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四
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ああ。クソッ! 苛々が止まらない。思えばこの娘が屋敷に来てから、俺は常に胸がムカムカしている。
――大切にするはずだった。誰よりも、俺の手の中で。
それなのにあの娘はよりによって違う男に嫁ぎに来たと思っていたんだ。今でも忘れることができない沸騰直前の怒りの感情。眼の前が真っ赤になって本当はあのまま犯そうと考えてしまった。踏みとどまったのは彼女よりも年上としての矜持と軽蔑されるのが恐ろしかったからだ。思えば出会った時から彼女は清らかで美しかった。腰まである艶やかな髪も、雪のように白い肌も零れ落ちそうな程に大きな瞳も凛とした姿勢の良さも。物語に出てくるお姫さんを体言しているかのようだ。
(一番違うのは手だな)
あんなに小さくてささくれ一つない程なめらかな手を俺は知らない。それは大事に守られてきたからこそ育ったお姫さんの手だ。俺なんかの無骨な手とは違う。だからこそ守りたいと思えるのだ。
(…………薫子さん)
今までに何度心の中で呼びかけただろうか。けれど実際に口に出したことはない。平民風情の俺が彼女を呼んでしまったら、お姫さんを汚してしまうような気持ちになってどうしても呼べなかったのだ――けれど俺は呼んでおくべきだったのだ。あの男が気安く彼女の名前を呼ぶくらいなら。
まず最初の失敗はお姫さんと会う時間を作れなかったことから始まる。怒りを抑えるために部屋を出てしまったが、思えばあの日にきちんと話し合うべきだったんだ。なぜなら次の日俺が彼女を訪ねようとした時に仕事の凶報が俺の耳に入りその対処に追われることとなったのだ。見計らったかのような間の悪さに苛立ちを感じたが、こればかりは仕方のないことだ。俺が稼がなければお姫さんが苦労してしまう。そんなことをさせないために夫婦になったのだ。
(けれど、一緒の屋敷にいるのに全く会えないのはなかなか堪える)
顔を見たい気持ちはある。だが一度機会がずれてしまった今、どんな顔で会えばいいのか。あの時ひどいことを言ってしまったからだ。思い出すのは自分の吐いた暴言。
『別に俺個人がお前のようなお姫さん(おひいさん)を望んだわけではない』
お姫さんが自分の所に嫁ぎにきたのではない、と知ったせいであの時の俺は冷静ではなかった。しかしそんなこと言い訳になるものか。俺が言い放ったことでお姫さんはきつく眉根を寄せて泣くのを我慢するかのように胸元をきつく握りしめていた。
(俺のせいでお姫さんが傷ついてしまった)
あんな顔させたくなかったのに。だからなにかきっかけを探したのだ。俺がもう一度お姫さんに会うきっかけを。
それを見つけたのは仕事が落ち着いた次の日のことだった。佐田が舞踏会に誘えばいいと進言してきたのだ。
(そうか! その手があったか)
俺が舞踏会に顔を出すのはもっぱら仕事相手の商談情報を集めたり、上層部の人間関係がどうなっているか腹の探り合いを調べるために使っているためあまり楽しいものではない。だがお姫さんならどうだろうか。流行のワンピースに身をくるんで華やかな舞台に行けば、少しは気晴らしが出来るのではないか。
(いいかもしれない)
賑やかな音楽に上手い飯。それに俺が贈り物をしてもなんの不自然にはならない。そう考えると俺の心まで浮き足立つ。
――だが俺はこの時舞踏会に参加する者をちゃんと確認するべきだったのだ。そうすれば元婚約者殿がいる席になんか絶対に連れて行かなかったのに……!
