覇王に執着される傾国の男装騎士〜忘却の接吻を、愛しき宿敵へ〜

甘塩ます☆

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 そうと決まれば、三人の支度は早かった。
 カイルの持ち物は馬だけで、アリスの持ち物もアーサーだけ。他の物は、置いていっても問題ないものばかりだ。『あとはよろしくね』と、アリスは無責任な置き手紙をリューに残し、二人は村長にだけ挨拶をした。
 
「そうですか。親子三人、お幸せになってくだされ」  

 村長はにこやかに送り出してくれる。

「この国は時期に戦になるでしょう。それも、負け戦に。村長や村人たちも、早く国を出た方がいい」

「いいえ、ここは困っている者の隠れ里。出るも入るも自由ですが、私はここに残ります」

 村長は既に心を決めているようだった。二人はアーサーを連れ、後ろ髪を引かれる思いをしながら、村を後にするのだった。



 村を出てから半日、ひたすら馬を走らせた三人が辿り着いたのは、国境近くの寂れた宿場町だった。
 選んだのは、名前も知らぬような安宿の一室。かつてのカイルであれば見向きもしなかったであろう、狭く、隙間風の吹く部屋だ。

「アーサー、疲れたでしょう。先に寝てしまいなさい」

 アリスが寝台を整えると、アーサーはこっくりと頷き、泥のように眠りについた。慣れない強行軍だったが、父と母が揃っているという安心感が、小さな体から緊張を奪ったらしい。
 部屋の隅、揺れるランプの火を見つめていたカイルが、ふと口を開いた。

「……すまないな、アリス。こんな、逃亡犯のような夜を過ごさせることになって」

 その声には、先ほどまでの余裕はなく、どこか心細さが混じっていた。アリスは首を振って、カイルの隣に腰を下ろした。

「何を今さら。あなたが用意した私財があるのでしょう? 飢え死にする心配がないだけ、三年前の私よりずっとマシです」

「それはそうだが……。俺は、お前に何もかも捨てさせてしまった。騎士の誇りも、ようやく手に入れた穏やかな村の暮らしも」

「捨てたんじゃありません、選んだんです。それに――」

 アリスは少しだけ躊躇(ためら)い、それからカイルの大きな手に自分の手を重ねた。

「誇りなら、今もここにあります。……私の主君は、もうあの国ではなく、あなたですから」

 カイルの息が止まった。
 彼は堪えきれなくなったようにアリスの手を強く握り返し、そのまま彼女の肩に額を預けた。

「……重いな。俺一人を主に選ぶなんて。責任重大だ」

「今になって怖気付きましたか? 『アリスの夫』が唯一の職業なんでしょう?」

 アリスがわざと揶揄うように笑うと、カイルは苦笑しながら顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「ああ、そうだった。……明日からは、ただのカイとして、お前とアーサーのために生きる。もう二度と、お前を一人きりにしない」

 重ねた指先から、互いの体温が伝わってくる。
 三年前の王宮では、すれ違いを重ねてしまった心の隙間が、この狭く汚い部屋で不思議と満たされていくのを感じていた。

「カイル……カイ。一つ、聞いていいですか」

「何だ?」

「隣国の銀行に預けてあるって……具体的にどれくらいあるんですか? 宝石とか、金貨とか……」

「ああ、それか。……ええと、たぶん、一つの街を丸ごと買い取ってもお釣りが来るくらいかな。暇な三年間で冒険者ごっこをして近場で遊んでいたら、凶悪モンスターを倒した勇者として讃えられてね」

「何をしているんですか貴方は」

 本当に転んでもただでは起きない男だ。アリスはフフっと苦笑してしまう。
 だからそこ頼もしい。

「カイル。……明日から少し、贅沢をしてもいいですか?」

「もちろんだ。何が欲しい? ドレスか? 宝石か?」

「いえ、アーサーに十分な教育を。それから……一番上等な胡桃パンを。私、焼いてばかりで、高いパンを食べる機会がなかったので」

 カイルは一瞬驚いたように目を見開き、それから腹の底から声を殺して笑った。

「ああ。最高の教育と、最高の胡桃パンを探そう。……俺たちの、新しい人生の門出に」 

 窓の外では、月が静かに三人を照らしていた。それはかつての「頼りない月光」ではなく、彼らの行く道を導く、確かな光のように見えた。

 自分を捨てたような王が治める国に戻るのは、アリスにとって一抹の不安はあったが、やはり自国には慣れ親しんだ安心感がある。
 自分はもう、騎士をやる必要はない。
 町…いや、村のパン屋で十分なのだ。
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