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何年経っても、カイルの心に纏わりつく違和感は拭えなかった。
たとえば、自室の傍に設えられた、主のいない女性用の部屋。自分はそんなものを用意させた記憶はないが、元妃のエレーヌはそれを見つけ、「私のために、こんな素敵な部屋を用意してくれたのね」と歓喜した。だが、カイルはどうしても彼女をそこに住まわせる気になれず、別の離宮をあてがった。
その不思議な部屋には、かつて自分が街で誰かに買い与えたはずの魔法具や調度品、細身の剣、そして豪奢な衣類が並んでいた。ただ一つ、買った記憶がある「忘却薬」だけが、棚から消えていた。
自分が誰かにその薬を飲まされたのは明白だった。
忘却薬によって奪われた記憶を取り戻すには、対象と同じ体験を繰り返すしかない。
共に出かけた場所へ行き、共に過ごした時間をなぞれば、断片的な記憶が蘇るはずだ。だが、カイルの脳裏には、肝心の「相手」の顔が霞がかって映らない。
自分から記憶を奪い、去っていった者。
忘れさせられるほど、自分は彼に、あるいは彼女に嫌われていたのだろうか。それとも、そうするしかないほど、自分の想いが重すぎたのか。
(誰なんだ……お前は……)
カイルは手にした鹿革の端切れを、指が白くなるほど握りしめることしかできなかった。
政略結婚だったエレーヌとの仲は、悲惨なものだった。
王としての責務を果たそうと、幾度も彼女の寝室を訪れた。だが、彼女を抱こうとしても、どうしても身体が拒絶反応を起こす。彼女を求めて指を伸ばせば、記憶にない「誰か」の面影が、呪いのようにカイルの情欲を凍りつかせた。
そんな空虚な夜が三年も続けば、関係が破綻するのは自明の理だった。
離縁を切り出したのは彼女からで、カイルはそれを淡々と受け入れた。
その後、エレーヌはすぐに王弟と結ばれ、わずか半年で懐妊した。その事実は瞬く間に国中に広まり、今や国民は「国王陛下は男色か種無しだ」と容赦ない噂を囁いている。
エレーヌ自身も、「陛下はベッドではマグロ同然」「性行為が驚くほど下手だ」とあらぬ悪評を振りまいている始末だ。
このままでは、王弟に政権を奪われる可能性すらあった。エレーヌが男児を産めば、世論は次期国王として王弟を支持するだろう。
「陛下、一刻も早く次のお妃選びを始めなくてはなりません!」
執務室で急かしてくる側近たちの声に、カイルは深く椅子に背を預けた。
胸にぽっかりと開いた穴は、何をもってしても埋まらない。もはや、何のためにこれほど死に物狂いで国を強くしてきたのか、その目標も、志も、何もかもが見えなくなっていた。
「……もういい。政権など、王弟に譲ってしまっても構わん」
カイルの瞳には生気がなく、声は疲れ切っていた。積み上げてきたすべてを手放してしまいたいという、破滅的な願望。
「陛下、そのようなことを……!」
側近たちは、あまりにも痛々しい主君の姿に言葉を失った。
彼らは知っていた。この若き王をここまで狂わせ、そして今、廃人にまで追い込もうとしているのは、あの日姿を消した「一人の騎士」であることを。
側近たちの水面下での動きは加速していた。
アーサーを捜し出し、再び王の前に引き合わせる。それ以外に、カイルの魂を呼び戻す方法はないと確信していたからだ。
だが、あの日すべてを捨てて消えたアーサーの足取りは、いまだ世界のどこにも捕らえられてはいなかった。
月も出ぬ朔の夜、カイルはとうとう、窮屈で鬱陶しい城に耐えかねて飛び出した。
夜会で香水のきつい女たちを相手に愛想を振りまく虚無感。王弟とその妃から向けられる冷ややかな蔑みと、見せつけられる惚気話。そして、かつては名君と称えられた自分が、今や「種無し」どころか「能無しの暴君」だと民に噂されている現実。
国を強くするために積み上げてきた功績も、民を思って断行した政策も、世継ぎがいないという一点だけで、すべて無価値であったかのように否定される。
カイルの心は、もはや修復不可能なほどに病んでいた。
何もかもどうにでもなればいい——。
投げやりな気持ちで愛馬に跨り、手にしたのは、持ち主すら思い出せないボロボロの鹿革の布だけ。
行く先など考えていなかった。ただ、馬が走りたいように走らせるまま、夜の闇へと消えていった。