会場まで走らせている馬車の中は沈黙が降り注いでいた。お姫さんは俯いていて顔が見えない。だから何を考えているかよく分からなかった。
(ああっ! こういう時気の利いた男ならなんて声を掛けるのか)
そもそも気の利いた男なら、突然口付けなんかしないのかもしれない。だが俺はあの時猛烈に我慢が出来なかったのだ。真珠の首飾りを着ける時のお姫さんとの距離はあまりに近かった。
(花のような甘い匂いがした)
その匂いに酔いしれるようになにも考えずに口付けてしまえば、お姫さんが俺の胸を押して嫌がったのだ。
(本当に俺はなんてことをしてしまったんだ)
ほとんど会ったこともない男の口付けなんか嫌にきまっている。それなのにそんなことを忘れるなんて馬鹿以外なにものでもない。どう挽回すればいいのか。考えるほどに空回り、そのことで頭がいっぱいになる。そのせでいつ会場に着いたのか分からない。だからお姫さんから眼を離してしまうことになったのだ。気付いたのは女達に囲まれている時だ。条件反射のように適当に彼女達が喜ぶような言葉を選んでいると突然一人の女が窓を指す。
「……ねぇ、ご覧になって? 素敵ではありません」
なにげなく見やるとお姫さんと元婚約者殿が二人きりで庭園に居たのだ。それを見た瞬間、俺は会場を飛び出した。
(なんでアイツがお姫さんと居る……?)
逢引でもしているのだろうか。いや、そんなはずはない。舞踏会に行くと告げたのは今日だ。それなら計画なんて練りようがない。だからたまたま遭遇しただけだ。走りながらなんとか自分を納得させようとする。だが、それもあの光景を見るまでだった。
「……本当かい? 薫子はすぐに無理をするから私は心配なのだよ」
たまたま聞こえてきた言葉は俺との生活でお姫さんが疲れたのだと詰っているように聞こえた。
(っ、お前が気安くお姫さんを呼び捨てるな!)
自分では越えられなかった垣根をいとも簡単に超えられた悔しさと二人の唇が触れ合いそうな距離に俺は心の底から怒りが湧きあがった。早く二人を引き離したくて力任せに彼女の手を掴みとったまま、馬車まで押し込み屋敷に向かうことにする。
(どうしてあんな奴と手を繋いでいたんだ)
だってあいつはお姫さんの家が借金があると知って破談したような奴だ。そんな奴に今更奪われるなんておかしいだろう――そんなことになるくらいなら俺が奪ってやる……!
込み上げる激情は俺の理性を狂わせる。そしてこの時の俺は気付くことが出来なかった。ちゃんと話し合うことをしなかったせいで、俺と彼女は一方的な関係が成立してしまうことに……
――大切にするはずだった。誰よりも、俺の手の中で。
それなのにあの娘はよりによって違う男に嫁ぎに来たと思っていたんだ。今でも忘れることができない沸騰直前の怒りの感情。眼の前が真っ赤になって本当はあのまま犯そうと考えてしまった。踏みとどまったのは彼女よりも年上としての矜持と軽蔑されるのが恐ろしかったからだ。思えば出会った時から彼女は清らかで美しかった。腰まである艶やかな髪も、雪のように白い肌も零れ落ちそうな程に大きな瞳も凛とした姿勢の良さも。物語に出てくるお姫さんを体言しているかのようだ。
(一番違うのは手だな)
あんなに小さくてささくれ一つない程なめらかな手を俺は知らない。それは大事に守られてきたからこそ育ったお姫さんの手だ。俺なんかの無骨な手とは違う。だからこそ守りたいと思えるのだ。
(…………薫子さん)
今までに何度心の中で呼びかけただろうか。けれど実際に口に出したことはない。平民風情の俺が彼女を呼んでしまったら、お姫さんを汚してしまうような気持ちになってどうしても呼べなかったのだ――けれど俺は呼んでおくべきだったのだ。あの男が気安く彼女の名前を呼ぶくらいなら。
まず最初の失敗はお姫さんと会う時間を作れなかったことから始まる。怒りを抑えるために部屋を出てしまったが、思えばあの日にきちんと話し合うべきだったんだ。なぜなら次の日俺が彼女を訪ねようとした時に仕事の凶報が俺の耳に入りその対処に追われることとなったのだ。見計らったかのような間の悪さに苛立ちを感じたが、こればかりは仕方のないことだ。俺が稼がなければお姫さんが苦労してしまう。そんなことをさせないために夫婦になったのだ。
