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第二章
ぼくの弟
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この年の夏は、殊更に暑かった。
誰も彼もがぐったりするような、大気が歪んで見える夏だったのだ。
何も、こんな暑い時に生まれてこなくたって、という時期に、朔空君はこの世界に生まれた。
「小さいなあ。指なんて折れちゃいそうに細いな」
「動いてるのが不思議なくらい小さくてふにゃふにゃだ」
「霧人の生まれた時を思い出すな」
「やめてよ父さん、恥ずかしいな」
退院した咲月さんと朔空君を迎えたお父さんと、先程駆けつけた霧人君がもそもそ話している。男の人同士の話し声が、何だか不器用に聴こえて面白い。ここにがちゃがちゃする結月さんがいたら、どうなるのだろうか。
「あーん、可愛くて食べちゃおうかしら」
結月さんを口真似た霧人君に、お父さんも咲月さんも大笑いしている。
「言いそうだろ?」
「言う言う、絶対言うわ」
やっぱり霧人君も、ぼくと同じ事を考えているのだ。
朔空君を真ん中に、月乃ママも一緒に、みんなで笑い合っている。これって幸せという丸くて温かいものなのだろう。
……あれ? ぼくも仲間に入れて。ねえ、ぼくの方も見て。ニャン……みんな朔空君に夢中で、誰もぼくの鳴き声に気づかない。
こっそり居間から出て、冷房で冷んやりした廊下にひとり寝そべった。
ぼくは今、物凄く寂しいかもしれない。
徐々に丸く大きくなる咲月さんのおなかを、誰よりも傍で見守って来たのは、このぼくなのに。
まだ見ぬ姿の朔空君に、おなかの外から柊家の温かさをずっと伝えて来たのはぼくなのに。
誰か「おいで、ジン」て呼んでよ。
「ジン、見つけた。何、拗ねてるんだよ」
逃げようとしたが霧人君に捕まった。
「ジンが廊下で不貞腐れてたぞ。朔空に妬いてるんだ」
違う。絶対に違う。不貞腐れてないし、妬いてない。
「ジンたら、おねえちゃんになったんだから、拗ねる事ないのよ」
え? おねえちゃん? ぼくが? 朔空君のおねえちゃん? やった……
「ジン、朔空にご挨拶してあげてね」
ぼくより小さいかもしれない朔空君の傍に寄っていいのか躊躇っていると、
「ジンが緊張してるぞ」
霧人君がブフッと笑いながらぼくのお尻をちょんと押す。
「押さないでよ、キリト。ぼくは慎重派なんだ」
ゆっくりと覗き込むと、潤んだ目をうっすら開けて、本当に食べてしまいたいくらい柔らかい匂いがして、その小さな手と細すぎる指を音もなくもにもに動かした。
「ジンおねえちゃんのことずっとまえからしってる」
と、ぼくには聴こえた。
ぼくには、守るべき果てしなく愛おしい弟が出来たのだ。
2
朔空君の出現は、柊家に癒しと希望と多忙を与えた。
特に咲月さんにとっては、多忙の中に寝不足が加わった。大概ぼくは、それに付き合っていた。おねえちゃんだからである。
夜中に授乳で起きる咲月さんは、半分夢の中の時がある。寝相の悪さとは無関係だが、朔空君を抱いている咲月さんの腕が緩まないように、ぼくの前足を掛けて「ニャニャ」と小さく鳴く。
すると咲月さんは「ありがとう」と言って、ちゃんと目を覚まし、部屋に注ぐ月明かりの中で、月のように白いおっぱいを朔空君の小さな口に含ませるのだった。
ふわっと、お母さんの甘い匂いとふわふわの温かいおなかをもみもみした感触の記憶が過って消えた。そして、無心でおっぱいを吸い続ける朔空君をじっと見守った。
「うふふ、夜中はどうにかこれで間に合うのは助かるわ」
そんな深夜の授乳中、咲月さんは語る。
*
ジンが傍にいてくれて良かった。
サクを見る時の、お父さんやキリの顔、見たでしょ。小っちゃなジンがうちに来た時の顔と一緒、うふふ。
本当はわたし、すごく不安だったの。これから命綱なしの人生を送るんだって。不安なのに迷いはなかったのよ。
でも、自分の身体から分離されたこの小さな命への大きな責任……生まれながらにしてリスクたっぷりの人生を歩ませてしまう計り知れない……
わたしのエゴ、身勝手。でも、そうでなければこの子は存在しなかった、って思うと恐ろしいのよ。
全ての人格が奇跡であるように、朔空という唯一無二の人格は奇跡なの。無償の愛おしさしかないわ。
看護師に、「本当に自分で育てられるの? 厳しいわよ」と釘を刺された時も、難産で苦しくて涙が出て、「そんな事で泣いていたら母親になれないわよ」と叱られた時も、
「そんな事わかってるわよ!」って、叫びたかった。
それに、そんなの一般論よ!
育てるのは厳しくてもそれ以上の喜びがあるわ。正直に泣く母親がいたっていいじゃない。どうにかなるわ。そう思わない?
……ジン、今わたしの事、結月みたいって思ったでしょ。
当たり前よ、双子なんだから。
顔しか似てないみたいだけど、昔はね、そっくりだったのよ。やる事なす事おんなじで、多分、お父さんもキリもわたし達の事、見分けがつかなかったんじゃないかしら。
絵なんか、わたしの方が夢中だったかもしれない。
ママが急に死んじゃって、いつの間にか今のわたしに。
うふふ、でも、結月も無鉄砲だけど、わたしも相当よね。キリが一番まともなのかも。
ジンがうちの子になってくれたおかげで、大怪我で塞ぎ込んでいたキリが復活したんだもの。
崇めちゃうぞ、ジン。
キリがね、このあいだ寮に戻る前に、わたしに言ったのよ。
「おれ、咲月と朔空の事守るから、どっか行くなよ」
ですって。頼もしい弟になって、込み上げるほどうれしかった。
でも、キリはやっと十七歳になるのよ。だから結月の受け売りそのまま、
「自分の人生大事にしてよね」とか、
「人生一度きりなんだから、我慢しちゃだめよ」とかって伝えたら、
「うるせえ」ですって。
随分大人になったけれど、やっぱり可愛い弟よね。
あら、おなかいっぱいになったのかしら。うふふ、サク君、寝ちゃいました。
*
咲月さんは、めくり上げていたTシャツを下ろすと、朔空君をベビーベッドにそっと寝かせて、月明かりのような優しい眼差しを降り注いだ。
「ジン、付き合ってくれてありがとう」
その優しい光をぼくにも降り注いで、そして言ったんだ。
「ジン、ごめんね。あなたから赤ちゃんを産む幸せを奪ってしまって……でも、うちの子になった事、後悔してないよね?」
「後悔なんて言葉、知らないよ。ぼくは柊家のみんなが大好きで、ずっと傍にいたいだけなんだよ」
朔空君が起きないように、ぼくは小さな鳴き声で答えて、それから寝相が良いとは言えない咲月さんのベッドの端で丸くなった。
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