朝方、馬に水を飲ませようと清冽な湖へと近づいた時のことだ。
立ち込める朝靄の向こうに、先客の姿があった。一人の女が、水辺で洗濯をしていた。
「……この近くに、村があるのか?」
何気なく声をかけた。
女が手を止め、ゆっくりとこちらを振り向く。
「おはようございます。旅の方ですか? 私はすぐ側のマリー村の住人です。村へ寄っていかれますか?」
「あ、ああ……」
カイルは言葉を失った。
朝陽を背負い、露に濡れて佇むその女は、天女かと思うほどに美しかった。
女を見て胸が高鳴るなど、いつ以来だろうか。いや、こんな衝動は生まれて初めてだ。不思議と、ずっと探していた「何か」が、目の前に現れたような充足感に襲われる。
「……名前は、何という?」
「アリスです」
「アリス……」
不思議だ。凛々しく、どこか気高さを感じさせる彼女の佇まいには、その可愛らしい名は少し似合わない気がした。だが、その響きが、氷のように固まっていたカイルの心をかすかに揺らした。
「ママー!」
不意に高い声が響き、小さな男の子が彼女の服の裾を掴んだ。
「アーサー! どこに行っていたの? 側を離れては駄目だと言ったでしょう」
「……ごめんなさい」
アーサーと呼ばれたその子は、叱られてしゅんとしていた。好奇心旺盛なのだろう。だが、カイルはその「アーサー」という響きを耳にした瞬間、胸の奥を鋭い杭で打たれたような衝撃を覚えた。
聞き覚えがある。いや、耳に馴染んでいるどころか、魂に刻まれている名だ。
「では、旅の方。村まで案内しますね」
「ありがとう。俺は、カイルだ。……洗濯物を持とう」
「カイル様、お気遣いなく。私、こう見えて力持ちなんです」
フフ、と悪戯っぽく微笑んで、アリスは重い洗濯籠を軽々と抱え、さらにもう片方の手で息子をひょいと抱き上げた。
「ママー、離してよ!」
「離したら、またどこかへ行ってしまうでしょ!」
親子睦まじい言い合いをしながら、前を歩くアリス。
その後ろ姿を追いかけながら、カイルは激しい混乱と、それ以上に抗いようのない愛惜に包まれていた。
記憶は奪われても、カイルの「男」としての本能が、そして「王」としての直感が告げていた。
この女こそが、俺がすべてを捨ててでも手に入れるべき、たった一人の「世界」なのだと。
たとえば、自室の傍に設えられた、主のいない女性用の部屋。自分はそんなものを用意させた記憶はないが、元妃のエレーヌはそれを見つけ、「私のために、こんな素敵な部屋を用意してくれたのね」と歓喜した。だが、カイルはどうしても彼女をそこに住まわせる気になれず、別の離宮をあてがった。
その不思議な部屋には、かつて自分が街で誰かに買い与えたはずの魔法具や調度品、細身の剣、そして豪奢な衣類が並んでいた。ただ一つ、買った記憶がある「忘却薬」だけが、棚から消えていた。
自分が誰かにその薬を飲まされたのは明白だった。
忘却薬によって奪われた記憶を取り戻すには、対象と同じ体験を繰り返すしかない。
共に出かけた場所へ行き、共に過ごした時間をなぞれば、断片的な記憶が蘇るはずだ。だが、カイルの脳裏には、肝心の「相手」の顔が霞がかって映らない。
自分から記憶を奪い、去っていった者。
忘れさせられるほど、自分は彼に、あるいは彼女に嫌われていたのだろうか。それとも、そうするしかないほど、自分の想いが重すぎたのか。
(誰なんだ……お前は……)
カイルは手にした鹿革の端切れを、指が白くなるほど握りしめることしかできなかった。
政略結婚だったエレーヌとの仲は、悲惨なものだった。
王としての責務を果たそうと、幾度も彼女の寝室を訪れた。だが、彼女を抱こうとしても、どうしても身体が拒絶反応を起こす。彼女を求めて指を伸ばせば、記憶にない「誰か」の面影が、呪いのようにカイルの情欲を凍りつかせた。
そんな空虚な夜が三年も続けば、関係が破綻するのは自明の理だった。
離縁を切り出したのは彼女からで、カイルはそれを淡々と受け入れた。
その後、エレーヌはすぐに王弟と結ばれ、わずか半年で懐妊した。その事実は瞬く間に国中に広まり、今や国民は「国王陛下は男色か種無しだ」と容赦ない噂を囁いている。
エレーヌ自身も、「陛下はベッドではマグロ同然」「性行為が驚くほど下手だ」とあらぬ悪評を振りまいている始末だ。
このままでは、王弟に政権を奪われる可能性すらあった。エレーヌが男児を産めば、世論は次期国王として王弟を支持するだろう。
