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第一章
ぼくの名前
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台風が去った翌日、中学校の裏手の小さな川は増水していた。
霧人君は、流れの速くなった濁った川を眺め、いつも甲羅干ししている亀は無事だろうか、などと考えながら帰り道をのろのろと歩いていた。
その時、小さすぎるぼくは、土手から横倒しになだれかかった何かに、まだ軟らかい爪が偶然引っ掛かって、必死でこの増水した川に流されまいともがいていた……と思う。
けれど、実際もがく間もなく、一気に川の真ん中まで流されて、生まれて一ヶ月の命もこれまでかと諦めただろう時、掬い上げて救ってくれたのは、中学二年生の霧人君だった。
石鹸の匂いの残るポケットタオルに包んで、優しい人差し指でおそらく心臓マッサージをしてくれたのだろうか、ぼくはぼんやり呼吸を止めるのをやめた。
霧人君のジャージはびしょ濡れで、川に入ってぼくを助けてくれたんだということがわかる。
凍えるほど体温を奪われていたぼくは、ちゃんと道端にスニーカーと靴下を脱いでおいた霧人君の、そのまだ温もりのある靴下にすっぽりと入れられ、微かな石鹸の匂いの体操服の内側に守られて、霧人君の家に連れてこられたのだ。
2
「どうしたの、キリ!」
大きな目をなお大きくして、咲月さんがびしょ濡れの霧人君に駆け寄る。
咲月さんと同じ顔をした結月さんが、
「川にでも落ちたんでしょ。ほら、玄関で全部脱いじゃって!」
と、霧人君の体操服に手をかけた。
咲月さんと結月さんは、霧人君の六歳離れた双子のお姉さんだった。
霧人君は結月さんの手をひょいと躱すと、
「ちょい待ち! 触るなよ。ここに大事な命がいるんだよ」
と、靴下に袋詰めの小さなぼくを、体操服の内側からそっと取り出した。
「ち、小さいわ……生きてるのよね」
「うわ、小さい。それに真っ白。おなか押さえて大事な命なんて言うから、キリが子供でも生むのかと思ったわ」
「アホか。多分生まれて間もないよ。死んじゃうかもしれないから、早く温めて」
霧人君は少し苛ついたように言った。
双子なのに、まるでリアクションが違うお姉さん達だけれど、ふたりの行動は速かった。
「まずはお湯で温めてしっかり乾かしましょうね。キリも風邪ひくからシャワーしといで」
そう咲月さんが言い終えないうちに、
「仔猫ちゃん用のミルク買ってくるわ」
と、結月さんが玄関を飛び出していった。
ぼくは、咲月さんのおかげでぽかぽか温かくなってふわふわに乾いて、結月さんが探してきてくれた仔猫用の哺乳瓶で温いミルクをおなかがはち切れんばかりに飲んで、物凄く安心して眠った。
ふと目が覚めると、霧人君の温かくてやっぱり石鹸の匂いのする掌の中だった。ぼくの命の恩人だ。その霧人君はといえば、口を開けてうたた寝していた。
「うふふ、キリったら、予定外に川に入って疲れちゃったのね」
優しい声で咲月さんがそっと言うと、
「予定内でも川に入ること、そうそうないでしょ。キリ、仔猫ちゃん潰さないでよ」
などと結月さんが続けるものだから、
「うるさいなあ……むにゅむにゅ」
霧人君が寝ながら文句を言う事になる。
ここまでのやり取りで、この三人の大体の構図がわかった気がした。
「ねえ結月、これ見て。仔猫のからだ洗ってたら、ほら」
咲月さんが掌を広げて、結月さんに見せている。
「あ、これって百日草の種じゃない」
「そうよね。ママが庭に植えた百日草のこぼれ種と同じよね」
「ふあぁぁ……そういえば拾い上げた時、種が剥き出しの枯れた花が、コイツのちっちゃい爪に挟まってたよ」
霧人君が寝惚け声で割って入った。
「あら、キリ。起きたのね」
「結月がうるさくて眠れない」
「ふん、それは失礼しましたね。けど、台風で土手の百日草、流れちゃったのかしら」
「あいつら、生命力強いから、来年また復活するだろ」
「生命力っていえば、元気に育って欲しいこの子の名前、キリが連れて来たんだからキリが名付け親になりなさいよ」
結月さんが思いついたように言うと、霧人君は決めていたかのように、すかさず回答した。
「それじゃ、真っ白だから『ジンクホワイト』。かっこいいだろ」
「うふふ、長いわね、キリ」
「そうよ、長すぎて呼ぶのめんどくさい。短絡的だし可愛くない。それに、真っ白ならチタニウムホワイトよ」
「なんだよ、おれに名付け親になれって言ったの、結月じゃないか」
「うふふ。じゃあ、『ジン』はどうかしら。だって、この子は白い上に、百日草の種を運んできたんだもの」
咲月さんが人差し指をピンと立てながら、柔らかい口調で言った。
「ジニア! 『ジン』! いいわね」
結月さんは気に入って親指を立てた。
「よし、今からおまえの名前は『ジン』だ」
霧人君はぼくを掌に乗せてそう言った。
つまり、円満にぼくの名前を決めてくれたのは咲月さんだった。
「それじゃ、わたしはジンが持って来た種を種蒔きの時期まで保管しておくわ。ジンが来た記念に」
咲月さんは大切そうに三粒のその種をピンクのぽち袋にしまうと、月乃ママの写真の前に置いた。
「柊家の新しい家族『ジン』がやってきました。小さくて真っ白な子です」
「ただいま」
夜、暁人お父さんが帰って来た。
ぼくを見つけると、一言、
「おお、仔猫か。小さいなあ」
と言っただけでリアクションは少なかったけれど、その細くて優しい目は、会ったことはないけれど仏様みたいだなって思った。実際、お父さんは底抜けに優しい紳士だった。
「ぼくはジンて言います」
お父さんに、か細い声でニィニィ伝えると、
「よし、来い」
と言って、ぼくを掌に抱いてくれた。霧人君よりも大きくて包み込まれるような手だった。そしてもう一度、
「小さいなあ」と言った。
「四百グラムもないのよ」
結月さんが何故か自慢げに言う。
ぼくは一日でこの家族が大好きになり、ずっとずっとそばにいようと自分に約束をしたのだ。
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