お姫さんと呼ばないで

秋月朔夕

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 舞踏会の中に入ると彼はすぐに人に囲まれた。もともとの容姿に加えて、貿易の事業にも成功している彼と繋がりたい人は老若男女関係なく多い。わたしはあっという間に引き離されてしまった。
 (さてどうしよう)
  会場は人で賑わっているけれど、ほとんど家に居たわたしには知り合いがいないので踊るのも誰かと話して時間を潰すのも難しいだろう。それにわたしはあの方の妻だ。彼の交友関係が分かっていない今むやみに人脈を広げようとするのは賢くない。
 (とりあえず庭園でも散策してこようかな)
  外ならば、あまり人もいないだろうから一人で居てもそこまで浮かないだろう。一度振り返り彼の姿を見れば、今度は何人かの若い女性達が彼を取り囲んでいる。
 (邪魔したら駄目よね)
  ジクジクと痛む胸を押さえてわたしは会場を後にした。



 「はぁ……」
  せっかくの綺麗な庭園を見ているのに気が晴れない。頭によぎるのは先程の光景。わたしと居る時と違って楽しそうだった。
 「上手くいかないな」
  周囲に人がいないことで弱音が零れる。池の前でしゃがみこみ映った満月を見つめると自分にはない堂々とした光が眩しかった。そのまま泣きそうになった時ふと砂利道を踏み込む音が後ろから聞こえた。
 「……もしかして薫子?」
 「和真様」
  こんな偶然があるのだろうか。現れたのはわたしの婚約者だった和真様だ。何年かぶりに見る彼は背はわたしよりも頭一つ分以上大きくなっていたし、声は低くなっていた。けれど少しだけ色素の薄い髪も、口の端にあるホクロも優しげな顔立ちも何も変わっていない。込み上げる懐かしさにどちらともなく駆け寄った。
 「久しぶりだな」
 「はい、お久しぶりでございます。留学から帰っておられたのですね」
 「……ああ、先月な。薫子、お前には悪いことをして申し訳ないと思っている」
  腰まで直角の詫びにわたしは慌てる。このままでは土下座でもしそうだ。和真様はいつもそうだ。誠実で優しくて嘘が付けなくて太陽みたいな方だ。
 「謝るなんて止めてくださいっ! お家のことを考えると仕方ないことだったのです」
 「だが、俺はお前を……」
 「わたし結婚したんです」
 「…………え?」
  驚いて動きが止まった彼はこの事実を知らなかったようだ。
 「っ、それは、おめでとう。知らなかったな。今日は一緒に来ていないのかい?」
  出来れば聞いてほしくない質問だった。脳裏にまた先程の光景が蘇り、心臓が押しつぶされたかのように苦しい。けれど、彼の顔を潰す訳にはいかない。
 「その、気分がすぐれなくて……抜け出して来たのです」
  嘘は付いていない。しかし相手の心配を煽るようなことをすべきではなかった。
 「それならこんな所に居ないでもっと休める所に行かなきゃいけないじゃないか!」
  あちらに横になれそうなくらい大きな椅子がある、と腕を引っ張って彼は誘導しようとする。
 「いっ、いえ! もう楽になってきたので大丈夫にございます」
 「……本当かい? 薫子はすぐに無理をするから私は心配なのだよ」
  わたしを覗き込むようにして彼はわたしを見つめる――その時だった。


 「こんな所で何をしている?」
  振り返れば眉間に皺を寄せた誠一郎様が立っていた。どことなく剣のある声が彼の不機嫌さを証明している。
 「気安く俺の妻に触れないでもらおうか」
 「……あ」
  今まで意識していなかったけれど、わたしと和真様の手は繋がれたままだ。慌てて離れたが、そのことが余計にやましさがあると言ってしまったようなものだった。
 (違うのに……)
 「来い」
  わたし達に弁明する暇なく彼はそのままわたしの腕を強い力でひっぱていく。向かう先は馬車のようだ。別れの礼くらいはしようと振り返るとさらに強く腕を握られる。あまりの痛みに呻くが彼にはもう聞こえていないようでそのまま馬車にわたしを押し込み屋敷まで走らせるのだった。




  わたしの部屋に着いてからもお互い座ることもなく対峙している。永遠の黙が場を支配しているようで、空気は重く、ひしひしと肌に彼の怒りが突き刺さった。迫力のある彼に睨まれればわたしはその視線を直視出来ずに俯く。そのことが余計に彼の怒りを増幅させてしまった。
 「逢引は楽しかったか」
  皮肉気に放たれた言葉にわたしはいかに彼に信用されていないのか思い知る。
 「逢引なんかしておりません」
 「そんな言葉で信じられるとでも思うのか」
  確かにそうだ。ほとんど会話すらしてこなかったわたしの言葉なんて彼は信じやしないだろう。だからここで言い募った所で無意味だ。
 「……では何をすれば信じて貰えますか?」
 「ほう。言葉ではなく行動で示してくれるのか」
わたしの覚悟を試すかのようにどこまでも残忍に嗤う彼の顔はどこまでも歪だった。
 (ひどいことをする気なのかもしれない)
  それは直感だったが事実だろう。だって、縦に頷いたわたしを見て一層笑みを濃くしたのだから。
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