駆け巡っていることを、
クラリッサは知っていた。
「懐かしいわね、レオン」
「懐かしむような場所か?」
「ええ。過去は、使いようですもの」
彼女は涼しげに扇子を開く。
かつての彼女のような金糸のドレスではなく、
今のクラリッサは、淡い灰色の麻布のドレスに身を包んでいた。
裾には、旅の泥が残る。
しかしその姿は、どの貴族夫人よりもまっすぐで美しかった。
その日、王都中央商館では盛大な試飲会が開かれていた。
テーマは「新たなる香りの時代」。
王都商会が誇る“ヴァレンティーヌ・ブレンド”の披露会だ。
――もちろん、それは偽物。
主催者のバートラム商会令嬢、セシリアが微笑む。
「皆様、本日はようこそ。こちらが“復活のヴァレンティーヌ香”でございます」
彼女の声に、観客が拍手を送る。
その一角に、帽子のつばを深く下ろしたクラリッサが立っていた。
「……香りを“復活”させた、ですって?」
彼女の低い声に、場の空気がわずかに張りつめる。
セシリアがゆっくりと振り向く。
「まあ。お久しぶりですわね、クラリッサ様――いえ、“元”公爵令嬢でしたかしら?」
「お見事。言葉の刃だけは錆びついておりませんのね」
周囲の視線が一斉に二人に注がれる。
セシリアは侮蔑を隠さずに微笑んだ。
「あなたが消えたあと、王都はようやく清らかになったの。
でも――まだ泥の香りが残っているのね」
クラリッサは笑った。
「泥? ええ、辺境の畑でたっぷりかぶりましたわ。
でも、ご存じかしら? 泥は“育つための証”ですのよ。
……あなたの香りには、その証がありませんわね」
場の空気が一気にざわめく。
セシリアの頬がわずかに引きつる。
「それは、挑発のつもり?」
「いいえ、教育ですわ」
クラリッサは扇子を閉じ、懐から一輪の小瓶を取り出した。
「本物の“ヴァレンティーヌ・ブレンド”は、こちら」
コルクを外した瞬間、空気が変わった。
甘く、清らかで、それでいて土の匂いを帯びた香り――。
“初恋草”の香り。
人々が息を呑む。
「……これが、本物の香り……?」
「王都のものとは全然違う……!」
クラリッサはゆっくりと微笑み、言葉を重ねた。
「この香りには、泥の跡がありますの。
誰かが働き、誰かが支え、誰かが笑ってくれた――その証。
あなたの“再現品”には、それが欠けておりますのよ」
セシリアの瞳に怒りが宿る。
「辺境で拾った雑草ごときで、王都に逆らうつもり?」
「雑草ですって? 違いますわ、“希望草”ですの」
クラリッサの声は凛としていた。
「どんなに踏まれても、香りを失わない。
それが――わたくしたち辺境の令嬢の誇りですの」
沈黙の中で、誰かが拍手をした。
最初は一人、次に二人、そして会場中が拍手に包まれた。
クラリッサは一歩前に出て、最後の一言を放つ。
「泥は恥ではありません。
真珠もまた、貝の中の“傷”から生まれるのですわ」
セシリアは何も言えなかった。
その頬に浮かんだ薄笑いが、次第に固まっていく。
レオンが彼女の背後から静かに立ち、囁いた。
「“泥と真珠”、か……お前らしい比喩だ」
「当然ですわ。――わたくし、図太くて優雅な女ですもの」
会場の光が反射し、扇子の銀の縁が輝いた。
その瞬間、“辺境の公爵令嬢クラリッサ・ヴァレンティーヌ”は、
再び王都の舞台に立った。
馬車の車輪がぬかるみを跳ね、木の香りと土の匂いが混ざる。
クラリッサは窓から外を見つめ、薄い唇を引き結んでいた。
「……懐かしい匂い、ですわね」
「王都の空気か?」と、向かいの席からレオンが問う。
「ええ。でも、あの頃とは違いますの。
もう、紅茶の香りよりも――畑の土の匂いのほうが落ち着きますのよ」
「それは……悪くない変化だ」
クラリッサは小さく笑った。
辺境での生活が、彼女の“誇り”を変えたのだ。
かつて彼女にとって誇りとは“美しく見せること”だった。
だが今は違う。“生き抜くこと”こそが誇り。
そして、“人を支える強さ”こそが、真の貴族の品格だと知った。
「王都に戻ったら、まずどこへ?」
「宗教院の旧館ですわ。封印されたままの“香りの台帳”を見たいのです」
「“鏡花の香”の記録か」
「ええ。――あの罪の香りを、今度こそ“希望”に変えますの」
レオンはその横顔を見つめ、ほんの一瞬、息をのんだ。
彼女の瞳は、もうかつての“断罪された令嬢”のそれではなかった。
どんな王も神も、彼女を跪かせることはできない。
それが、辺境で鍛えられた令嬢――クラリッサ・ヴァレンティーヌの今の顔だった。
街道の先には、馬を引く青年たちの姿が見えた。
その中の一人が駆け寄り、慌てた声を上げる。
「クラリッサ様! 村が――!」
「落ち着いて。どうしましたの?」
「村が、王都商会の傭兵団に包囲されました! “特産品の独占権”を奪うために!」
クラリッサは目を見開く。
