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十
――今、彼女はなんと言った……?
信じたくもない言葉が頭の中で反遇する。どうして、なんて聞けない。だって彼女はこの館に来てから一度も笑みを見せることがなかった。辛いだけの生活。そんなこといつまでも高貴なお姫さんが我慢出来るとは思っていなかった。
(だが、今更俺が貴女を手放せると思っているのか)
もしそうだとしたら初めから婚儀なんて結んでいない。俺を馬鹿にするのも大概にしろ。俺はアンタが欲しいんだ。いっそ恥も外聞もなくみっともなくアンタに縋れば良いのか。けれど、そんなことでお姫さんが俺に振り向くとは思えない。
(ちくしょう……どうしてこうなった!)
生まれた日くらい彼女と過ごしたかっただけなのに。俺が用意した一級品の着物と簪に身をくるんだ彼女と共に過ごしたかった。けれど、俺が彼女の部屋を訪れた途端、お姫さんの表情が硬くなったのを見てしまったのだ。それに気付いた途端、俺は言いようのないもどかしさで胸が焦れ、つい言葉がきつくなってしまう。仕事相手や使用人などには自分の感情を制御出来るというのに、一番肝心なお姫さんが相手だと、何故か上手く接してやることが出来なくて歯がゆい。
(一回りも離れているというのに、なんて大人げないのだ)
自分の余裕のない態度のせいで彼女を頑なにさせていることに気付いているのに止められないだなんて、本当に俺は馬鹿野郎だ。しかし結局俺は感情の波に逆らうこともなく、威圧的に彼女を誘うのだから自分でもどうしようもない男だと思ったのと同時に、そんな俺を冷静に対処する彼女の姿に猛烈な苛立ちを覚え、無意識に彼女の腕を強く掴んでしまった。感情のまま握ってしまえば、お姫さんは強く叫ぶ。そのことが心地いいことに気付いて、俺は慌てて自分の危険さを振り払うかのように足早に彼女の部屋から退室する。
――いつか激情のままに俺自身がお姫さんを殺してしまうのかもしれない……
その可能性を否定できない愚かさに眩暈がした。
結局、舞踏会に向かう最中も俺とお姫さんが会話することはなかった。否、意識的に避けていたのかもしれない。自分の狂気に満ちた感情がお姫さんに危害を加える可能性があるというのなら、安易に近づかない方が良いと思ったのだ。しかし、それでもお姫さんに俺から離れないように言いくるめてしまったのは諦めきれない未練がましさだ。視界の端に彼女が居る。それだけで安心する。
(今回はあの男が来ていないことくらい調べてあるのに、それでも監視しておきたいなんて我ながら女々しい男だ)
だけど彼女は清楚な百合のように気高いからこそ他の男から声を掛けられにくいだけであって、何人もの男が彼女に見惚れていることが分からないほど愚鈍ではない。
(全く目が離せないお姫さんだ)
自分こそ彼女の蜜に魅かれた虫だというのに、そんな感想を抱くのだから本当におかしく思う。日に日に彼女を離したくない衝動が高まる自分はもう薫子さんへの愛に囚われているのだ。だって、今も女達に囲まれているというのに、彼女のことばかり考えているのだから。
「橘侯爵がいらっしゃいましたね」
隣に居る女性からその名前を聞いて、一瞬顔をしかめそうになるのを堪える。
(今夜来る予定ではなかっただろう)
確か違う夜会に出席すると確認してあったのに、どうしてわざわざこちらに来るのか。真っ直ぐに俺に向かってくる彼女に舌打ちをしたくなった。
「誠一郎さん、久しぶりね」
高飛車な笑みで俺にすり寄る女の香水臭さに内心眉を顰めるが、無論そんなことを表に出すこともなく、社交用の挨拶を返し、周囲を見やるともう俺を囲んでいた女達は居なくなっていた。
(逃げたか)
社交界ではこの女が俺を狙っているというのは皆知っているため、気性の荒い彼女を刺激しないよう去っていくのだ。
「本日は奥方も一緒にいらっしゃっているの?」
「ええ。少し離れていますが、会場の端に居ますよ」
お姫さんの方を教えると橘侯爵が獲物を見つけたかのように口角をあげた。
「まぁ、随分可愛らしいお嬢さんね。どこの家の方だったの」
(ああ……くそっ! だから見せたくなかったのに)
検索してこようとする女に地団太を踏む――ねっとりとした顔で聞いてくるのは、この女がお姫さんを欲しがった証拠である。ごく一部の者しか知らないが橘侯爵は女性愛好者であり、陰で自分の好みの女を何人も手に入れているのを知っている。 そんな彼女が毎回俺の傍にやってくるのは、ただ単に俺を虫除け扱いしているからだ。
「……教えませんよ」
「意地悪をおっしゃらないで……ねぇ、焦らさないで教えてちょうだいよ」
