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第二話 キャンバスの群青
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ぼくは子供の頃から絵を描くことが好きだったので、迷うことなく中学・高校では美術部、大学では絵画サークルに入りました。
メンバーで集って山や公園、動物園や植物園など、外に題材を求めて出掛けることもしばしばで。その場でいきなり制作を始めるのも、スケッチだけして部室で制作するのも個人の自由です。ちなみにぼくは後者です。
で……お話しするのは、碧湖という小さな湖に写生に行ってからのことです。
湖の傍には碧美術館という森に囲まれた小規模の私設美術館があり、気になったぼくはスケッチをさらりと終えると、任意で入館しました。枝垣さんも一緒でした。
無機質な小部屋がいくつかに分かれていて、ギャラリーの蟻の巣のようです。
一番奥の細長い部屋に、この美術館の創設者が一番愛したというシュールレアリスムの作家、ハンス・ベルメールのデッサンが展示されていて、恐ろしいほどに衝撃を受けました。
枝垣さんは、直視していられないと、そそくさその部屋を出て行きましたが、ぼくは魅入られてしまって動けなくなっていました。
ふと気付くと肩が触れるほどの距離に、綺麗な黒髪の同世代の女性が立っていて、ベルメールの絵をじっと見ています。
彼女は絵を見つめたまま、
「こんな風に壊れるほどに描いてほしかった」
そう言って、マイクロなミニ丈の白いワンピースと膝の上まであるブーツ姿で、すらりと部屋から出て行きました。
「閉館時間になっちゃうよ!」
呆然と立ち尽くしていたぼくを、枝垣さんが腕を引っ張って我に返してくれましたが、さっきの女性は閉館後もずっと館内に居るような気がしました。
部室に戻って、湖畔の絵をスケッチから起こしましたが、あの女性のことが頭から離れません。
ある雨の夕方、部室にはぼく以外に誰も居なくて、少し冷んやりした空気の流れと湖畔の水に似た匂いを感じて、ぐるりと見回しました。
すると、今まであったのに気にも留めていなかった扉が少しだけ開いているんです。
誰かが開けるところを見たことはないし、開かずの物置きのようなイメージでした。
恐る恐る覗いてみて、ぼくは声が出ないほど心で叫びました。
そこにはベルメールを隣で見つめていた女性が、立膝で絵筆を咥えて、布でキャンバスの絵の具を拭き取っていたのです。
「あ、す、すみません。急に開けちゃって」
気の利かないぼくの言葉に何の反応も見せません。
「あの、この前碧湖の美術館にいた人ですよね……なんだ、同じサークルだったんだ。今まで気付かなかっ……」
「ここの大学の絵画サークルとあたしたち隣町の美大生有志、ボランティア活動で協力してるの」
「え? そうだったの? ぼく知らなかった」
彼女は、ふん、と鼻を鳴らすと、
「で、描けたの?」と訊くのです。
「へ?」
「あたしを描けたか訊いてるの」
「…………」
意味がわからずに黙っていると彼女は立ち上がり、白いワンピースから伸びる剥き出しの脚を見せつけながら、ぼくの傍をすり抜け、すらりと部室を出て行ったのです。
「誰だったんだろう……」
ぼくがこの群青に塗られたキャンバスを見たのはこの時が初めてでした。キャンバスの裏には「真の」とあって、それが彼女の名前だと思っていました。
その後、誰に訊いても彼女のことを知る人は無く、ぼくは心細い日々を送りました。なぜなら、彼女は時々扉から出て来てはぼくを驚かせ、自分を描けたか訊くのです。
気付いたら碧湖の色をバックに、今まで描いたことのないベルメールの関節球体を模した、少しエロティックな彼女像が出来上がっていました。
それでも、彼女はいつでも、
「描けたの?」と繰り返していました。
まるでぼくじゃない誰かに言っているようでした。
そんなぼくの奇しい絵は、すぐさま枝垣さんに見つかってしまい、問い詰められ、今までの経緯を告白しました。
「ここ物置だよ。誰もいるわけないよ」
枝垣さんが扉のノブを捻ると、鍵が掛かっていたのです。
八回生のサークル長に訊ねると、隣町の美大生と共同でボランティア活動をしていた歴史は実際あったようだけれど、それは随分と過去の話だということでした。
鍵を使って扉を開けると、脚立や掃除道具や木材などが狭くて埃臭い中にあるだけです。立膝とはいえ、人が座ってキャンバスと向かい合うスペースなどありません。
ただ、彼女が絵の具を拭き取っていた群青に塗られたキャンバスが、生々しくぽつんと不自然に立て掛けてありました。
「これだよ! これ!」
ぼくは恐怖も含め、興奮気味にそのキャンバスを掴むと、枝垣さんの目の前に突き出しました。
枝垣さんは予想外に、
「え?」と目を丸くして言ったのです。
「真野先生のサインだ……なんで?」
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