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町の片隅に、朝から芳しい胡桃パンの香りを漂わせる一軒の店がある。
店名は『アリスのパン屋』。店を切り盛りするのは、いつも穏やかな笑みを浮かべた美しい店主アリスだ。
「はい、お待たせしました。焼きたての胡桃パンよ。火傷しないようにね」
アリスが近所の子供にパンを渡すと、背後から不機嫌そうな低い声が響いた。
「アリス、またサービスしすぎじゃないか? 君のパンには、街一つ分以上の価値があると言ったはずだが」
エプロン姿で現れたのは、これまた街中の女性が振り返るほど見目麗しい男――カイだった。かつての覇王の面影はどこへやら、今の彼はアリスの店で「一番使い物にならない看板店員」として日々を過ごしている。
「カイ、またそんなことを。適正価格よりちょっと安いだけよ。子供にはオマケしたいじゃない」
「お前は働きすぎだ。働かなくても遊んで暮らせる金が有ると言うのに……お前は厨房で休んでいろ。……あと、そこのガキ。アリスの手をいつまでも握るな。不敬罪で……いや、営業妨害で訴えるぞ」
「カイ! 大人げないことを言わないの!」
アリスが叱りつけると、カイはしゅんとして黙り込む。
この光景は、もはやこの町の名物だった。どこからどう見ても高貴な出の美男子が、パン屋の女主人にベタ惚れし、執事のように付き従っているのだ。
そこへ、教本を抱えたアーサーが学童から帰ってきた。
「ただいま、ママと……パパ!」
アーサーは「パパ」と呼ぶのにまだ少し照れがあるようだが、呼ばれたカイの方は、目に見えて表情を蕩けさせている。
「おかえり、アーサー。今日の勉強はどうだった? 帝国の歴史か? それとも戦術論か?」
「算術だよ。あと、お友達とパンを分ける方法を習ったんだ」
「素晴らしい。やはり俺の息子は天才だ。アリス、今日の夕食はアーサーの好物にしよう。それと、君には俺が選んだ最高級の絹の寝衣を用意してある」
「……カイ。私、言ったわよね? 贅沢はアーサーの教育と、美味しい胡桃パンだけでいいって」
「これは必要経費だ。俺の眼福。夜の精神衛生を守るためのね」
アリスは大きな溜息をついた。
結局、銀行に預けられた膨大な私財のほとんどは、カイがアリスに貢ごうとしては断られ、代わりにアーサーへの過剰なまでの教育費や、アリスが使う「世界一高い小麦粉」の仕入れ値へと消えている。
ふと、アリスは店の窓から外を見た。
遠く離れたかつての思い出の地、今ごろ身勝手な王弟によって戦の火蓋が切られているかもしれない。だが、そこにはもう、カイルとアリスが守るべきものは何一つ残っていない。
(……ごめんね、リュー。村長。私はここで、私の大切なものだけを守って生きていくわ)
アリスの手には、騎士の剣ではなく、パンをこねるための温かい粉がついている。
「アリス? 何か心配事か? ……もしあの国が攻めてくるようなことがあれば、俺が私兵を雇って国ごと買い叩いてやるから安心しろ」
「物騒な冗談はやめて。……ねえ、カイ」
「何だ?」
「幸せね、今」
唐突な言葉に、カイは一瞬驚いたように瞬きをし、それからこの上なく優しくアリスを引き寄せた。
「ああ。……一生分どころか、来世の分まで幸せだ」
町の昼下がり。
世界で一番贅沢なパン屋には、今日も家族の笑い声と、香ばしいパンの匂いが満ち溢れている。
店名は『アリスのパン屋』。店を切り盛りするのは、いつも穏やかな笑みを浮かべた美しい店主アリスだ。
「はい、お待たせしました。焼きたての胡桃パンよ。火傷しないようにね」
アリスが近所の子供にパンを渡すと、背後から不機嫌そうな低い声が響いた。
「アリス、またサービスしすぎじゃないか? 君のパンには、街一つ分以上の価値があると言ったはずだが」
エプロン姿で現れたのは、これまた街中の女性が振り返るほど見目麗しい男――カイだった。かつての覇王の面影はどこへやら、今の彼はアリスの店で「一番使い物にならない看板店員」として日々を過ごしている。
「カイ、またそんなことを。適正価格よりちょっと安いだけよ。子供にはオマケしたいじゃない」
「お前は働きすぎだ。働かなくても遊んで暮らせる金が有ると言うのに……お前は厨房で休んでいろ。……あと、そこのガキ。アリスの手をいつまでも握るな。不敬罪で……いや、営業妨害で訴えるぞ」
「カイ! 大人げないことを言わないの!」
アリスが叱りつけると、カイはしゅんとして黙り込む。
この光景は、もはやこの町の名物だった。どこからどう見ても高貴な出の美男子が、パン屋の女主人にベタ惚れし、執事のように付き従っているのだ。
そこへ、教本を抱えたアーサーが学童から帰ってきた。
「ただいま、ママと……パパ!」
アーサーは「パパ」と呼ぶのにまだ少し照れがあるようだが、呼ばれたカイの方は、目に見えて表情を蕩けさせている。
「おかえり、アーサー。今日の勉強はどうだった? 帝国の歴史か? それとも戦術論か?」
「算術だよ。あと、お友達とパンを分ける方法を習ったんだ」
「素晴らしい。やはり俺の息子は天才だ。アリス、今日の夕食はアーサーの好物にしよう。それと、君には俺が選んだ最高級の絹の寝衣を用意してある」
「……カイ。私、言ったわよね? 贅沢はアーサーの教育と、美味しい胡桃パンだけでいいって」
「これは必要経費だ。俺の眼福。夜の精神衛生を守るためのね」
アリスは大きな溜息をついた。
結局、銀行に預けられた膨大な私財のほとんどは、カイがアリスに貢ごうとしては断られ、代わりにアーサーへの過剰なまでの教育費や、アリスが使う「世界一高い小麦粉」の仕入れ値へと消えている。
ふと、アリスは店の窓から外を見た。
遠く離れたかつての思い出の地、今ごろ身勝手な王弟によって戦の火蓋が切られているかもしれない。だが、そこにはもう、カイルとアリスが守るべきものは何一つ残っていない。
(……ごめんね、リュー。村長。私はここで、私の大切なものだけを守って生きていくわ)
アリスの手には、騎士の剣ではなく、パンをこねるための温かい粉がついている。
「アリス? 何か心配事か? ……もしあの国が攻めてくるようなことがあれば、俺が私兵を雇って国ごと買い叩いてやるから安心しろ」
「物騒な冗談はやめて。……ねえ、カイ」
「何だ?」
「幸せね、今」
唐突な言葉に、カイは一瞬驚いたように瞬きをし、それからこの上なく優しくアリスを引き寄せた。
「ああ。……一生分どころか、来世の分まで幸せだ」
町の昼下がり。
世界で一番贅沢なパン屋には、今日も家族の笑い声と、香ばしいパンの匂いが満ち溢れている。
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