20 / 50
第三章
結月の正義再び
しおりを挟む1
暗い森を走る。ひたすら走る。
「キリト! サツキ! どこ?」
夜中の奇妙な鳥の声に怯える。這い出す蛇に飛び上がって毛を逆立てる。暗がりから黒い獣が襲いかかる。ぬめぬめ泥地に足を取られる。大きな翼を持った何かがぼくに掴み掛かる。
「キリト! サツキ! うちに帰りたい」
「星を見て、ジン」
無我夢中で導かれるまま、信じるまま走って走って……
あれから一年経つのに、未だにあの時の夢を見る。
朔空君は「ばななぐみ」に進級し、友達もしばしば遊びに来るようになっていた。
家の中に飽きると、庭で追いかけっこをして転げ回り、ぼくもそれに混ざる。隣のコンブが塀の上でだるそうに見ている。
おやつのオレンジュースを飲み干した友達が、
「おばちゃん、ジュースおかわり」
「君達、わたしはおばちゃんじゃないのよ。『サクラくんのママ』が正しいわ」
ーおばちゃんだろ
はっとして目を凝らす。霧人君が居るような気がした。
結月さんの率直さは子供達の人気になり、結月さんは子供だけの絵画クラブを作った。子供達が集まった日には、ぼくは霧人君のベッドで丸くなって静かな時間を過ごす。
石鹸の匂い……
ーごめん、ジン
霧人君と屋根から初めて見渡した景色が蘇って、思わず窓辺に飛び乗った。
朔空君の一番の仲良し、数真君は、他の友達とは一味違う。
ふたりの秘密基地は、強いて言えば柊家の居間の一角に在った。秘密などない開けっ広げの秘密基地で繰り広げられるふたりの作業は、あまりにも静かで、ぼくは傍にいても緊張せざるを得なかった。
色形とりどりの散らばった積木を、きっちり隙間なく正方形の木箱にしまう遊び。少しの誤魔化しも許さない。最近はますます細かいジグソーパズルや、ブロックで正確なピラミッドを組み立てる事に熱中している。ぼくがブロックをひとつ拝借して遊んでいると、無言で取り上げられてしまう。ここにぼくの入る隙がないのは明白、複雑だ。
結月さん特製プリンは、朔空君以外で食べる事が許されたのは数真君だけだった。ふたりのピンクの頬は、プリンみたいにとろけるのだった。
数真君は動きも活発で、鉄棒の逆上がりや美しいフォルムで側転が出来たりした。
朔空君は……全く及ばない。けれど、自然を愛し絵を描いて歌を歌う事は誰にも負けないくらい大好きだった。
2
ターコイズの空が、初夏の景色をビビットにしている。百日草もさらに鮮やかになって、二匹の紋白蝶を誘っている。
ひらひらひらひら花に止まりそうで止まらない、その蝶々達に朔空君とぼくは目を奪われていた。
「おーい、ふたりとも。公園まで散歩するわよ」
黒髪を頭のてっぺんでまとめ、咲月さんの向日葵柄の日傘を差した結月さんが、玄関からぼく達を呼んだ。
昔は霧人君のTシャツに包まっていたぼくも、今は朔空君をお守りしながら一緒に歩くのだ。
近くの三角公園は静かだった。
朔空君は芝生の上に両頬杖をついて、一輪咲き残っている蒲公英に止まる天道虫を観察している。
ぼくが蒲公英の綿毛にそっと触れると、一部の種がほわほわ風に乗った。朔空君は、
「ちがうよ、ジン。こうやるの」
と言って頬を目一杯膨らませ、思い切り「フーッ」と吹いた。
いくつもの蒲公英の綿毛がターコイズの空に舞い上がり、朔空君とぼくは楽しくなって、飛び跳ねたりくるくる回ったりした。
「石鹸玉やろうか」
秘密兵器か何かのように、結月さんがショルダーバッグからシュッと石鹸玉セットを取り出した。
生み出された瞬間から虹色を身にまとった球体になり、るりるりと風に身を任せて弾けて消えていく。儚くて愛おしいそれを、ぼくは何とか捕まえようと必死である。
ふと、彷徨っていたあの時、石鹸玉と似たものを、家に辿り着くまでに何度か見た記憶が過った。
さっきまで一緒に追いかけていたはずの朔空君は、石鹸玉を生み出す方に回ったようで、必死に飛び跳ねるぼくを見てけらけら笑っている。
紋白蝶が二匹、石鹸玉に混ざって飛んでいる。
「あら、見て。さっきの蝶かしら。また二匹飛んでる」
「ちがうよ、ユウキ。『にひき』じゃなくて『にとう』だよ」
「む、生意気、やるな、サク。誰に教わったの?」
「おとうさん」
「ああ、お父さんなら教えそう。ね、ジン」
ーうふふ
咲月さんの笑い声が聴こえた気がした。
「おうちにいたちょうちょなの?」
回りで飛び続けている紋白蝶を目で追いながら、朔空君が訊く。
「きっとそうかもしれないわよ。サクの事が好きで追いかけて来たのかも。結月ママもおうちから駅まで揚羽蝶がついて来た事あったもの、うふふ」
ーおばちゃんだろ
霧人君と咲月さんは傍に居る。ぼくは確信した。
それとは違う、リアルな視線を感じる。
すらりと背の高い男の人がこちらに近づいて来る。三白眼が特徴の、ぼくの知らない顔だ。
結月さんを驚いたように凝視している。
結月さんは怪訝な顔つきでその人を見返すと、はっと気づいたように、
「あ、あの時、玄関ですれ違った方……ですね。父から昔の教え子の方だとしか伺っていなくて。姉と弟のお線香を上げに来て下さったのだとか」
結月さんは、スケッチブックとクレヨンを取り出して、
「サク、そっちでとびきり素敵な絵を描いてきて。ジン、よろしくね」
そう言うと立ち上がって、その人に向かい合った。
「わたしの事、姉の咲月だと思ったのではないですか。あなたは香椎隼矢さんですね」
香椎という人は、
「間に合わなかったんです」と、声を詰まらせた。
朔空君は芝生に転がりながら、無心に絵を描いている。
「姉は子供の父親の名前以外、双子のわたしにも何も教えてくれなかった。でも今確信しました」
「柊先生は何もかも承知でした。今後、僕が何も語らず姿を現さない約束をして許してもらいました。でもいつか……」
「いいのですよ、綺麗事言わなくても。咲月は産みたくて産んだのです。あんなにいい子に育ってるのだもの、別にいいじゃないですか」
「あの子に声をかけてもいいですか」
「それはだめ」
結月さんは、無垢で前途洋々で未来の塊みたいな朔空君を見て、
「それは、あの子がおとなになったらあの子自身が下す判断です」
と、きっぱり言った。
「咲月と寸分違わぬ姿だけど、似てないんですね」
「ええ、よく言われます」
「その日傘、いつも咲月が差していたのと同じなんで、それで引き寄せられるように近づいてしまいました」
「はい、これは姉のです。あげませんよ」
「いや、そんなつもりじゃ……」
「あの子の母親はわたしです。ご安心下さい」
「ありがとう」
ーありがとう
誰に向かって言ったのか、風に混じって咲月さんの声がした。
50
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる