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第一章 幸せのありか
72 side哉
しおりを挟む「………忘れろ、そんな気持ちはきっと、錯覚だ。何も残らない」
揺れて足場の危ういつり橋の上で出会ったのと同じで、別の動悸を、恋と錯覚しただけだ。特に樹理は、そうだとしか言えない。彼女が哉に恋をする、その理由が哉にはわからない。彼女に好かれるようなことをした覚えは、一つもなかった。
ずっとふたをしてきた思い。それは嘘だと目を逸らしてきた気持ち。気づいたときには、通りすぎていた地点。ずっと哉は自分に言い聞かせてきた。その思いは錯覚だと。
けれど心はずっと樹理を求めていた。
樹理を取り戻したいと願っていた。毎日毎日、もうこれ以上樹理のいない生活をしたくないと思っていた。
他には何も要らなかった。樹理が手に入るのなら、地位も名誉も何もいらない。全て捨てろと言われるのなら、全て捨てれば彼女が手に入るのなら、迷わず今の生活なんて捨ててしまえる。
けれど樹理は? 彼女はどうする? 自分がそれでいいからといって、樹理にまでそれを押しつけるのか? また何か理由をつけて、無理やり?
そんなことはできなかった。したくなかった。彼女が家で、家族と幸せに暮らしているのなら、それでいいだろうと自分に言い聞かせてきた。
「じゃあ」
樹理のソプラノが、玄関でくるくると舞った。
「錯覚じゃない恋って、あるんですか?」
顔を上げて、樹理を見ると、ぼろぼろ泣きながら、けれど微笑んでいた。
十も年下の少女なのに、全てを達観したようなそんな微笑。
「錯覚しつづけたら、だめですか? 何か残らなくちゃ、いけないですか? 私は、あなただけいたらいい」
その言葉に、哉が観念したような、そんな笑い方をした。
心の底から、笑ったのは初めてだと思いながら。
ゆっくりと、手を伸ばす。
抱きしめた。自分の意志で。やっぱり、その体は小さくて、柔らかくて、当たり前だがずっと求めていた樹理のやさしいにおいがする。
初めて、心から望んだものを手に入れられた。心の中に今まであったものが全て取り払われたのに、この充実感はなんだろう?
「そうだな。それならいっそ、死ぬまでそうしていようか。錯覚だって、二人分なら本物だ」
背中に、樹理の腕がしがみつくように回された。
頬についた、涙のあとをぬぐう。
唇にふれる、柔らかい感触は、錯覚でも幻でも夢でもなく。
ただそこにあるものが、真実だと伝えるように暖かかった。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐
第一章完結です!
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