甘く囁く女は自分の魅力が分かっていてやっている。しかし、俺にはお姫さん以外そんなことをしても無駄だ。きっぱりと拒否してやるが、彼女は尚も引く様子がない。ぬけぬけと挨拶くらいさせて頂戴、と言い放つのだから、関わらせたくない俺と攻防を張っている内にふとお姫さんが居ないことに気付く。橘侯爵となんとか別れて、探すと気分がわるくなったので帰っていると聞くので、俺も慌てて館に帰ることにしたのだ。
彼女の部屋の前まで行くと明かりが洩れていない。寝てしまったのかと静かに扉を開けると彼女は床に小さく丸まっている。ふと目を凝らせば、彼女が何かを握りしめている様子が見えた。
「……なんだ、それは」
本能的にそれが嫌なモノに見えて、大股で近づき彼女から取り上げる。それは男物のネクタイであった。どうしてこんな物が彼女の手元にあるというのだ。不審に思えば、彼女は慌てて俺から取り返そうとするので、余計に警戒心が高まる。どうしてこんな物を持っている、という簡単な質問にすら答えられない彼女はコレがやましい物であるのだと公言しているようなものだった。
「そんなにやましいモノでも発見されたか」
苛立ちを吐き捨てるかのように言えばやっと彼女は俺に向きやる――反抗的な眼をして俺を見やったのだ。
「……別に、そのような不誠実なものではありません。これは、わたしが和真様に贈ろうと用意していただけです。ただ婚約が破棄されたので、どう処分しようか考えていただけにございます――気に入ったのなら差し上げますよ」
その言葉は俺を苛立たせるに十分なことであった。怒りのあまり前が見えず、わなわなと身体を震わせて処分の方法を考えてやる。念押しにもう一度いらないのかと聞けば、尚も同じと答えを返されるのだから、彼女は俺の怒りを煽っているのだ。
(なんて憎らしいお姫さんなんだ)
「……お姫さんは男を煽るのが上手いな――そうだな。せっかくのお姫さんのご厚意だ。俺が預かってやろう」
感情的に早口で言いやって、自分でも驚く程手際よく、彼女の眼をネクタイで隠してやりながら肌蹴させてやる。今日という日くらいは反抗的な眼で見られたくなかったのだ。噛み付くように口付ければ、さらに感情の波がさらに大きくなる。
(ちくしょう。どうして俺じゃないんだ……!)
今まで彼女に対してひどいことをしている自覚は確かにある。けれど、今日くらいはそんな物見たくなかった。いっそこのまま殺してやれば、俺は納まるというのか。いや、そんなことしたら絶望で俺は抜け落ちてしまうのだろう。
(愛している。薫子さん、俺は苦しい程にアンタを愛してしまっているんだ――アンタが居なければ、息すら出来ない。だから、逃げないでくれ。そうではないと俺は自分でも何をするか分かっちゃいないんだ。)
そんなことを無意識の内に考えてしまう俺は重症なのだろう。そして逃げ出さないように、俺のネクタイで彼女の両手を縛り上げる俺はもう末期だ。離れた後、自分自身を嘲笑してやれば、ゆっくりと俺に近づいた。
(これは、夢か……?)
初めて彼女から口付けられて信じられない気持ちでお姫さんを見やる。柔らかい唇は紛れもなく彼女自身のモノだ――ああ、もう死んでも良い。そう思うくらい幸せなことだったのだ。しかし、現実は残酷なものだった。彼女が俺に噛み付き、もう終わりにして欲しいと告げるのだから。彼女はただ反撃のために口づけたに過ぎなかったのだ。血の味と、彼女が俺を拒絶する声がやけに鮮明に聞こえた。
(薫子さんは随分と残酷なのだな)
天国から地獄まで俺の気分を落としあげるのだから。そもそもどうして俺は期待してしまったのか。そんなことをしたらこの地獄が余計に辛くなるだけなのに――虚しさを激昂にすり替えて俺は叫ぶ。
「そんな、勝手が許されるとでもいうのか。忘れるな。お前は俺が買ったのだぞ……お前は俺の妻になったのだっ!」
血反吐を吐く想いは彼女に伝わることはなく、あっさりと離縁を願われる――俺はもう絶句するしかなかったのだ。
信じたくもない言葉が頭の中で反遇する。どうして、なんて聞けない。だって彼女はこの館に来てから一度も笑みを見せることがなかった。辛いだけの生活。そんなこといつまでも高貴なお姫さんが我慢出来るとは思っていなかった。
(だが、今更俺が貴女を手放せると思っているのか)
もしそうだとしたら初めから婚儀なんて結んでいない。俺を馬鹿にするのも大概にしろ。俺はアンタが欲しいんだ。いっそ恥も外聞もなくみっともなくアンタに縋れば良いのか。けれど、そんなことでお姫さんが俺に振り向くとは思えない。
(ちくしょう……どうしてこうなった!)