「……初恋草ブレンドを、狙って……?」
青年はうなずく。
「“ヴァレンティーヌブランド”を名乗る偽物商会が、
王都で流行を作ってるそうです!」
クラリッサの指先がピクリと動いた。
「……王都は、まだ“奪うこと”しか知らないのね」
レオンが静かに立ち上がる。
「戻るか」
「ええ、もちろん。――“扇子を畑で振るう”日々は終わりましたの。
今度は、“農具を社交界で振るう”番ですわ」
クラリッサは窓の外に手を伸ばし、初恋草の花を一輪摘んだ。
「誇りを奪う者には、香りで返して差し上げますの」
馬車が再び動き出す。
王都と辺境――二つの世界をつなぐその道を、
“農具と扇子を携えた令嬢”がゆっくりと進んでいく。
王都の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
香水と香油の濃い香りが漂い、
人々の視線がクラリッサをすれ違いざまに刺す。
――二年前、断罪された公爵令嬢。
――いまや“辺境の変人”。
そんな噂がすでに都じゅうを駆け巡っていることを、
クラリッサは知っていた。
「懐かしいわね、レオン」
「懐かしむような場所か?」
「ええ。過去は、使いようですもの」
彼女は涼しげに扇子を開く。
かつての彼女のような金糸のドレスではなく、
今のクラリッサは、淡い灰色の麻布のドレスに身を包んでいた。
裾には、旅の泥が残る。
しかしその姿は、どの貴族夫人よりもまっすぐで美しかった。
その日、王都中央商館では盛大な試飲会が開かれていた。
テーマは「新たなる香りの時代」。
王都商会が誇る“ヴァレンティーヌ・ブレンド”の披露会だ。
――もちろん、それは偽物。
主催者のバートラム商会令嬢、セシリアが微笑む。
「皆様、本日はようこそ。こちらが“復活のヴァレンティーヌ香”でございます」
彼女の声に、観客が拍手を送る。
その一角に、帽子のつばを深く下ろしたクラリッサが立っていた。
「……香りを“復活”させた、ですって?」
彼女の低い声に、場の空気がわずかに張りつめる。
セシリアがゆっくりと振り向く。
「まあ。お久しぶりですわね、クラリッサ様――いえ、“元”公爵令嬢でしたかしら?」
「お見事。言葉の刃だけは錆びついておりませんのね」
周囲の視線が一斉に二人に注がれる。
セシリアは侮蔑を隠さずに微笑んだ。
「あなたが消えたあと、王都はようやく清らかになったの。
でも――まだ泥の香りが残っているのね」
クラリッサは笑った。
「泥? ええ、辺境の畑でたっぷりかぶりましたわ。
でも、ご存じかしら? 泥は“育つための証”ですのよ。
……あなたの香りには、その証がありませんわね」
場の空気が一気にざわめく。
セシリアの頬がわずかに引きつる。
「それは、挑発のつもり?」
「いいえ、教育ですわ」
クラリッサは扇子を閉じ、懐から一輪の小瓶を取り出した。
「本物の“ヴァレンティーヌ・ブレンド”は、こちら」
コルクを外した瞬間、空気が変わった。
甘く、清らかで、それでいて土の匂いを帯びた香り――。
“初恋草”の香り。
人々が息を呑む。
「……これが、本物の香り……?」
「王都のものとは全然違う……!」
クラリッサはゆっくりと微笑み、言葉を重ねた。
「この香りには、泥の跡がありますの。
誰かが働き、誰かが支え、誰かが笑ってくれた――その証。
あなたの“再現品”には、それが欠けておりますのよ」
セシリアの瞳に怒りが宿る。
「辺境で拾った雑草ごときで、王都に逆らうつもり?」
「雑草ですって? 違いますわ、“希望草”ですの」
クラリッサの声は凛としていた。
「どんなに踏まれても、香りを失わない。
それが――わたくしたち辺境の令嬢の誇りですの」
沈黙の中で、誰かが拍手をした。
最初は一人、次に二人、そして会場中が拍手に包まれた。
クラリッサは一歩前に出て、最後の一言を放つ。
「泥は恥ではありません。
真珠もまた、貝の中の“傷”から生まれるのですわ」
セシリアは何も言えなかった。
その頬に浮かんだ薄笑いが、次第に固まっていく。
レオンが彼女の背後から静かに立ち、囁いた。
「“泥と真珠”、か……お前らしい比喩だ」
「当然ですわ。――わたくし、図太くて優雅な女ですもの」
会場の光が反射し、扇子の銀の縁が輝いた。
その瞬間、“辺境の公爵令嬢クラリッサ・ヴァレンティーヌ”は、
再び王都の舞台に立った。
1
あなたにおすすめの小説
断罪の準備は完璧です!国外追放が楽しみすぎてボロが出る
黒猫かの
恋愛
「ミモリ・フォン・ラングレイ! 貴様との婚約を破棄し、国外追放に処す!」
パルマ王国の卒業パーティー。第一王子アリオスから突きつけられた非情な断罪に、公爵令嬢ミモリは……内心でガッツポーズを決めていた。
(ついにきたわ! これで堅苦しい王妃教育も、無能な婚約者の世話も、全部おさらばですわ!)
