スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

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7 コーヒーと勝負の行方(3)

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「右から二番目のブラジル。その隣のエチオピア……」
 ハナオの口調は、客が誰であろうとも、どこに座って何をしていようとも、変わらない。淡々としていて的確で、俺の作業が客から見て不自然でないよう配慮されている。そういうことまで考えていたのだと知ったのも、最近になってからだ。
 そんな普段どおりの指示が、この日は特にありがたかった。すっきりと晴れ、厳しい寒さがふと緩んだような平日の昼下がり。客が途切れた時間帯。そんな日でありタイミングだった。祖父の旧友であり、かつての俺の客第一号である人物が再び〈喫珈琲カドー〉を訪れたのは。
 人を見て態度を変えるべきではない。接客業なら尚更。わかっていても、彼の真意を知っている今では少しばかり緊張せずにはいられない。祖父の旧友はカウンター席に座り、勝手知ったる喫茶店でコーヒーを待つ客という風情で、俺の手元に目をやっている。そんなさりげない仕草も、その奥に宿る思いにも、何故あの日は気づけなかったのだろう。
(……じいちゃんのコーヒー)
 ハナオがブレンドするコーヒーの中で、どれが祖父のもので、どれがハナオのオリジナルなのか俺には判別できない。けれど、今淹れているこのブレンドは祖父のものだとわかる。初日と、そして祖父の見舞いの日に淹れたブレンドだ。
 俺はコーヒー豆をグラインダーに入れて中挽きにし、ドリッパーにペーパーフィルターをセットする。
「ドリッパーに粉を移したら、湯がまんべんなく行きわたるようにドリッパーを軽く叩いて表面を平らにならしてね。サーバーとカップは先に温めておこう。沸騰した湯を、注ぎ口の細いポットに注ぎ直して、湯温は九十度くらい……うん、もういいよ」
 サーバーを温めていた湯を捨てて、ドリッパーをセットすると、ポットの注ぎ口を粉に近づける。
「注ぎ口と粉との距離はなるべく近く。その方が、粉に余計なストレスを与えずに注湯できるからね。そっと、粉の中央に湯を置くように。まずは粉全体を湿らせる程度の量でいい。……そこでストップ。少し待って」
 細かい泡が生まれ、コーヒー粉の中央が音もなく盛り上がる。
「蒸れたら、湯を注いでいこうか。そっと、優しくね。粉の上に湯を招くように、細くゆっくりのせて。そう、いいね、一旦止めて。粉のドームを崩さないように、蒸らしながら淹れるんだ。……さ、二湯目だよ。同じように注いで」
 〝の〟の字を描くように軽く回しながら湯を注いでいると、タチ、タチ、と音を立ててサーバーに深い琥珀色の液体が落ちてきた。粉の膨らみに合わせて何度か湯を注いだり止めたりしつつ、目的の量までコーヒーを抽出していく。
「湯が落ちきらないうちにドリッパーを外して。全部落とすと灰汁あくも出てしまうんだ。サーバーの中のコーヒー液は軽く混ぜてね。最初に出てきた方が濃いから、撹拌かくはんしないとムラになっちゃう。……さあ、出来上がり」
 カップを温めていた湯を捨てて水気を拭き取り、サーバーからコーヒーを注ぐ。ふわりと立ち昇る湯気を吸い込むような仕草をしたハナオが「うん、上出来」と呟く。
「お待たせしました、どうぞ」
 俺は祖父の旧友の前にソーサーにのせたカップを置いた。彼はカップを持ち上げ、ゆっくりと口元に運ぶ。
(うまく、淹れられただろうか)
 初日と同じ疑問を、全く違う気持ちで思う。あの日はただ手探りで淹れたコーヒーの出来栄えを気にした。今は、目の前にいる〈喫珈琲カドー〉のコーヒーを愛する客を満足させることができるかが気になる。
 とはいえ、こちらは注視するわけにもいかない。使い終わった道具や粉の始末をしながら、チラチラと窺う程度が精いっぱいだ。
「今日、見舞いに行ってきた。思ったよりも元気そうにしていたよ」
 祖父の旧友はカップを持ったまま、俺に話しかけた。
「祖父の、ですか。目を覚ましてくれて安心しました」
「カドーのコーヒーを持って行ったそうだな」
 彼は目を伏せてカップの中を見つめたまま「嬉しそうにしていた」と言うと、カップを傾けてコーヒーを飲み、再びソーサーに置いた。
「誰に教わっている?」
「え?」
「コーヒーだ。前とは違う。あいつはまだ、ここまで教えられるほど回復していないだろう」
 俺は言葉につまった。まっすぐに俺を見る祖父の旧友をごまかしたりけむに巻いたりはできないだろう。かといって、透明人間が師匠だなんて言えない。
 彼は、俺をじっと見つめた後、ふっと表情を緩ませた。
「まぁいい。その人物は信頼するに足るのだろう」
「……どうして」
「ミツ坊、お前は今、いい面構えをしている」
 俺はこの時、本当に悔しく思った。何故、祖父の旧友にハナオを紹介できないのだろう。どうして、自分はこの人に教わっているんだと、誇らしく言うことができない。
「この店はいい香りがするな」
 そう言い置いて〈喫珈琲カドー〉を後にした祖父の旧友は、満足そうな表情を浮かべていたように思う。それが気のせいでないことは、カウンターのそばに立ったハナオが恭しく指し示した手の先で、空になったカップが物語っていた。
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