生まれた日くらい彼女と過ごしたかっただけなのに。俺が用意した一級品の着物と簪に身をくるんだ彼女と共に過ごしたかった。けれど、俺が彼女の部屋を訪れた途端、お姫さんの表情が硬くなったのを見てしまったのだ。それに気付いた途端、俺は言いようのないもどかしさで胸が焦れ、つい言葉がきつくなってしまう。仕事相手や使用人などには自分の感情を制御出来るというのに、一番肝心なお姫さんが相手だと、何故か上手く接してやることが出来なくて歯がゆい。
(一回りも離れているというのに、なんて大人げないのだ)
自分の余裕のない態度のせいで彼女を頑なにさせていることに気付いているのに止められないだなんて、本当に俺は馬鹿野郎だ。しかし結局俺は感情の波に逆らうこともなく、威圧的に彼女を誘うのだから自分でもどうしようもない男だと思ったのと同時に、そんな俺を冷静に対処する彼女の姿に猛烈な苛立ちを覚え、無意識に彼女の腕を強く掴んでしまった。感情のまま握ってしまえば、お姫さんは強く叫ぶ。そのことが心地いいことに気付いて、俺は慌てて自分の危険さを振り払うかのように足早に彼女の部屋から退室する。
――いつか激情のままに俺自身がお姫さんを殺してしまうのかもしれない……
その可能性を否定できない愚かさに眩暈がした。
結局、舞踏会に向かう最中も俺とお姫さんが会話することはなかった。否、意識的に避けていたのかもしれない。自分の狂気に満ちた感情がお姫さんに危害を加える可能性があるというのなら、安易に近づかない方が良いと思ったのだ。しかし、それでもお姫さんに俺から離れないように言いくるめてしまったのは諦めきれない未練がましさだ。視界の端に彼女が居る。それだけで安心する。
(今回はあの男が来ていないことくらい調べてあるのに、それでも監視しておきたいなんて我ながら女々しい男だ)
だけど彼女は清楚な百合のように気高いからこそ他の男から声を掛けられにくいだけであって、何人もの男が彼女に見惚れていることが分からないほど愚鈍ではない。
(全く目が離せないお姫さんだ)
自分こそ彼女の蜜に魅かれた虫だというのに、そんな感想を抱くのだから本当におかしく思う。日に日に彼女を離したくない衝動が高まる自分はもう薫子さんへの愛に囚われているのだ。だって、今も女達に囲まれているというのに、彼女のことばかり考えているのだから。
「橘侯爵がいらっしゃいましたね」
隣に居る女性からその名前を聞いて、一瞬顔をしかめそうになるのを堪える。
(今夜来る予定ではなかっただろう)
確か違う夜会に出席すると確認してあったのに、どうしてわざわざこちらに来るのか。真っ直ぐに俺に向かってくる彼女に舌打ちをしたくなった。
「誠一郎さん、久しぶりね」
高飛車な笑みで俺にすり寄る女の香水臭さに内心眉を顰めるが、無論そんなことを表に出すこともなく、社交用の挨拶を返し、周囲を見やるともう俺を囲んでいた女達は居なくなっていた。
(逃げたか)
社交界ではこの女が俺を狙っているというのは皆知っているため、気性の荒い彼女を刺激しないよう去っていくのだ。
「本日は奥方も一緒にいらっしゃっているの?」
「ええ。少し離れていますが、会場の端に居ますよ」
お姫さんの方を教えると橘侯爵が獲物を見つけたかのように口角をあげた。
「まぁ、随分可愛らしいお嬢さんね。どこの家の方だったの」
(ああ……くそっ! だから見せたくなかったのに)
検索してこようとする女に地団太を踏む――ねっとりとした顔で聞いてくるのは、この女がお姫さんを欲しがった証拠である。ごく一部の者しか知らないが橘侯爵は女性愛好者であり、陰で自分の好みの女を何人も手に入れているのを知っている。 そんな彼女が毎回俺の傍にやってくるのは、ただ単に俺を虫除け扱いしているからだ。
「……教えませんよ」
「意地悪をおっしゃらないで……ねぇ、焦らさないで教えてちょうだいよ」