(けれど、一緒の屋敷にいるのに全く会えないのはなかなか堪える)
顔を見たい気持ちはある。だが一度機会がずれてしまった今、どんな顔で会えばいいのか。あの時ひどいことを言ってしまったからだ。思い出すのは自分の吐いた暴言。
『別に俺個人がお前のようなお姫さん(おひいさん)を望んだわけではない』
お姫さんが自分の所に嫁ぎにきたのではない、と知ったせいであの時の俺は冷静ではなかった。しかしそんなこと言い訳になるものか。俺が言い放ったことでお姫さんはきつく眉根を寄せて泣くのを我慢するかのように胸元をきつく握りしめていた。
(俺のせいでお姫さんが傷ついてしまった)
あんな顔させたくなかったのに。だからなにかきっかけを探したのだ。俺がもう一度お姫さんに会うきっかけを。
それを見つけたのは仕事が落ち着いた次の日のことだった。佐田が舞踏会に誘えばいいと進言してきたのだ。
(そうか! その手があったか)
俺が舞踏会に顔を出すのはもっぱら仕事相手の商談情報を集めたり、上層部の人間関係がどうなっているか腹の探り合いを調べるために使っているためあまり楽しいものではない。だがお姫さんならどうだろうか。流行のワンピースに身をくるんで華やかな舞台に行けば、少しは気晴らしが出来るのではないか。
(いいかもしれない)
賑やかな音楽に上手い飯。それに俺が贈り物をしてもなんの不自然にはならない。そう考えると俺の心まで浮き足立つ。
――だが俺はこの時舞踏会に参加する者をちゃんと確認するべきだったのだ。そうすれば元婚約者殿がいる席になんか絶対に連れて行かなかったのに……!
会場まで走らせている馬車の中は沈黙が降り注いでいた。お姫さんは俯いていて顔が見えない。だから何を考えているかよく分からなかった。
(ああっ! こういう時気の利いた男ならなんて声を掛けるのか)
そもそも気の利いた男なら、突然口付けなんかしないのかもしれない。だが俺はあの時猛烈に我慢が出来なかったのだ。真珠の首飾りを着ける時のお姫さんとの距離はあまりに近かった。
(花のような甘い匂いがした)
その匂いに酔いしれるようになにも考えずに口付けてしまえば、お姫さんが俺の胸を押して嫌がったのだ。
(本当に俺はなんてことをしてしまったんだ)
ほとんど会ったこともない男の口付けなんか嫌にきまっている。それなのにそんなことを忘れるなんて馬鹿以外なにものでもない。どう挽回すればいいのか。考えるほどに空回り、そのことで頭がいっぱいになる。そのせでいつ会場に着いたのか分からない。だからお姫さんから眼を離してしまうことになったのだ。気付いたのは女達に囲まれている時だ。条件反射のように適当に彼女達が喜ぶような言葉を選んでいると突然一人の女が窓を指す。
「……ねぇ、ご覧になって? 素敵ではありません」
なにげなく見やるとお姫さんと元婚約者殿が二人きりで庭園に居たのだ。それを見た瞬間、俺は会場を飛び出した。
(なんでアイツがお姫さんと居る……?)
逢引でもしているのだろうか。いや、そんなはずはない。舞踏会に行くと告げたのは今日だ。それなら計画なんて練りようがない。だからたまたま遭遇しただけだ。走りながらなんとか自分を納得させようとする。だが、それもあの光景を見るまでだった。
「……本当かい? 薫子はすぐに無理をするから私は心配なのだよ」
たまたま聞こえてきた言葉は俺との生活でお姫さんが疲れたのだと詰っているように聞こえた。
(っ、お前が気安くお姫さんを呼び捨てるな!)
自分では越えられなかった垣根をいとも簡単に超えられた悔しさと二人の唇が触れ合いそうな距離に俺は心の底から怒りが湧きあがった。早く二人を引き離したくて力任せに彼女の手を掴みとったまま、馬車まで押し込み屋敷に向かうことにする。
(どうしてあんな奴と手を繋いでいたんだ)
だってあいつはお姫さんの家が借金があると知って破談したような奴だ。そんな奴に今更奪われるなんておかしいだろう――そんなことになるくらいなら俺が奪ってやる……!
込み上げる激情は俺の理性を狂わせる。そしてこの時の俺は気付くことが出来なかった。ちゃんと話し合うことをしなかったせいで、俺と彼女は一方的な関係が成立してしまうことに……
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