お姫さんと呼ばないで

秋月朔夕

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一人で帰ってきたことで使用人にどうしたのかと聞かれたが、泣き顔を見せたくなくて俯いたまま気分がすぐれないので抜けてきたというと、わたしのか細い声に納得したのか心配の言葉と共に、医者を呼ぶかと聞かれたが、とりあえず眠りたいので人を近づけないように、とだけ頼み込み自分の部屋に向かった。


  部屋に入るとこれまで張りつめていた緊張が嘘のように、はしたなくもズルズルと床に座り込む。
  ――誰も見ていない。だから誰の眼も気にしなくてもいい。
  そのことが今のわたしに安心をもたらせるのだ。
 (用意していたネクタイ無駄になってしまったわね……)
  引出に隠していた長方形の箱をそっと取り出し、中身を空ける。むき出しになったネクタイを掴んで、そのまま捨てようとして、止まる。
 (もう渡すことなんて出来ないのに)
  彼にふさわしい人を見てしまったのにどうして渡すことが出来ようか。だけど、それでもこの一週間ずっと彼にどんな贈り物をあげようか考えて、やっと形にしたのだ。形にできたのだ。彼と向き合おうという覚悟を――だからこれを捨てるというのはその覚悟も捨てるということだ。
 (こんなことなら気付きたくなかった)


  自分が彼のことを好いていることなんか。どうして自覚してしまったのだろう……そうしたらこんなに苦しい思いを知らなくてすんだのに。痛くて、もどかしくて、切ない想いが滂沱な涙となって溢れてくる。ネクタイを握りしめる手が白くなるくらい強く掴み、身体を縮めこませるとこの上なく惨めな気持ちのまま床に座り込んで考える。わたしはこれからどうやってこの館に過ごしていけばいいのだろう。きっと彼は変わらずわたしを抱くのだろう。はたしてわたしは耐えられるのか。
 (逃げてしまおうか……)
  家のことも何もかも忘れてこのまま誰もわたしのことを知らない場所に行ってみたい。非現実的なことを夢想している時に突然扉が開かれた。

 「だんな、さま……」
  どうして彼がここに居るにのだ。わたしが帰ってきてからそこまで時間が経っていない。つまりそれはわたしが居ないことに気付いて館へ戻ってきたということか。混乱したせいでわたしはこの時、ネクタイを広げたままだという事実が頭から抜け落ちていた。
 「……なんだ、それは」
  明かりをつけていなかったせいで、彼の表情は見えない。けれど低い声が不機嫌さを表している。
 (どうしよう。見られたの?)
  いまさら彼に贈れもしないものなのに。わたしは慌てて後ろに隠すがもう遅いのだろう。大股でわたしに近づき、そして取り上げる。
 「ネクタイ? こんなモノがなんでお前が持っている」 
 「お願いします。返してください」
  慌てて取り返そうとしたが、彼の頭上で広げられていて、無様に跳ね上がっても背丈の違いのせいで掠りもしない。そのことが堪らない羞恥心で顔を紅くさせる。
 「……質問に答えたら返してやる」
  憮然と言い放つ彼のなんと残酷なことか。
 (言えるわけないでしょう)
  本当のことを言ったところで、自分がさらに惨めになるだけだ。下唇を噛んで言いあぐねるわたしに、彼は苛立たしげに、わたしの顎を掴み強制的に眼を合わせる。
 「そんなにやましいモノでも発見されたか」
  鼻を鳴らしてわたしを追いつめようとする彼に、わたしも内心苛立った。ムクムクと湧き上がる反抗心に身を任せ、思い切り彼を傷付けたい。その矜持を少しでもへし折ってやりたかった。だから彼が逆上しそうな答えを探したのだ。
 「……別に、そのような不誠実なものではありません。これは、わたしが和真様に贈ろうと用意していただけです。ただ婚約が破棄されたので、どう処分しようか考えていただけにございます――気に入ったのなら差し上げますよ」
  挑発的に睨み返せば、彼はわなわなと震えた。
 「そうか。ではもう要らないのだな?」
 「ええ。どうせなら貴方様に差し上げますよ」
 「……お姫さんは男を煽るのが上手いな――そうだな。せっかくのお姫さんのご厚意だ。俺が預かってやろう」
  意外な展開に眼を見開いて驚いた直後、強引に床に押し倒され、眼が何かに覆われる。
 「な、に……?」
  しゅるしゅると強引に着物を剥いでいく音が聞こえる。知らずに震えるわたしに、彼は噛み付くように口付けてきた。
 「っ、んぁ……んんっ」
  息も出来ない苦しさに生理的な涙を流すとようやく彼は離れるが、ようやく新鮮的な空気を吸えることに夢中になったわたしは目隠しを解くことが出来なかった。彼はその隙にわたしの両手を何かの紐で縛り上げ、逃げ出さないようにしたのだ。
 「おいおい、こんなことで泣いていてはこの先どうなる? アンタが俺を煽ったんだ。まさか優しくして貰えるとでも思っているのか。だとしたら少し俺はアンタを甘やかせてしまったようだな」
  いつのまにか全ての肌がさらけ出されているせいで、外気が直接肌に触れる。肌が泡立ったのは彼の言葉か、寒さのせいかわたしには分からないが、言葉尻からわたしを嘲笑する響きがうかがえる。そのせいでわたしは意固地になってしまった。今度はわたしから口付けて、思い切り噛んでやる。自分でもこんな大胆なことをするなんて意外であった。
 「……もう貴方には抱かれる気はありません」
  自分の舌にも広がる血の味は、罪悪感の味のように苦い。けれど、わたしはもう彼に抱かれるなんて出来ない。だって脳裏にはどうしてもあの美しい女性が思い浮かんで苦しいのだ。今までのようにそんなことされたら、わたしの心が壊れてしまう。
 「お願いします。貴方に少しでもわたしを労わる心があるのだというのなら、わたしに触れないで……」
  本格的に涙を流すわたしに彼が唸る音がすぐ傍で聞こえる。
 「そんな、勝手が許されるとでもいうのか。忘れるな。お前は俺が買ったのだぞ……お前は俺の妻になったのだっ!」
  絞り切るように最後は自分に言い聞かせるように叫ぶとわたしの顔すれすれに床を思い切り叩く。
 「……では、離縁をして下さい。そうしたら貴方との関係はなくなる」
  ぽつりと呟いた言葉に彼は今度こそ絶句したようだった……

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