覇王に執着される傾国の男装騎士〜忘却の接吻を、愛しき宿敵へ〜

甘塩ます☆

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「陛下、国王陛下!」

 肩を揺さぶられ、カイルは目を開けた。
 何か長い夢を見ていた気がする。それはとても幸せな夢だったはずなのに、どうしても正体が思い出せない。ひどく頭が重かった。

「……なんだ、騒々しい」

 自分を揺り起こしたのは側近の男だ。
 そこは自分の部屋で、自分のベッドの上。何もおかしなところはないはずなのに、決定的な何かが足りない。それは恐ろしいほどに重要なもので、胸に穴が空いたような、ひどく虚しい感覚が全身を支配していた。

「……アーサー殿はどうされましたか?」

「アーサー……?」

 聞き覚えのない名前に、カイルは首をかしげる。名前の響きから察するに男だろうが、心当たりがまったくない。

「誰だ、それは……」

 側近は驚愕に目を見開いたが、ふとベッドの傍らに転がっている小瓶に気づき、すべてを察した。
 それは貴重な『忘却薬』。
 王が溺愛していた「彼」に与えたものだろう。おおかた、王の執着に耐えかねたアーサー殿が、この薬を用いて王から自分の記憶を消し去り、逃げ出したのだ――そう考えるのが妥当だった。
 先日のエレーヌ嬢との騒動を見ても、アーサー殿は王にとって正に「傾国」の存在であった。側近は、王が彼を忘れたことに内心で安堵する。彼は王が小瓶を見つける前に、そっと拾い上げてポケットへと隠した。

「エレーヌ嬢が朝食を共にしたいとお見えですよ」

「ああ……」

 そういえば、自分はエレーヌ嬢と婚約していたのだったか。
 なぜあんな女を選んだのか、カイルはどうしても思い出せなかった。面倒になり、一番条件の良い女を適当に選んだだけだっただろうか。
 どうも、所々の記憶が抜け落ちている気がする。最近、疲れが溜まっていたのだろうか。

「分かった。……なんだか、首が痛いな」

「寝違えたのでしょう。冷やしましょうか」

 首筋に手を当てる。そこには、アーサーが放った鋭い手刀の痕がくっきりと残っていたが、側近はあえてそれを無視し、淡々と主君の身支度を整えていった。
 鏡に向かい正装を整えながらも、カイルは鏡に映る自分の顔が、ひどく見知らぬ他人のように思えてならなかった。
 側近に言われるがまま冷たいタオルで首筋を冷やす。打たれたような痣の痛みすら、どこか遠い世界の出来事のようだ。

「……なぁ。俺は、何か大事な事を忘れていないか?」

「いえ、陛下。お疲れが溜まっているのでしょう。今日は公爵家との大切な会食がございます。お気を確かに」

 淀みのない答えに、カイルは「そうか」と短く応じた。
 だが、歩き出すたびに、視線の端で無意識に「誰か」の姿を探してしまう。背後に控えるどの近衛騎士よりも、しなやかで、凛としていて、それでいて危ういほどに美しい――そんな「誰か」が、かつてはそこに居たような気がしてならなかった。
 朝食のテーブルでは、エレーヌが昨夜の怒りなど微塵も見せず、愛らしい微笑を湛えて座っていた。

「カイル様、昨夜はあんなに不機嫌でしたのに、今朝はとても穏やかなお顔ですわ。ようやく、つまらない『遊び』を終える決心がつきましたのね」

「遊び……? 何のことだ、エレーヌ」

 カイルは無表情にパンを千切り、口に運ぶ。何の味もしなかった。
 エレーヌは一瞬きょとんとしたが、すぐにカイルの瞳に宿る「虚無」の正体を察した。彼女もまた、狡猾で賢い女だった。

「いいえ、忘れてくださいまし。……それより結婚式の時期ですが、魔法銀の鉱山を持参金として捧げると父が申しておりますわ」

「ああ、それはいい条件だ。国益に適う」

 カイルの返答は、極めて事務的で理性的だった。
 それはかつて彼が理想とした「感情に左右されない完璧な王」そのものの姿だ。それなのに、条件が良ければ良いほど、心の穴から冷たい風が吹き抜けていく。

(何故だ。思い通りのはずなのに、何故、これほどまでに虚しい……?)

 ふと、テーブルの隅に置かれた磨き布が目に止まった。
 それは数日前、市場で買ったばかりの、古びた鹿革の布だ。宝石付きの短剣や高価な魔法具を買い漁った記憶はあるが、自分はそんなものを必要としていないはずだ。特に、こんな薄汚れた布など。

「……エレーヌ。数日前、俺は誰と市場に行った?」

 エレーヌの顔から、一瞬だけ色が失せた。彼女は銀の匙をカチリと鳴らして置き、冷ややかな声で告げた。

「お一人でしたわ。護衛も付けずに出歩くなんて危ないと、私があれほど注意したではありませんか」

 ホホホ、と淑やかに笑うエレーヌ。

「そんな汚らしい布、すぐに捨てさせてしまいますわね」

 彼女が手を伸ばした瞬間、カイルは無意識に、奪い取るような速さでその布を掴み、胸元へ隠した。

「……いや。これは、捨てなくていい。何故か、これは俺に必要なものだ。……そんな気がするんだ」

 握りしめた鹿革から、微かに、本当に微かに、カモミールと鉄の香りがした気がした。
 カイルの瞳に、ほんの一筋だけ、痛みを伴うような光が戻る。




 その頃、城から数マイル離れた国境付近。
 アーサーは一人、夜明けの森を駆けていた。時折、止まりそうになる足を叩き、震える唇を噛み締める。

(私は……何から逃げているのだったか)

 よく分からない。それでも、逃げなければならないことだけは確信していた。
 
 薬の代償――彼女が捧げた「最も大切な記憶」。
 それは、愛した男の面影、その名前、共に過ごした熱い夜のすべて。
 彼女の心から、カイルという存在そのものが、塵一つ残さず消え去っていた。
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