甘く囁く女は自分の魅力が分かっていてやっている。しかし、俺にはお姫さん以外そんなことをしても無駄だ。きっぱりと拒否してやるが、彼女は尚も引く様子がない。ぬけぬけと挨拶くらいさせて頂戴、と言い放つのだから、関わらせたくない俺と攻防を張っている内にふとお姫さんが居ないことに気付く。橘侯爵となんとか別れて、探すと気分がわるくなったので帰っていると聞くので、俺も慌てて館に帰ることにしたのだ。
彼女の部屋の前まで行くと明かりが洩れていない。寝てしまったのかと静かに扉を開けると彼女は床に小さく丸まっている。ふと目を凝らせば、彼女が何かを握りしめている様子が見えた。
「……なんだ、それは」
本能的にそれが嫌なモノに見えて、大股で近づき彼女から取り上げる。それは男物のネクタイであった。どうしてこんな物が彼女の手元にあるというのだ。不審に思えば、彼女は慌てて俺から取り返そうとするので、余計に警戒心が高まる。どうしてこんな物を持っている、という簡単な質問にすら答えられない彼女はコレがやましい物であるのだと公言しているようなものだった。
「そんなにやましいモノでも発見されたか」
苛立ちを吐き捨てるかのように言えばやっと彼女は俺に向きやる――反抗的な眼をして俺を見やったのだ。
「……別に、そのような不誠実なものではありません。これは、わたしが和真様に贈ろうと用意していただけです。ただ婚約が破棄されたので、どう処分しようか考えていただけにございます――気に入ったのなら差し上げますよ」
その言葉は俺を苛立たせるに十分なことであった。怒りのあまり前が見えず、わなわなと身体を震わせて処分の方法を考えてやる。念押しにもう一度いらないのかと聞けば、尚も同じと答えを返されるのだから、彼女は俺の怒りを煽っているのだ。
(なんて憎らしいお姫さんなんだ)
「……お姫さんは男を煽るのが上手いな――そうだな。せっかくのお姫さんのご厚意だ。俺が預かってやろう」
感情的に早口で言いやって、自分でも驚く程手際よく、彼女の眼をネクタイで隠してやりながら肌蹴させてやる。今日という日くらいは反抗的な眼で見られたくなかったのだ。噛み付くように口付ければ、さらに感情の波がさらに大きくなる。
(ちくしょう。どうして俺じゃないんだ……!)
今まで彼女に対してひどいことをしている自覚は確かにある。けれど、今日くらいはそんな物見たくなかった。いっそこのまま殺してやれば、俺は納まるというのか。いや、そんなことしたら絶望で俺は抜け落ちてしまうのだろう。
(愛している。薫子さん、俺は苦しい程にアンタを愛してしまっているんだ――アンタが居なければ、息すら出来ない。だから、逃げないでくれ。そうではないと俺は自分でも何をするか分かっちゃいないんだ。)
そんなことを無意識の内に考えてしまう俺は重症なのだろう。そして逃げ出さないように、俺のネクタイで彼女の両手を縛り上げる俺はもう末期だ。離れた後、自分自身を嘲笑してやれば、ゆっくりと俺に近づいた。
(これは、夢か……?)
初めて彼女から口付けられて信じられない気持ちでお姫さんを見やる。柔らかい唇は紛れもなく彼女自身のモノだ――ああ、もう死んでも良い。そう思うくらい幸せなことだったのだ。しかし、現実は残酷なものだった。彼女が俺に噛み付き、もう終わりにして欲しいと告げるのだから。彼女はただ反撃のために口づけたに過ぎなかったのだ。血の味と、彼女が俺を拒絶する声がやけに鮮明に聞こえた。
(薫子さんは随分と残酷なのだな)
天国から地獄まで俺の気分を落としあげるのだから。そもそもどうして俺は期待してしまったのか。そんなことをしたらこの地獄が余計に辛くなるだけなのに――虚しさを激昂にすり替えて俺は叫ぶ。
「そんな、勝手が許されるとでもいうのか。忘れるな。お前は俺が買ったのだぞ……お前は俺の妻になったのだっ!」
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