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第一章
柊家の人々
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柊家はいつも朝からばたばたしていた。
咲月さんが半熟目玉焼きを焼いてサラダを用意し、結月さんがパンを焼いてインスタントスープをかき混ぜる。その間、お父さんはコーヒーが落ちるのを見守りながら、歯磨きをしたり髭を剃ったりと身なりを整える。お父さんは高校の数学教師なのだ。
「キリ、起きてる?」
咲月さんが叫ぶ。
「うぅん、わかってる」
のろのろと霧人君が階段から降りて来る。
お父さんが出かけると、結月さんに追われて霧人君も玄関から押し出される。
「ほら、いってらっしゃい」
ぼくのごはんは、咲月さんか結月さんが用意してくれていて、一通りのルーティーンを済ますと、ふたりはその日の授業に合わせて、それぞれ大学に向かうのだ。
ミルクはちゃんとお皿から飲めるし、離乳食もひとりで食べられる。それに、ひとりで留守番だって出来る。
霧人君が生まれた時に使っていたというベビーバスケットに、石鹸の匂いのするふかふかタオルを敷き詰めた、ぼく専用のベッドを作ってもらったから、少しくらい寂しいのは我慢しなくてはならないのだ。
ぼくのお気に入りのおもちゃは、霧人君の靴下をくるくる丸めて毛糸で縛ったものだ。ぼくがこの柊家に来た時に入っていた靴下である。たいてい留守番の時は、これでひとりサッカーをしているとか、小さな蜘蛛を見つけて狙ってみるとか、陽の光の影が動くのを追いかけたりしているとかだが、実の所、ほとんどは眠っている。
静かに守られた部屋で、甘い匂いのぬくぬくした夢の中から、突然黒い何かがぼくに覆い被さろうとする。時々見る怖い夢だ。そんな時は、早く霧人君が帰って来ないかと、サッシの外をじっと眺め続けたりもする。
遊び相手の霧人君が帰ってくると、ぼくは俄然活発になる。一番興奮するのは、意外にもお父さん手製の、釣竿の先に糸で括りつけた折り紙の蝶々を追いかけ回す事だが、明るいうちは庭で思い切りころころと遊ぶ。小さくて機敏なぼくは、霧人君には捕まらない。
「すばしっこいなぁ、ジンは……おれだって、本当はすばしっこかったんだぞ」
少し寂しそうにぼくを抱き上げた霧人君は、自分の右膝を摩りながら言った。
咲月さんは音大の二回生で、どうやら月乃ママがそうだったように、音楽の教員になりたいらしい。
時々ピアノの練習をしているのだが、この音を聴くと、ぼくは居ても立ってもいられない。咲月さんの部屋に一目散に駆けつけ、椅子の脚から咲月さんの膝によじ登り、そこから指が叩く鍵盤に飛び乗る。
咲月さんは、わざと知らん振りをしてピアノを弾き続けるのだが、いくらぼくが小さくて軽いといっても、指の上に乗られては演奏はままならない。何度もぼくを降ろすのだが、ぼくも負けてはいられない。何度もよじ登って咲月さんを降参させるのだ。
「ジン、参ったわ」
そう言うと、その細長い指を鍵盤に素早く滑らせて遊んでくれる。
ぼくが鍵盤上を移動するたびに、軟らかい微かな不協和音がでたらめに流れて、隣の部屋にいる結月さんに「二度と同じ演奏をしない『名演奏家ジン』」と言わせしめた。
美大で油画を専攻している結月さんも、時々自室で油絵を描いている。
大きな作品やグループ展の作品は、大学のアトリエで制作しているようだが、家ではよく模写などの勉強をしているようだ。
これがぼくにとっては、俊敏さを試される素敵な遊びなのだ。結月さんが筆でキャンバスを叩いたり、パレットナイフでごりごりすると、キャンバスの裏が微妙に出っ張ったり引っ込んだりする。生まれ持ったぼくの本能は、これを捕まえろ、と有無を言わさない。
そして結月さんに遊ばれるがままに、ぐったりするまでキャンバスの微かな凸凹運動を追いかけさせられるのだ。たいていこれをやった後はしばらくの間、疲れて眠ってしまう。
そして、どんなにぐっすり眠っていても、お父さんの足音だけは間違えない。お父さんが、「ただいま」と玄関を開ける一分前には、上がり框でお出迎えの準備をする。
だから、ぼくが「ニィ」とひと声発しながら玄関に向かうと、みんなは、「お父さんが帰ってくる」と言うのだった。決して間違えることはない。
「ただいま、ジン」
お父さんは、細い目をなお細めて、温かい手でぼくを抱き上げてくれるのだ。
「ジンは何でお父さんだけお出迎えするの? ずるい!」
結月さんは時々口を尖らせるが、お父さんはお出迎えするべき人なのだ。
「でもさ、ジンたら、お出迎え以外はお父さんに寄り付かないわよね」
結月さんが少し意地悪そうな三日月型の横目を作って、けけけと笑った。
「ジン的に担当が決まっているのよ。お出迎えはお父さん。遊び相手はキリ。一緒に眠るのが結月。わたしはどうやらご飯担当みたい……結月が一番いい役よ、うふふ」
咲月さんの的確な見解に、写真の月乃ママが微笑んだ気がしたし、やっぱり家族みんながぼく的ルールに面白そうに笑った。
そんな柊家での平和な日々をぼくは送っていた。
2
最近、霧人君が学校に行ったと思ったら、しばらくすると帰ってくる事がある。何だか背中を丸めていて元気がない。昼間だから誰もその事を知らない。
ぼくがくるくる霧人君に纏わりついても、手だけでぼくを追いかけているだけで、本気で遊んでくれない。蝶々のついた長い釣り竿の先を咥えてアピールするが、腰を上げてくれないのだ。
ある日、ぼくは霧人君を元気付けようと、思い切り庭に飛び出したまでは良かったが、調子に乗って、気がついたら屋根の上まで登ってしまっていた。自分でもびっくりした。
初めて屋根の上から見た風景は、目が回るほどに色とりどりにピカピカしていて素敵だった。この世界を見たら、霧人君もきっと元気になる。そう思って霧人君を呼びに行こうと思ったが……降りられない。高すぎて怖い。おろおろした末に、目一杯声を張って「ニィーンニィーン」と鳴き続けた。
「うそだろ、ジン。待ってて」
驚いた霧人君が、急いで二階の窓から屋根によじ登って来た。
ぼくは怖かった事も忘れて、嬉しくなって駆け回ろうとしたが、霧人君の胸に押さえ付けられるように抱き止められ、身動きが取れなかった。
「だめだよ、危ないだろ。怪我したら元に戻れないかもしれないんだぞ!」
強くて寂しい口調に、霧人君に何かあったんだとぼくは察して、抱かれるままに大人しく霧人君の目を見た。
「おれさ、短距離とハードル競技の選手だったんだよ。速かったんだぞ。ジンなんかすぐに捕まえちゃうくらい」
そして、ゆっくりと形を変えて行く大きなふわふわの雲を見上げた。
「空が近いなぁ。ほら、雲に触れそうだぞ」
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