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
【完結】神から貰ったスキルが強すぎなので、異世界で楽しく生活します!
桜もふ
恋愛
神の『ある行動』のせいで死んだらしい。私の人生を奪った神様に便利なスキルを貰い、転生した異世界で使えるチートの魔法が強すぎて楽しくて便利なの。でもね、ここは異世界。地球のように安全で自由な世界ではない、魔物やモンスターが襲って来る危険な世界……。
「生きたければ魔物やモンスターを倒せ!!」倒さなければ自分が死ぬ世界だからだ。
異世界で過ごす中で仲間ができ、時には可愛がられながら魔物を倒し、食料確保をし、この世界での生活を楽しく生き抜いて行こうと思います。
初めはファンタジー要素が多いが、中盤あたりから恋愛に入ります!!
若い頃に婚約破棄されたけど、不惑の年になってようやく幸せになれそうです。
長岡更紗
恋愛
侯爵令嬢だったユリアーナは、第一王子のディートフリートと十歳で婚約した。
仲睦まじく過ごしていたある日、父親の死をきっかけにどん底まで落ちたユリアーナは婚約破棄されてしまう。
愛し合う二人は、離れ離れとなってしまったのだった。
ディートフリートを待ち続けるユリアーナ。
ユリアーナを迎えに行こうと奮闘するディートフリート。
二人に巻き込まれてしまった、男装の王弟。
時に笑い、時に泣き、諦めそうになり、奮闘し……
全ては、愛する人と幸せになるために。
他サイトと重複投稿しています。
全面改稿して投稿中です。
お人好しの悪役令嬢は悪役になりきれない
あーもんど
恋愛
ある日、悪役令嬢に憑依してしまった主人公。
困惑するものの、わりとすんなり状況を受け入れ、『必ず幸せになる!』と決意。
さあ、第二の人生の幕開けよ!────と意気込むものの、人生そう上手くいかず……
────えっ?悪役令嬢って、家族と不仲だったの?
────ヒロインに『悪役になりきれ』って言われたけど、どうすれば……?
などと悩みながらも、真っ向から人と向き合い、自分なりの道を模索していく。
そんな主人公に惹かれたのか、皆だんだん優しくなっていき……?
ついには、主人公を溺愛するように!
────これは孤独だった悪役令嬢が家族に、攻略対象者に、ヒロインに愛されまくるお語。
◆小説家になろう様にて、先行公開中◆
ワンチャンあるかな、って転生先で推しにアタックしてるのがこちらの令嬢です
山口三
恋愛
恋愛ゲームの世界に転生した主人公。中世異世界のアカデミーを中心に繰り広げられるゲームだが、大好きな推しを目の前にして、ついつい欲が出てしまう。「私が転生したキャラは主人公じゃなくて、たたのモブ悪役。どうせ攻略対象の相手にはフラれて婚約破棄されるんだから・・・」
ひょんな事からクラスメイトのアロイスと協力して、主人公は推し様と、アロイスはゲームの主人公である聖女様との相思相愛を目指すが・・・。
処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜
放浪人
恋愛
「処刑されるなんて真っ平ごめんです!」 無実の罪で投獄された悪役令嬢レティシア(中身は元社畜のアラサー日本人)は、処刑前夜、お腹の子供と共に脱獄し、辺境の田舎村へ逃亡した。 それから五年。薬師として穏やかに暮らしていた彼女のもとに、かつて自分を冷遇し、処刑を命じた夫――「氷の公爵」アレクセイが現れる。 殺される!と震えるレティシアだったが、再会した彼は地面に頭を擦り付け、まさかの溺愛キャラに豹変していて!?
「愛しているレティシア! 二度と離さない!」 「(顔が怖いです公爵様……!)」
不器用すぎて顔が怖い旦那様の暴走する溺愛。 そして、二人の息子であるシオン(1歳)は、実は前世で魔王を倒した「英雄」の生まれ変わりだった! 「パパとママは僕が守る(物理)」 最強の赤ちゃんが裏で暗躍し、聖女(自称)の陰謀も、帝国の侵略も、古代兵器も、ガラガラ一振りで粉砕していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる