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第二章
それぞれの道
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春から霧人君は美容学校に入学し、寮生活を送る事になった。
通えない距離ではないし、ぼくは愛惜たっぷりの鳴き声で抗議したが、霧人君の決心は固かった。
「お父さんとわたしの髪を切りに、毎月帰って来てね」
咲月さんは、霧人君をぎぅと抱きしめた。
「んな帰って来れるか」
霧人君はやるせない表情を思い切り隠して、
「父さん、行って来ます。結月にもよろしく」
それからぼくの頭をくりくりして、
「ごめんな、ジン。元気にしてろよ、直ぐに戻って来るからな」
「ニニニィ」
ぼくは、大好きな霧人君に置いていかれるのがあまりにも哀しくて、仔猫の時のような声を出して鳴き続けた。
「キリト、キリト、キリト」
「大スタイリストになって戻ってくるぜ」
どこかで聴いたことのある台詞をふざけ半分に吐いて、結月さん顔負けの意気揚々さで柊家を後にした。
この春も、ぼくは咲月さんと百日草のこぼれ種を撒き直した。
初夏には色とりどりに咲き始め、ひとりで留守番する長い一日、ぼんやり庭を眺めて過ごす時は増えていた。花に寄る蝶々や蜂をサッシ越しに目で追い、時々ハナムグリがやって来るので、大切な花を食べてしまわれないように見張る事もある。
庭の芝生でちょんちょん跳ねている雀達にうずうずしていると、たまにのっそり遊びに来るコンブが、彼らを蹴散らしてしまうのに腹を立てる時もある。それでも何の疑いもなく平和な毎日を送り、ぼくは相変わらず愛されて幸せに暮らしていた。
いよいよ咲月さんも、夏から秋に向けての教員採用試験に合格し、あとは無事に大学を卒業すれば良いだけだった。
「おめでとう、咲月。家の事をやりながら、よく頑張ったな。乾杯しよう」
お父さんはそう言って、こっそり用意していたワインを開けて、月乃ママの写真の前にもグラスを置いた。
ぼくも仲間に入りたくて、その綺麗なボルドー色の液体に鼻を近づけたが、良い香りだけれど、少しくらくらした。
「ありがとう、お父さん」
「咲月も来年から教員か、同業者というわけだ。霧人も怪我から立ち直って目標を見つけたし、結月は言わずもがなだ。卒業したらドイツに行くと騒いでるからな」
お父さんは、喜ばしい事だと微笑んでいたけれど、優しい目は少し寂しそうだった。
「お父さん、わたしはどこにも行かないよ。ここから通うもの。うふふ」
優しいだけの「数学馬鹿」と霧人君は呼んでいたけれど、お父さんはスマートでかっこいい。
そして、やっぱり咲月さんも優しいのだ。
そんな咲月さんは肩の荷が下りたのか、休日になると少しばかりおしゃれをして外出する事が増えた。当然ぼくは、物静かなお父さんとふたりで長閑に過ごす休日が増えたのである。
2
年越し、久しぶりに柊家の家族が揃った。
ぼくはテンションが上がりすぎて、いつものように電気カーペットでまったりしている場合ではなかった。部屋を弾丸のようにキンキンと駆けずり回り、数日前に掛け替えられたばかりのカーテンをよじ登り、優しい咲月さんに叱られた。
でも、ぼくはちっとも反省出来なくて、キンキン跳び回りながら、霧人君の胸に飛び込んだ。随分と背が伸びてかっこよくなっていた霧人君だったけれど、相変わらず石鹸くさかった。
結月さんは卒業制作をぎりぎりに終えて、十日後の搬入を控えながらの帰省だった。大学院進学よりも、バイオ研究者の彼を追ってドイツに渡る事を選んだ強い決心を貫くのだと、鼻息荒く楽しげに語った。もう渡航の準備も粗方出来ているという。
「自由だな、結月は」
霧人君は呆れたように言う。
「彼はね、アーティストみたいな研究者なの。菌に絵を描かせようとしてるのよ、いや、研究者みたいなアーティスト……かしら」
結月さんの瞳は、もう海の向こうだった。
「自由に生きればいいよ。でも命は大切にするんだぞ」
お父さんが、ゆっくりと月乃ママの写真を見ながら言うと、
「この家とお父さんは、わたしがいるから大丈夫よ」
咲月さんが付け加えた。
「ありがとう。咲月も自分の人生大事にしてよね」
結月さんは咲月さんを抱き寄せて、
「人生一度きりなんだから、我慢しちゃだめよ」
と、耳元で囁いた。
鍋でぐつぐつ言い始めたすき焼きをみんなでつつく。まさに、一家団欒を絵に描いたような構図だった。もちろんぼくも、柔らかいお肉の御相伴に与った。
「キリは彼女できた? もぐもぐもぐ」
「結月はデリカシーないな。もっと訊き方ってあるだろ」
「あら、他に訊き方ってある?」
相変わらずの霧人君と結月さんの言い合いに、咲月さんがくすくす笑う。霧人君は、ちらりと咲月さんを見てから、
「おう、さすがに、可愛くておしゃれな子がいっぱいいるよ。おれ、モテすぎだよ」
「ほほう。で、彼女は?」
「みんな個性派揃いだから難しいね。結月みたいなもんだもんな」
「生意気ね、キリ!」
お父さんも咲月さんも写真の月乃ママも笑っていた。
霧人君が寮に入ってからは、寝相がイマイチの咲月さんと眠っていたが、霧人君も結月さんもいて選び放題の今夜は、いったいぼくは誰と眠ったらいいのか迷ってしまう。
決めかねていたら、結月さんが咲月さんの部屋に入り込んで、どうやら大人の女の人同士の話を始めたようなので、やっぱり霧人君の温かいベッド深くにもそもそ潜って眠る事に決めた。背が高くなってかっこよくなったけれど、やっぱり霧人君は霧人君だった。
3
あっという間に、ぼくにとって三回目の三月が近づいて来た。
今年もまた、百日草のこぼれ種を蒔く。
咲月さんは学友達との卒業旅行を楽しみにしていたが、最近何となく体調が芳しくなく、残念な事に参加する事ができなかったまま、四月からの赴任校の決定通知を待っていた。
結月さんは無事卒業制作展も終えて、シェアハウスも同時に引き上げた。卒業式が済んだら、直ぐにドイツ、ベルリンに出立する予定だと言う。
それまでに、結月さんには、はっきりさせないとならない事があった。誰れも気づかない咲月さんの変化に気づいていたからだ。
「咲月、妊娠してるでしょ」
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