覇王に執着される傾国の男装騎士〜忘却の接吻を、愛しき宿敵へ〜

甘塩ます☆

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「お待たせしました」

 アリスがカイルに、丁寧に包んだ胡桃パンを手渡す。
 覇王としてがむしゃらに、血生臭い世界を生きてきた中で、これほど穏やかな光に包まれたことがあっただろうか。

「ああ。……俺は、村長の家の離れで世話になることになった」

「それは良かったです。ここは訳ありの流れ者がよく辿り着く場所ですから。村長は面倒見が良い方で、私も随分とお世話になったんですよ」 

「……ということは、アリスも『訳あり』なのか?」

「ええ。でもカイ様、ここでは互いの過去を詮索しないのがルールです。お気をつけくださいね」

 アリスは柔らかな笑みを浮かべていたが、その言葉には確かな牽制が込められていた。どこか強かで、一筋縄ではいかない空気。このヒリつくようなやり取りが、カイルにはどうしようもなく懐かしく感じられた。
 彼女は艶やかな黒髪をポニーテールにまとめている。だが、カイルの脳裏には、なぜかこれほどまでに凛々しく、鋭い眼差しを持った「短髪の誰か」の残像が重なって離れない。

「……そうだな。お互い探られて困る腹か。胡桃パン、有り難くいただくよ」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 アリスが深々と頭を下げ、足元では小さなアーサーが元気いっぱいに手を振っている。和やかな心地になり、カイルが二人に手を振り返そうとした、その時だった。カランカランと、勢いよく店の扉が開いた。

「おい、今日のお使い分だ。胡桃にナツメグ、それから……」
「ちょっと、裏から入ってよ!」

「呼んでも出てこないからだろ」
「出てこないなら接客中だって分かるでしょ!」

 入ってきたのは、土の匂いのする逞しい農家の男だった。二人のやり取りからは、気心の知れた親密さが滲み出ている。ふと、アーサーの髪の色が目に入った。柔らかな茶色。そして、その男の髪もまた、同じ茶色だった。

(……こいつの、子供なのか)

 その瞬間、カイルの胸に冷たい石を詰め込まれたような重い落胆が広がった。

「ごめんなさい、お騒がせしてしまって」

 申し訳なさそうに笑うアリスに、カイルは乾いた声で返した。

「いや……俺はもう行く。また、来る」

 逃げるように店を後にしながら、カイルは自分を自嘲した。他人の妻、そして母である女性を相手に、何を未練がましく浮足立っていたのか。
 よく考えれば分かるはずだった。忘却薬まで使って自分から逃げ出した相手が、あんなににこやかに話しかけ、親切に村まで連れてきてくれるはずがない。薬は万能ではないのだ。何かの拍子に記憶が戻る危険を冒してまで、自分の傍に居続けるはずがない。
 俺から記憶を奪ったのなら、よほど俺を嫌っていたはずだ。ならば、アリスは「あの誰か」ではない。ただ、俺の好みの顔立ちをしていただけの、無関係な女。

(……そもそも、あの誰かは男だったのか女だったのか、それすら俺は……)

 カイルは夕暮れの道を一人歩き、握りしめたパンの温もりに、なぜか泣き出したいような孤独を感じていた。



 その夜、村は激しい雨に見舞われた。
 離れで一人、鹿革の布を眺めていたカイルのもとに、ずぶ濡れのアリスが駆け込んできた。

「カイ様! 申し訳ありません、アーサーが……アーサーが熱を出してしまって。村のお医者様が往診に出ていて戻らないんです!」

 昼間の男はどうした、と言いかけてカイルは言葉を飲み込む。彼女の必死な形相は、なりふり構わぬ母親そのものだった。カイルは隠し持っていた「宝石の短剣」を手に取る。

「俺が診よう。少しなら、治癒の魔術が使える」



 アリスの家へ向かうと、そこには昼間の農家の男の姿はなかった。
 寝台で苦しそうに呼吸する子供を、カイルは自身の魔力で包み込む。すると、アーサーから苦痛の表情は消え、熱もすぐに引いていった。
 カイルが確かめるように額へ手を置くと、目を開けたアーサーは「パパ……」と呟いて笑顔を見せ、そのまま穏やかな寝顔で眠りについた。

「パパが恋しいようだな」

 カイルは場を和ませようと苦笑する。アーサーの熱は下がったが、困ったことにカイルの手をぎゅっと掴んで離さない。振り払うのも忍びなく、そのまま座り込むしかなかった。

「カイ様、本当にありがとうございました」

 アリスはカイルの空いている方の手を両手で包み込み、感謝を述べる。

「……ところで、アリスはなぜ、俺に助けを? 治癒術が使えるとは言っていないはずだが」

 あんな雨の中、確信を持って駆け込んできたように見えた。短剣の宝石が魔法具だと見抜いたのか、あるいは村長から何か聞いたのか。あるいは、俺の正体に気づいているのか。

「わかりません。なぜだか、カイ様なら助けてくれると……そう感じました。カイ様は不思議な方ですね。初めてお会いした気がしません」

「ああ、不思議だな。……俺もだ」

 見つめ合う二人の間に、雨音だけが響く。
 すると、アリスが夢遊病者のような虚ろな、それでいて熱を帯びた瞳でカイルを見つめた。

「……もしかして、アーサーの父親は貴方ですか?」

「えっ……」

 絶句するカイルの脳裏に、数々の矛盾が渦巻く。
 昼間の茶髪の男はどうした。アーサーは奴の子ではないのか。
 そして、なぜアリスは、今日会ったばかりの俺にそんな問いを投げるのか。

「……何を、言っているんだ。俺とお前は、今日会ったばかりだろう」

「そうです、わかっています。でも、アーサーは生まれた時から父親がいません。私は……三年前より前の記憶が一部抜け落ちているようで、霧に包まれたように曖昧なんです。覚えているのは、血の匂いと、誰かの怒号、そして、胸に残るほのかな熱でした」

 アリスはカイルの手をさらに強く握りしめた。

「カイ様の瞳を見た時、心臓が跳ね上がりました。身体が、あなたを知っていると叫んでいるみたいに。……カイ様も、何かを失っているのでしょう? あの、悲しそうな目……何を見ていたのですか?」

 カイルは言葉が出なかった。
 自分が忘れた「誰か」は、本当に目の前のこの女性なのか。
 そして、彼女もまた「忘却薬」の被害者なのか、あるいは——。
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