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第五章
朔空の解答
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朔空君と千弦の生活は、特に大きな変わりはなかった。
変わった事といえば、千弦は小学校教員二年目になり、三年生からの持ち上がりクラスで、四年生の担任になっていた。
ところが、夏休み明けから転校してきた生徒の素行がよろしくなく、授業中に教室を出て行ったり、大声を上げたりして、しばしば授業を中断しなければならない事を気を病んでいたようだ。他人を傷つける事はないが、全く友達が出来ないどころか嫌われている。クラスを崩壊させてはいけないし、授業が進まないという保護者からのクレームにも対応しなければならないらしい。
千弦はいらいらしていた。
「朔空君はいいよね、週に三日もリモートで、ストレスなんかないんでしょ」
朔空君がリモートを選んだのは、仕事内容の分担と仕事量の采配が出来ない上長との衝突を避けるためだった。過酷過ぎて優秀な人材が壊れていくのを見て、上長に掛け合うも返事だけで何も変わらず、朔空君自身が心療内科に通っていたからだ。
理論立てて考えれば考えるほど、不条理で不可解な難問は答えがない。相手が変わらないのであれば、自分が変わるしかないのだ。
「ぼくがリモートにした訳、こないだ説明したよね。だからね、ぼくは転職を考えている」
千弦は口を尖らせて、
「子供って大変なの。その親はもっと大変。朔空君はやった事ないからわからないの。私、鬱になっちゃうかも」
「大変なのはわかるよ。でも、簡単にそんな事を口にしない方がいいよ。その病で苦しんでる人がいるんだから。ぼくだって言いたくないけど、適応障害という診断だ」
「適応障害なんか鬱じゃない」
千弦は、まるで鬱が格上のような言い方をした。この言い合いはいつまで続くのだろう。ぼくは萎れそうなほど聴いていたくなかった。
「あのさ、千弦は小学校の先生になりたくてなったんでしょ。もちろん他の先生方とも話し合ってるとは思うけど……効果あるかわからないけれど、絵日記書かせたら? 日記でもいいんだけど出来れば絵日記」
千弦は朔空君の方を見ようともせず、
「絵日記? 低学年じゃないのに?」
「そう、絵日記。その子の気持ちや家庭の事がわかるかもしれないよ」
「朔空君て甘いよ」
それからしばらく、千弦は学校を休んでいた。
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千弦が頻繁に休んだり遅刻したりする日が続くので、朔空君の心配は続いた。二言目には、「私、鬱だから」と返答する。
「辛いなら心療内科に行こう。適切な対処をしないと辛いままだよ」
朔空君の心配をよそに、千弦は「リフレッシュしてくる」と、休日に友人と遊びに出掛けて行く事もあった。
「千弦が元気にならないと、来年の結婚式、出来なくなっちゃうよ。やりたいんだろ、誕生日に」
「それはだめ! 絶対にやるの」
「じゃあ、ちゃんと病院に行くのが先。ぼくだって自分を俯瞰したり試したりして、その結果が正しいかどうかをカウンセラーさんに確認して回復した。転職は結婚式を終えて落ち着いたらにするつもり」
千弦は、話を聴いていたのかいないのか、
「私には夢があるの。二十三で結婚したら、二十五までに家を建てて、その後すぐに子供を産むの」
「それって夢なの? とにかく実現させるためにも、ふたりで協力して乗り越えよう」
やっとの事で、千弦は通院を承知したが、朔空君がついて行く事は断固拒否した。
「鬱でした。薬もらってきました。はい」
千弦は薬袋をテーブルに置いて朔空君に見せた。
鬱と言ってもいろいろあるが、診断内容を朔空君に話す事はなかった。
千弦は結婚式の話になると、朔空君の手をぐいぐい引っ張るように、積極的に動いた。コーディネーターとの打ち合わせも、はきはきと希望を伝え、ほとんど朔空君は出る幕がなかったようだ。
ある日の事、披露宴の時にモニターに映し出す写真を選んでいた。
千弦の幼い頃から現在に至るまでの写真、どれを見ても天使のように可愛い。ひとり娘で大事に育てられたのだろうという事が伝わってくる。ウエディングドレス姿もとびきり可愛いだろう事は、ぼくにも簡単に想像がつく。
朔空君の知っているキイの登場は、千弦が中学生の頃だったようだが、その前にも、初代キイがいたようだ。
「ほんと、ママって猫好きなのか、キイという名前が好きなのか、乙女」
そう言いながら、千弦は取り込んだ昔の写真をスワイプして、何枚かを選んだ。
「朔空君のも猫と一緒に写ってるのにしようよ。お互い子供の頃から白猫を飼ってましたって。良くなーい?」
「飼ってた、より、家族でした、の方がいいんじゃないかな」
「そうだね。あ、アラジンみたいな格好してる。保育園の時? 可愛い、これ絶対選ぼうよ。あと砂に絵を描いてるのもいい。あ、これが結月さんが言ってた庭の百日草? すごい綺麗。朔空君の家に行った時は冬だったから、咲いてなかったんだよね」
千弦は、もう一度朔空君のアラジンや運動会の写真を首を傾げながらじろじろ見ていたが、やがて、
「ほんと、朔空君て小さい頃から目が大きくて可愛かったんだね。朔空君が今も格好よくて良かった。絶対私とお似合いだよね、いひひ」
と笑う。
「千弦、ひとつお願いがあるのだけど。詩の朗読を入れたいんだ」
「誰の?」
「ぼくを生んでくれた母の作った詩」
「いいんじゃない」
千弦は元気ではないか、とぼくは思った。
しばらくして、ようやく親同士の顔合わせが実現した。
その時の結月さんの衝撃は、千弦のために誂えたピンクで可憐な花束を落としそうになる程だった。
千弦をどこかで会った事があると思った理由が、そこにあったからだ。年月は経っていても、忘れるはずのない環先生の顔が、そこにあったからだ。
「…………なんで」
目を見開き固まった結月さんに、環先生は目を潤ませ首を横に振る。
結月さんは大きく息を飲み、その場を何事もないようにやり過ごしたが、その心の内をぼくは丸ごと察する事が出来た。
結月さんと環先生は、この時、朔空君と千弦のために、過去の一部を封印する事を約束したのだった。
結婚式の春は、もうそこまで来ていた。
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