Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡

弘生

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第二章

  守りたいもの

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       1


 暁人お父さんは黙っていた。ずっと動かない。
 向かい合う咲月さんも、俯いて動かない。
 結月さんが沈黙を破る。
「咲月はどうしたいの?」
「わたしは……決めてる」
「じゃ、決まりよね。お父さん、許してあげて」
「…………」
 咲月さんが、相手の事を頑なに話さないものだから、優しいお父さんの顔が険しいまま強張っていた。
「いいわね、咲月。自分の人生、それともうひとつの命に関わる事なんだから、ぶれてはだめなのよ」
 結月さんの言葉に頷くと、咲月さんは真っ直ぐお父さんの目を見て言った。
「お父さん、ごめんなさい。わたし、授かった命を大切に守って育てるって決めたの。お父さんには迷惑をかけないから、どうかわたしの決心を許して下さい」
 お父さんは、今までにない怒った口調で、
「当たり前だ! 授かった命を守るのは当たり前だ! 無事に産んで育てるのが当たり前だ!」
 と叫んだ。
 咲月さんは大きく息を吸った口を両手で覆い、涙が溜まった大きな目を、なお大きくしてお父さんを見つめた。
 結月さんは、お父さんの首に抱きつくと、
「さすが、我らのパパ! わかってくれてる」
「お父さん、ありがとう」
 咲月さんは、目に留まり切れない涙をぼたりと零した。
「近いうち、どこかアパートを借りるわ」
「……そんな形で家を出るのは、月乃だって望まないぞ。ここに居なさい。安全だから」
 お父さんは穏やかに言った後、
「その代わり、相手の素性だけは教えておいてくれ」
「それは当然の事よ、咲月。多感なキリには内緒にしておくから白状なさい」
 結月さんの言うことは、正しい。
 ぼくの出る幕は皆無だった事は言うまでもないが、月乃ママの写真のそばで寝そべっているぼくは、前から咲月さんの中の小さな命の匂いに気づいていたよ。


 この春からの目標だった教員採用を潔く辞退して、卒業とともに、咲月さんの生活は変わった。
「今年から同業者になれなかったのは残念だが、いつでもチャンスは訪れる」
 お父さんはそう言って、優しく咲月さんを気遣い、新学期を迎えた。
 そして結月さんは、彼、遠峰聖とおみねひじりの留学先、活動拠点のベルリンに発ったのである。
 気を失ったぬいぐるみのようにされるがままの、結月さんの情熱的な激しいもふもふぐりぐりが、ぼくは意外にも気に入っていたから、遠く離れると、今まで以上の空虚感は拭えなかった。
 問題は霧人君だった。
「咲月が夏に子供産むわよ。それ以上は何も訊くな」
 と、中途半端な情報を勝手に言い残して結月さんが発ってしまったため、心配と混乱が脳内を占領して、修行に身が入らなかった。
 最近持ち始めた携帯電話を手に、確認しようか何度も迷った。
「だって、結婚するなら咲月本人が知らせるだろう。おれだって覚悟はとっくに出来ているよ。おれは阿保みたいに、結月にドッキリ仕掛けられているのか」
 そうぼくに言ったのは、その目で確かめようと、ついに霧人君が帰って来た時だった。
 五月の連休明けから一週間ほど、アシスタントの実践が控えているので、その前に混乱を解消しておきたいのだ。などと言っていたが、本心はそんなものではないだろう事くらい、ぼくにだってわかる。霧人君はわかりやすいのだ。
「咲月は?」
 鞄も置かずに霧人君が訪ねる。
「おかえり、霧人。咲月は仕事に行ってるよ」
「学校、連休だろ?」
「ああ……咲月は今、結婚式場でピアノ演奏してるんだ」
「音楽教師になったんじゃなかったのか! 何で隠してるんだよ」 
 霧人君がお父さんに詰め寄る。
「だいたい、結月が言ってたってなんだよ」
「帰って来たら本人から訊きなさい」
 霧人君はどすどす音を立てて階段を上り、自室に鞄を放り投げると、後をついて駆け上ったぼくを抱え込むと、無理矢理石鹸くさいTシャツの内側に押し込み、二階の窓から屋根に登った。
 

       2 

「何年ぶりかな。空が近いな。ほら、雲に触れそうだぞ、ジン」
 五月晴れのどこまでもターコイズの空を見上げる。
 僕が初めてうっかり屋根の上に登れてしまった時、霧人君の切ない思いを知った事は、今でも覚えている。だから、あの時と同じ仔猫のように、
「ニィンニィン」と鳴いてみた。
「屋根の上でははしゃぐなよ」 
 ぼくをTシャツから取り出すと、霧人君は独り言のように話し始めた。

        *

 おれ、咲月や結月……咲月に子供扱いされてるのが悔しくて哀しくて、早く大人になりたかった。
 悔しいのってわかるかい? 空回りするんだよ、守られてるんだよ。それが嫌なはずなのに、気づくと甘えてるんだよ。何だよこれ! 
 そんな不思議そうな目をするなよ、ジン。
 雷雨の晩にコンブを隣に返しに行った事、あったろ。その時、雨の中、男の車から降りる咲月を見たんだよ。ぴかぴか笑って手を振ってるんだ。手を振ってるんだぞ。ただの実習で世話になった先生であるもんか。
 咲月だって、恋人くらい出来るだろうし、いつかは結婚してこの家を出てくんだろうってわかってるから、その過渡期を目の当たりにするのを避けたくて、寮生活選んだし、そのまま家を出るつもりでいたんだよ。
 なのに、何だよ。
 結月や父さんがはっきり教えてくれないから苛立つんじゃないか。
 ジン、おれはね、やっぱり咲月の事を守りたいんだと思う。咲月に何かあれば、おれは身体を張って守れるよ。
 ジン、本当なんだ。
 どんなに女の子と仲良くなっても、自分の全てを与えられるかって、あり得ないよ。でも、咲月だとあり得てしまいそうなんだ。
 何なんだろう、これ。
 前も言ったけど、おれと咲月は半分血が繋がっている。どうせなら、おれも父さんの連れ子だったらよかったのに、なんて本気で阿保みたいな事、中学生の時は考えていたけれど、そうじゃない。
 もし、結月の悪質なドッキリでないのなら、おれは相手が誰であれ、咲月を守れるよ、きっと。
 
        *

 霧人君は永遠の空に誓うように言い切って、ぼくの頭をくりくりした。
 霧人君の瞳には、真っ青な空が映り込んで、ぼくの瞳には霧人君の決心という、純粋な愛情が映り込んでいた。
「おまえの左目、夕陽みたいに赤くなってるぞ、化け猫ジン」
「ニャ」
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