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第二話 キャンバスの群青
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しおりを挟むどうせなら、私のところに現れてくれればいいものを……
星の瞬きさえ見えない夜空に、新月の漆黒のシルエットが浮かんでいる。
それはまるで、そうだ、まれのあの漆黒の瞳に似ている。目を合わせたら吸い込まれて、見えていた多彩な色が失われる。闇の中の一点の光を描くことの困難さを味わったあの時を思い出す。少し吐きそうだ。
私は美島くんから受け取った自分のスケッチブックを開き、四半世紀も前に描いた幾枚ものまれの姿を反芻した。
どのまれもまるでそこにいるように自然体なのに、顔の表情は描かれていない。
一枚ページが破られていたのが少し気になった。
そう言えば美島くんが置いていった、彼が描いたまれの姿もまた、顔が描かれていなかった。
落ちている小枝をセンスよく組み合わせ、小さな焚き火を作る。
外に据えてある簡素なテーブルの上で、麓の豆腐屋で買ってきた厚揚げをサイコロ状にして、昔デッサンに使っていたスポークに刺し、遠慮がちに静かに燃える炎で炙る。
香ばしい匂いにつられてやって来た烏は、その黒い視線を木の上から私の厚揚げに落とし、雨曝しのデッキ下の狸は目を金色に光らせて私の手元を凝視し、平たい岩に鎮座していた縞猫は、大欠伸をして私の足元に擦り寄って来る。
「みんな、肉でなくて済まないな」
そう言ったところで、烏も狸もしっかり厚揚げを咥え、猫は岩の上で箱座りすると恨めしそうに目を細めた。
突然の眩しいヘッドライトに、猫は目を大きく見開くと瞳孔が剃刀のように研がれ、岩から飛び降りるとどこかへ行ってしまった。
「誰だ、こんな夜に。ライトが上向きのままだぞ」
夜と炎との静かな対話の中で、闇の中に描きたいものが一瞬過りそうだったのに霧散してしまった。
私は額に手を翳し、片目をつぶってそのヘッドライトの正体を見極めようとした。
「真野先生、お久しぶりです」
そう言って車の助手席から降りてきたのは、教え子の枝垣さんだった。
高校在学中からてきぱきしていた彼女は、ヘッドライトの眩しい車の前を回って、運転席側のドアを開け、
「早く降りて来なさいよ。ほら、ヘッドライト消して」
まるで母親のように世話を焼いている。
ようやく私の目が眩しさから解放されると、彼女に腕を引っ張られ、ひょろりとした青年が姿を現した。
「やあ、君は……私の教え子……ではないな」
「は、初めまして。ぼく、枝垣さんと大学のサークル仲間で佐綿と言います」
「ようこそ、と言いたいところだが、随分な夜更けにどうしたんだい」
外に据付の手製の腰掛けを勧める。
「先生、大変だったんですよ! 手前の分岐点で佐綿くんが道を間違えて、山越えちゃったんです。ここ分かりにくいんだもの。で、遅くなっちゃったんです!」
「そ、そうか。それは済まなかった」
彼らは勝手に来たのだから、私が謝る必要はないのだが、なんとなく謝ってしまう。
「では君たちに、焚き火の炎で労いの珈琲を淹れてあげよう」
そう言って、小屋の中にキャンプ用のポットとマグカップをとりに入ると、枝垣さんが後を追って来た。
「先生、あの佐綿くんのことなんですけど、彼の話、ぜひ訊いてあげて下さい」
意味もなく背筋がぞくりとした。
私が珈琲を淹れる間、枝垣さんは持参したマシュマロをスポークに刺して火に翳し、佐綿くんは足元に置いたナイロンバッグ、おそらくキャンバスが入っている、を気にしているようだった。
誰もが喋らず、パチパチと小さな炎の爆ぜる音と、夜の山の呼吸が聴こえていた。
「少し濃いかもしれん」
ふたりに淹れたて珈琲のマグカップを渡した。
「うわぁ、いい香り。先生、素敵な生活送ってますね」
枝垣さんは、熱々のマシュマロをはふはふしながら、
「早く話しなさいよ、せっかく来たんだから」と、佐綿くんを肘で突いた。
その話を訊きに来たのか、それともマシュマロの甘く焦げる匂いにつられて来たのか、ばさばさと二羽の烏が頭上に着枝したようだ。烏は火を怖がらず夜も飛ぶ。
佐綿くんは足元のナイロンバッグからキャンバスを取り出した。F8号だ。コバルトブルーとプルッシャンブルーが、ガシガシと混ぜこぜに塗り込められている。
「あ、あの……これなんですけど……」
佐綿くんは立ち上がって、小刻みに震えた手でそれを私へ渡した。完全に目が泳いでいる。
「サークルの部室で見つけました。何も描かれていないんですけど、見ていると目が離せなくて、何かがぼんやり見えてきて……し、枝垣さん、怖いよ」
「ちゃんと自分で話しなさいよ、わたしには見えないんだから!」
可哀想な佐綿くんは、マシュマロを頬張る枝垣さんに叱られて、ぼちぼち話し始めた。
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