「陛下、一刻も早く次のお妃選びを始めなくてはなりません!」
執務室で急かしてくる側近たちの声に、カイルは深く椅子に背を預けた。
胸にぽっかりと開いた穴は、何をもってしても埋まらない。もはや、何のためにこれほど死に物狂いで国を強くしてきたのか、その目標も、志も、何もかもが見えなくなっていた。
「……もういい。政権など、王弟に譲ってしまっても構わん」
カイルの瞳には生気がなく、声は疲れ切っていた。積み上げてきたすべてを手放してしまいたいという、破滅的な願望。
「陛下、そのようなことを……!」
側近たちは、あまりにも痛々しい主君の姿に言葉を失った。
彼らは知っていた。この若き王をここまで狂わせ、そして今、廃人にまで追い込もうとしているのは、あの日姿を消した「一人の騎士」であることを。
側近たちの水面下での動きは加速していた。
アーサーを捜し出し、再び王の前に引き合わせる。それ以外に、カイルの魂を呼び戻す方法はないと確信していたからだ。
だが、あの日すべてを捨てて消えたアーサーの足取りは、いまだ世界のどこにも捕らえられてはいなかった。
月も出ぬ朔の夜、カイルはとうとう、窮屈で鬱陶しい城に耐えかねて飛び出した。
夜会で香水のきつい女たちを相手に愛想を振りまく虚無感。王弟とその妃から向けられる冷ややかな蔑みと、見せつけられる惚気話。そして、かつては名君と称えられた自分が、今や「種無し」どころか「能無しの暴君」だと民に噂されている現実。
国を強くするために積み上げてきた功績も、民を思って断行した政策も、世継ぎがいないという一点だけで、すべて無価値であったかのように否定される。
カイルの心は、もはや修復不可能なほどに病んでいた。
何もかもどうにでもなればいい——。
投げやりな気持ちで愛馬に跨り、手にしたのは、持ち主すら思い出せないボロボロの鹿革の布だけ。
行く先など考えていなかった。ただ、馬が走りたいように走らせるまま、夜の闇へと消えていった。
朝方、馬に水を飲ませようと清冽な湖へと近づいた時のことだ。
立ち込める朝靄の向こうに、先客の姿があった。一人の女が、水辺で洗濯をしていた。
「……この近くに、村があるのか?」
何気なく声をかけた。
女が手を止め、ゆっくりとこちらを振り向く。
「おはようございます。旅の方ですか? 私はすぐ側のマリー村の住人です。村へ寄っていかれますか?」
「あ、ああ……」
カイルは言葉を失った。
朝陽を背負い、露に濡れて佇むその女は、天女かと思うほどに美しかった。
女を見て胸が高鳴るなど、いつ以来だろうか。いや、こんな衝動は生まれて初めてだ。不思議と、ずっと探していた「何か」が、目の前に現れたような充足感に襲われる。
「……名前は、何という?」
「アリスです」
「アリス……」
不思議だ。凛々しく、どこか気高さを感じさせる彼女の佇まいには、その可愛らしい名は少し似合わない気がした。だが、その響きが、氷のように固まっていたカイルの心をかすかに揺らした。
「ママー!」
不意に高い声が響き、小さな男の子が彼女の服の裾を掴んだ。
「アーサー! どこに行っていたの? 側を離れては駄目だと言ったでしょう」
「……ごめんなさい」
アーサーと呼ばれたその子は、叱られてしゅんとしていた。好奇心旺盛なのだろう。だが、カイルはその「アーサー」という響きを耳にした瞬間、胸の奥を鋭い杭で打たれたような衝撃を覚えた。
聞き覚えがある。いや、耳に馴染んでいるどころか、魂に刻まれている名だ。
「では、旅の方。村まで案内しますね」
「ありがとう。俺は、カイルだ。……洗濯物を持とう」
「カイル様、お気遣いなく。私、こう見えて力持ちなんです」
フフ、と悪戯っぽく微笑んで、アリスは重い洗濯籠を軽々と抱え、さらにもう片方の手で息子をひょいと抱き上げた。
「ママー、離してよ!」
「離したら、またどこかへ行ってしまうでしょ!」
親子睦まじい言い合いをしながら、前を歩くアリス。
その後ろ姿を追いかけながら、カイルは激しい混乱と、それ以上に抗いようのない愛惜に包まれていた。
記憶は奪われても、カイルの「男」としての本能が、そして「王」としての直感が告げていた。
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