Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡

弘生

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第三章

  結月の正義

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       1


 力を振り絞って、眩しい初夏の太陽の位置を確認する。
「あと少し、がんばって、ジン」
 霧人君と咲月さんの声だ。
 咲き始めた百日草、かすかな石鹸の匂い、聴こえてくるピアノの音。ぼくの育った柊の家だ…………
 事故から一ヶ月半くらい経っていた。

「まさか! ジン!」
 裸足で庭に飛び出した黒い服のさんは、痩せ細ったぼくを抱き上げて、大声で朔空君とお父さんを呼んだ。油絵具の匂いがした。咲月さんではなくて結月さんだった。
「ジン、よく帰って来たわ。ああ、神様……」
 返事をしたくても、声がまるで出なかった。
「よく帰ってくれた」
 憔悴しきったお父さんが目頭を押さえた。
「ジン、おなかぺこぺこ」
 朔空君がぼくを抱きしめて言った。石鹸の匂いがした。
 すぐにご飯と水が用意され、ぼくは少しずつ慣らしながら、それをおなかに入れた。
 長く彷徨っている間に、爪もピンクの肉球もぼろぼろになった。雨風に吹かれたり泥水に落ちたり、山では容赦なく野生猫や他の動物や大きな鳥に襲われたりもした。激しい車の往来にも右往左往しながら、真っ白だったぼくは、傷だらけで薄汚れてガリガリになってしまった。
「キリと咲月が導いたのよ」
 声を上げて泣き出したのは結月さんだ。
「ユウキ、なかないで」
 結月さんの頭をぽんぽんする朔空君も泣き出して、それは長い間、止まなかった。

 柊家は月乃ママと同じ甘い線香の香りに包まれて、帰る事の出来た安心とあまりにも違った環境に戸惑いながら、計り知れない朔空君の心細さに、ぼくは胸を痛めた。
「ずっと君のそばにいるよ」
 微かな掠れた鳴き声で伝えると、ぼくはどこまでもどこまでも深い眠りに落ちた。

 夢が繰り返される。
 聴いた事のない衝撃音。車内の白い粉塵。ぼくは押し潰された車のドアから、バスケットごとガードレール下の森に転げ落ちた。
 開いたバスケットの口から顔だけ出して、霧人君と咲月さんを呼ぶ。何度も何度も何度も何度も。
 何が起こったの? アオーンアオーン、声が嗄れるまで鳴き続け、暗闇を彷徨いながら霧人君と咲月さんの姿を探す。
 
「ジン、大丈夫よ」
 夢にうなされ震えるぼくを、さんは優しく撫でてくれる……違う、結月さんだ。ここにいる結月さんは、まるで咲月さんのようだった。



       2


 事故から三ヶ月近く経った頃だった。
 チャイムが鳴ると、そこに別人のように痩せてしまった環先生が立っていた。
 あまりにも咲月さんと瓜二つの結月さんの姿に、一瞬環先生の動きが止まった。
「すみません、朔空君のお母さんだと思ってしまいました」
「似たようなものです」
「ごめんなさい、私のせいで」
 いきなり泣き崩れて、結月さんは対応に困ってしまった。
「落ち着いて下さい」
「いいえ、私のエゴで霧人さんにヘアセットなんて頼んだからです」
 この大泣きしている女性を、不思議そうに観察していた朔空君は、しばらくするとその顔を覗き込んで、
「ミスミタマキ」と言った。
 環先生は号泣しながら、
「ごめんね、サクラ君、ごめんね」と繰り返す。
「なかないで、ミスミタマキ」
 朔空君は結月さんにしたのと同じように、環先生の頭をぽんぽんした。
 環先生は、朔空君を抱き寄せると、結月さんに向かって、
「あの、差し出がましいお願いなのですが、朔空君を私に育てさせて頂けませんか」
「は?」
「あの、朔空君、私に懐いてますし、霧人さんが子供のように可愛がっていたので……」
「何を仰ってるんですか」
「私、責任持って、朔空君を育てたいんです」
「……あなた、馬鹿なんですか?」
「本気です。保育士や幼稚園教諭の資格もあります」
「朔空はおままごとの人形じゃないわ、帰って下さい!」
 結月さんがついに怒った。
「おままごとじゃないです。ひとりで育てます。彼とは別れます」
「ますますわからん」
 結月さんが朔空君を環先生から剥がしにかかった時、居間にいたお父さんがやって来た。
「お気遣いありがとうございます、環先生。でも朔空は咲月の子で私の孫です。あなたも、せっかく結婚なさったのだから、他人の子供のために別れるなど馬鹿げた事を言わずに、ご主人との間に可愛いお子さんを作りなさい。霧人も咲月もそれを望みますよ」
 さすがお父さんだ。
 環先生は目を伏せて、
「すみませんでした」と小さな声で言った。
 結月さんの足元にいたぼくにやっと気づいて、
「ジンちゃん、霧人君に恋してた者同士、私の気持ちわかってくれるわよね」
 そう言って、来た道を戻って行った。
「意味不明だったわね、お父さん。怖いわ」
「ああ。だが、問題提起をしてくれたぞ。朔空の今後だ。俺は定年まであと五、六年だ。退職が早まっても問題ないだろう。朔空の父親としたら年老いているが、まだまだ面倒は見れる。だから、結月は今まで通り自由に生きなさい。助けが必要な時は呼ぶ」
「そう言うと思ったわ。でもね、お父さん。わたしここに戻ってくるわ。サクの事は任せてよ」
「だめだ。パートナーもいるんだから、自分を犠牲にするな」
「わかってないわ、お父さん。自由にしていいんでしょ。だからわたしは帰ってくるの。聖さんはいいパートナーよ。だから、離れていても繋がっていられるのよ」
「心が離れてしまわないかい」
「あら、お父さんだってママとずっと繋がってるでしょ。だからこうして、わたしも咲月もママがいなくなっても大切にされてるじゃない。それと、聖さんは恋人同士以前にアーティスト同士なのよ」
 お父さんは口を一文字にした。多分泣きたいのを堪えている。
「お父さん、気づいてる? ママがいた時より、ママがいなくなってからの方が、お父さんとの付き合いずっと長いのよ。うふふ」
 結月さんが咲月さんみたいに笑った。
「大丈夫。わたしが朔空のママになります」
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