偽聖女として断罪追放された元令嬢は、知らずの森の番人代理として働くことになりました

石河 翠

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3.藍のカップを満たすもの

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 ブルーベルは、祖父がかつて交わした親友との約束により夫の元に嫁いできた。ブルーベルの祖父とスカイの祖父は、大層仲の良い親友同士であったらしい。酒の席で酌み交わした約束は、「孫が生まれたら、ぜひとも添い遂げさせよう」というもの。

 それでも普通ならば、いくら約束とはいえ叶うはずのない戯言に過ぎなかったのだ。何せスカイの身分は子爵令息。下級貴族とはいえ、平民との結婚などありえない。しかし、父親が投資した船が海で難破し、破産寸前となったことでスカイは嫁のなり手を見つけることが非常に難しくなった。いくら美貌の貴公子とはいえ、望んで泥船に乗ってくれるご令嬢などいない。そのため、ブルーベルはスカイに乞われる形で結婚することになったのである。

 結局のところ、実家の資金繰りに困っていたスカイによる持参金目当ての結婚といえよう。それでもブルーベルの夫となったスカイは、彼女のことを妻として丁重に扱ってくれた。金づるとしてお飾りの妻にされることも覚悟していた彼女にとっては、幸せな誤算だった。持参金も花嫁道具も借金返済につぎ込むことになったけれど、何とか子爵家は持ち直した。結婚当初の苦労は何だったのかと思えるほど、今ではそこらの上級貴族よりも優雅な暮らしをすることができている。しかし彼女の幸運もここまで。

 一年経っても二年経っても、ブルーベルたちは子どもに恵まれなかった。王国には、結婚して三年経っても子宝に恵まれない場合には、離縁や妾を迎えることが法的に認められている。そしてもうすぐ、その三年という期限がやってくるのだ。何せ貴族には、血を繋ぐという大切な役割がある。

 かつて落ち目だった子爵家はもはや存在しない。今のスカイは、破産寸前だった家を建て直した才覚ある美貌の貴公子。爵位は子爵と下級ながら、さまざまな分野で辣腕を奮っており、陞爵も遠い話ではないだろうと噂されている。新しく起こした商売も前途洋々、金銭的にもかなり余裕があるとなれば、ブルーベルはスカイの妻にふさわしくないと言い出す人間が現れて当然だった。

(旦那さまは、本気で商家の若奥さまを奪い取るつもりなのかしら。それとも、妾として召し抱えるのかしら。まさか、お相手の旦那さまも公認の上で?)

 あるいは自分と離縁して、それなりの身分の妻を娶ってから、自由恋愛を楽しむつもりなのかもしれない。何せ貴族の中では、浮気は紳士淑女のたしなみと言ってはばからない者ばかり。自分に辛辣な公爵夫人たちも、おおかたスカイに秋波を送ったものの邪険にされた腹いせなのだろう。まあ、それは仕方のない話だ。何せ、あのような厚化粧の年増は、スカイの範疇外としか思えない。

(そもそも、旦那さまの好みってどんな女性なのかしら。そんな話は聞いたことがなかったら、想像もつかないわ)

 考えれば考えるほど、気分の悪くなるような妄想ばかりが広がってしまう。深々とため息をついて、そっとかぶりを振った。気分転換のために外出したのに、これではすべて水の泡だ。せっかく屋敷から離れたのだから、外出を満喫せねば損というもの。それなのに、これはあんまりではないか。お目当てのパティスリーにて持ち帰り用の商品を選んでいたブルーベルは、小さく肩をすくめた。

 いっそのこと、その噂のパティスリーとやらに突撃してみるのも面白いだろうとは確かに思っていた。それでも、それはあくまで皮肉や当て擦りのようなものだったのに。

「約束が違うではないか!」
「大変申し訳ありません。どうぞお許しを!」
「ええい、黙れ。取引は打ち切らせてもらう」
「そんな! どうかお考え直しください」
「くどい。嘘つきと取引して何になる」

 いつも穏やかで冷静沈着な夫が店主に向かって激しく抗議している様子が見えた。その夫に向かって噂の店主らしき美しい女性と、その夫君だろう男性が真っ青な顔で頭を下げている。

 一体、何をしているのだろう。夫は無駄に怒ることをしない。何せ借金まみれで破産寸前だった時ですら、ひょうひょうと笑っていた人間だ。貴族は誇りと名誉を何よりも重んじるが、人前で自身の権力を誇示し誰かを罵るなど馬鹿のすることだ。いくら面子を潰された場合であっても、抗議の仕方や怒りの表し方にはよくよく気をつけねばならない。誰かさっさと夫を店の奥にでも連れて行けばよいものを。

 仲裁する気持ちなど起きなかった。揉め事の原因など知りたくもない。ともとして連れてきた侍女がちらりとスカイの方を見ていたようだが、ブルーベルは気づかない振りをした。
 
 胃が痛む。このままここにいれば、わずかばかり口にすることのできた朝食をすべてぶちまけてしまうことになるだろう。

 淑女たるもの、商品も店の扉の開閉も周囲に任せるのが当たり前だ。けれどどうしても苛立ちが抑えきれなくて、ブルーベルは商品をひったくるように受け取ると珍しく自分の手で店の扉を開けた。足元には予想外にも蟻の行列があって、踏み潰さないように慌てて踏み出した足の着地点を変えようと努力する。それがいけなかったのだろうか。転びかけて慌てて体勢を立て直したその時、そこは見慣れた王都の大通りではなく見知らぬ女性の家の中だった。
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